第16話
そこは俺にとって忌まわしい記憶のある場所だった。
公園から程近く、歩いて10分もしない。
元カノにこっ酷く振られた病院だ。
もうとっくの昔に彼女が異動になったとはいえ、忌避感は拭えない。
けれど今は、その過去の記憶なんかより遥かに嫌な感覚と予感が付き纏う。
あの時と同じように、仕事も放り出して面会の受付を済ませた。
神妙な顔で俯いたクソガキが、足取り重く隣を歩く。
巨大な施設内を進んで付いた先の部屋には、ベッドが六つ並んでいた。
その一番奥へとクソガキが歩いていく。
仕切りのカーテンを捲れば、久しぶりのご対面だ。
「……よう」
身体を包んでいた緊張感が、僅かながらに緩んだ。
想像していたよりも、最悪な事態とは遠いように見えたからだ。
「ま、松井さん? 愛姫、どうして……」
座椅子のように背もたれが上がった病室のベッドの上で、紗妃が困惑したように娘に問う。
どうして俺がここにいるのか、どうして連れて来たのか、その目が訴えていた。
「どうしてはこっちのセリフだろ。こんなとこで何してんだお前。クソガキから入院したとは聞いたけどよ」
「これは、その……」
「具合悪いんならちゃんと説明してやれよ。こいつ、お母さんが死んじゃうかもって泣きそうだったんだぜ? 何も言わずにガキのこと不安にさせてどうすんだよ」
唯一の肉親が突然の入院、しかも「大丈夫だから」としか聞かされず、詳細は不明。
そりゃクソガキがあんな顔するのも納得だ。死ぬほど不安で心細かっただろう。
クソガキの方を見れば、俺に泣きそうだったと言われたことさえ気にせず、ジッと紗妃からの返答を待つように見つめている。
「……」
しかし紗妃は俺の問いかけに何か言い淀むような素振りを見せて、けれどやはり口を噤んだ。
直前にチラリとクソガキを見た辺りで、何となく理解する。
「クソガキ、前に行った喫茶店分かるよな?」
「え、うん」
「ちょっとそこ行ってろ。好きなもん食ってていいから」
「な、なんで?」
「これからお前の母親にちょっと説教食らわすからだ。娘に叱られる姿なんて見られたくないだろ。母ちゃんの気持ち察してやれ」
「なんでお母さんのこと怒るの!?」
「なんでもだ」
「分かんないよ!!」
納得がいかないようにクソガキが吠える。
病室なんだから静かにしろ、とは咎められなかった。
「こいつが退院したら、遊園地でも水族館でも、こいつと一緒に連れてってやるから、今は大人しく言うこと聞いてくれ。頼むよ」
「でも……」
「あとで理由もちゃんと説明するから」
「……分かった」
思えば、これまでクソガキにこんな真面目な調子で語りかけたことはなかった。
だからか、そんな俺の様子を受けて渋々病室を後にする。
その小さな背中を見送って、紗妃へと向き直った。
「私、叱られてしまうんでしょうか」
「内容次第だな」
おそらくはクソガキには聞かせたくない内容なのだろう。だから席を外させた。
言えない理由は二つしか考えられない。
経緯が言えないか、原因が言えないかだ。
経緯であってくれとは切に願う。
それこそ、馬鹿な男のせいで入院する羽目になったとか、そんな取り返しの付くものであってほしい。
「……病気なんです。今に始まったことじゃありません」
「――っ」
その一言で、願いはあっさりと打ち砕かれた。
生唾を飲み込み、自分の表情が強張るのを感じる。
だって、そうだろ。
不安にさせてまで原因を子供に言えないってことは、つまり、軽い問題じゃなくて……。
「それ、やばい病気か……?」
「遊園地、行けたら素敵だったんですけどね」
……なんだよそれ?
冗談だろ。ちょっと待ってくれよ。
「もしかして、死んだりするやつか……?」
「……」
なんか答えろよ。
その、深刻そうな空気、やめてくれよ。
「嘘だろ……?」
紗妃が小さく顔を横に振るだけで応える。
ずいぶん落ち着いて見えるそれは、けれど、だからこそどうにもならないのだと感じさせた。
それはおそらく、諦めだった。
しばらく、絶句して何も言えなかった。
何から聞いていいか、何を言ってやるべきか、まったく思い付かない。
けれど、頭の端の方で、どこか冷静な思考が辻褄を合わせていた。
だからだったのかと、納得していた。
今までの紗妃の言葉が、その背景を浮き彫りにしていく。
「お前、あいつを一人にしたくないって、そういう意味かよ」
それは、さすがに、きついだろ……。
そういうことかよ。
そういうことだったのかよ。
「自分と同じ目に合わせたくないって、そのままの意味かよ」
確かこいつは、身寄りがなくて施設で育ったと言っていた。
心配なんだと、独りにしたくないと、苦労してほしくないと、男探しに躍起になる紗妃に俺が苦言を呈す度に何度もそう言っていた。
そして、早く相手を見付けなければとも。
混乱する。
だって、そんなことを抱えていただなんて、気付きもしなかった。
ただ要領の悪い、子供思いの若い母親なだけだって、そう思ってた。
焦るだけの事情があるだなんて、気付きもしなかった。
なんだよ。
なんなんだよ、これ……。
「いつから、分かってた?」
「……何年か前に、調子を崩してこの病院にかかったんです。最初は原因が分からなくて、しばらくしたら治ったから大丈夫だと思ってて、けど検査の結果で遅発性の病気だと分かって」
続くところは答えない。
俺は医者じゃないし、詳しいところは分からない。
けど、遅発性で、その表情で、入院したってことは、つまり……。
「勘弁、してくれよ」
思わず顔に手を当て、ベットの傍らにある椅子へと腰が落ちる。
仕事柄、病気の深刻さだけは十二分に分かってしまった。
おそらく、――快復の可能性は低い。
しかも、発症してからの期限が決まっている。
「馬鹿じゃねぇの、お前……」
絞り出すように呟く俺の声に、紗妃は困った顔をしながら、けれど何も答えなかった。
ずっと、いつくたばるかも分からなくて、けど、将来的に死ぬのは明らかで。
それを承知の上で、子供がいることも納得して、自分が死んだ後も任せられる相手を探してたとか。
いるはずねぇだろ、そんなもん。
説明したら振られるに決まってんだろ。馬鹿かよ。
そんな状況でずっと一人で足掻いてたのかよ。
クソガキのために、自分のことなんか二の次で、たった一人で抱え込んで、足掻き続けてたのかよ。
「もう少し、期間があると思ってたんですけど、ダメだったみたいです」
「ダメだったってお前……」
顔を上げると、二人で話し始めてからずっと変わらない紗妃の顔があった。
困ったように眉を下げて笑うばかりだ。
「お前その愛想笑いやめろよ。何ていうか、……見ててきついわ。泣いてくれた方がまだマシだ」
「いえ、なんというか、自分でもどうしたらいいか分からなくて。もう少しぐらいは猶予があると思ってたんですけど、こんな……」
おそらく、紗妃も戸惑っている渦中なんだろう。
当たり前だ。
こんなの、どうやったって途方に暮れる。
「新しい男は、このこと知ってんのか?」
「……ごめんなさい。あれ、嘘です」
その言葉に一緒呆気に取られて、かつてないぐらいのため息が漏れた。
なんでそんな嘘を付いたのか、分かってしまったからだ。
「なんで病気のことを俺に隠した。腐っても娘と一緒に遊び行くぐらいの仲ではあっただろ」
「すみません、松井さんには、何故か言い辛かったんです」
「本当、勘弁しろよお前」
言う言わないはこいつの自由だ。
けど、なあ、マジかよ。
どうすりゃいいんだよこれ。
これでこいつが今にもくたばりそうならまだ俺も取り乱せるけど、内容ばかりが深刻で、平気そうな紗妃を目の前にするとあまりに現実感がねぇよ。
どう反応すりゃいいんだよ。
その後、話を聞けば聞くほど、どうしたらいいか分からなかった。
その病気は、最初の感染時症状から数年の潜伏期間を経て本格的に発症するというものだった。
今は普段とあまり変わらないように見えるが、手足の末端から動かすことが困難になり、次第に臓器の機能が衰え、やがてその心臓をも止めるらしい。
発症してからも出来る限り入院を避けていたが、つい先日、入院せざるを得なくなったのだと。
そして、薬で進行を抑えることは出来るが、根本的な治療法は――ないらしい。
俺はそこまで聞いて、核心に触れた。
「……あと、どれぐらい持つんだ?」
「お医者さんが言うには、発症してから大体三ヶ月ぐらいだと仰っていたので、あと二ヶ月ぐら」
紗妃の言葉は、けたたましい音でかき消された。
俺が思わず立ち上がって、椅子が倒れたからだ。
「に、二ヶ月……?」
「はい」
「お前、今、十一月だぞ」
「はい、知ってます」
「二ヶ月って、来年の一月だぞ?」
「そう、ですね」
困惑して、当たり前のことを聞いてしまう。
それこそ小学生でも分かるような時間計算を確認してしまう。
だってあまりにも、短すぎる。
「けど、実はそうも言ってられないんです」
「え?」
「この病気、とても珍しいらしくて、お薬に保険が効かないから高額なんです。それに、入院費もあって……。だから、多分もう……、愛姫と、愛姫といれる時間が、こうしてられる時間が、一ヶ月あるかさえ……、私……」
話しながら、紗妃が初めてポロポロと泣き始めた。
言葉に詰まりながら、けれど嗚咽を漏らすでもなく、表情を崩すでもなく、ただその瞳から、大粒の雫が白い頬を幾つも伝った。
涙を拭うこともせず、自分の手元を濡らし続けた。
その様子を受けて俺は、立ち尽くすことしか出来なかった。
声をかけるとか、何かを考えるとか以前に、動くことさえ出来なかった。
それからしばらくして、紗妃が一言だけ俺に告げた。
「今日はもう、帰って下さい。……ごめんなさい」
そのごめんなさいが、何に対してなのか、どう言った意味なのかすら、俺には分からなかった。
ただ、その言葉を拒否する術を俺は持たなかった。
「……また、近いうち来る」
「ええ」
頷きながら紗妃が笑った。
冗談だろうと、思った。
なんでこんな状況でそんな顔が作れるんだよ。
今までだってどんな気持ちで、病気のこと抱えながら生きてきたんだよ。
気付けなかった自分のことが恥ずかしくなるぐらい、その作られた笑顔が胸に刺さった。
最後に「また」とだけ声をかけ、カーテンを閉めて、そして、
――心臓が止まりそうになった。
左右がカーテンに覆われた病室の中心。
そこには、微動だにせず固まったクソガキが、……愛姫がいた。
その姿を確認し、同様に固まった俺と目が合う。
数瞬後、逃げるように愛姫が病室から駆け出した。
俺は、カーテン越しの紗妃に気取られないよう、その背中を追った。
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