21.恋の終わりと変わりゆくもの

 八剣家に向かった恵茉とオレは、緊張した様子で待っていた蓮さんと末菜さんと居間で座卓を挟んで相対した。正座をして背筋を伸ばす彼女に、二人は慎重に言葉を選びながら、オレに聞かせてくれた話を語る。それを彼女はただ黙って、静かに耳を傾けていた。


 全てを語り終えた二人が、緊張した面持ちで恵茉を窺う。重い沈黙の中、くんっと袖を引っ張られる感覚に隣を振り返ったものの、その顔に変化はない。それでも、掴まれた袖から伝わる微かな震えに、彼女なりの精一杯の強がりが透けて見えた気がした。


 その手をそっと握れば、ハッと驚いた様子で恵茉が振り返る。もしかしたら、無意識の行動だったのかもしれない。そんな彼女に頷いて見せれば、恵茉は一つ深呼吸をして、蓮さんと末菜さんを真っ直ぐ見て口を開いた。


「お母さんと八剣先生の結婚、認めてもいいけど、一つだけ条件をつけさせてほしいの」


 提示された言葉に、目の前の二人が緊張した面持ちで続きを待つ。何を言うのかとオレも恵茉を見れば、彼女はオレをチラリと見たあと、二人に顔を戻して言った。


「類さんもしばらく一緒に住む。それが絶対条件」

「……え、オレ?」


 全く予想していなかった言葉に、目を瞬かせる蓮さんたちではなく、思わずオレの方が声をあげてしまった。そんなオレに彼女はあっけらかんと言い放つ。


「だって、類さんが居なかったら、私一人だけポツンと残っちゃうじゃないですか」

「そんなことにするつもりはない! オレは末菜も唐崎もどちらも大事にする!」


 長い付き合いだし、そもそも蓮さんは恵茉の気持ちを知らないし、悪気がないのもわかってるものの……。その言葉の威力を考えると、匂わせ程度でも伝えた方がよかったんだろうかと頭を抱えたくなる。そっと隣を見れば、恵茉は悲しげに、それでも気丈に笑って見せながら言った。


「完全に受け入れるのには、どうしても時間が必要なんです。だから、私が八剣先生を父とそう呼べるようになるまでの間、私の逃げ場所として類さんに居て欲しいんです」

「唐崎……」


 恵茉の言葉の真意が、どこまで二人に伝わっているかはわからない。けれど、彼女の言葉を受けた蓮さんは一度視線を伏せたあと、オレの意志を問うように振り返る。その目に迷いはなかった。


「オレは三人がいいなら構いません。すぐに引っ越せと言われるよりはオレも楽ですから」


 そう返せば、蓮さんは『そうか……』とホッとした様子で呟いて口を閉じる。その横で、末菜さんが気遣わしげに問いかけた。


「恵茉、本当にいいの……?」


 彼女の言葉に、恵茉の喉が小さくヒュッと鳴った気がした。オレの手を握る小さな手に力が籠もる中、末菜さんは娘に向けて言った。


「恵茉が受け入れてくれたら、嬉しい。でも、この話は決して恵茉に無理をさせるためじゃないの。だから……」


 そこで言葉が途切れると、再びシンと静まり返る。そんな中、やや痛いくらいにオレの手を握った彼女は、荒れているであろう気持ちを吐き出すように、深呼吸をして言った。


「全然無理してないって言ったら嘘になるよ。だけど、私が許さなかったらお母さんは八剣先生と別れるの?」

「それは……」

「そうじゃないから、今回の話になったんでしょ?」


 言葉を濁した末菜さんは、恵茉の問いかけに気まずそうに視線を彷徨わせる。そんな彼女に、恵茉は僅かに唇を噛みしめたあと、少し歪な笑顔を浮かべて言った。


「今すぐは無理だけど、それでも私は受け入れるって決めたから」

「恵茉……」


 末菜さんの目に涙が浮かぶ。彼女に笑って見せた恵茉は、蓮さんを真っ直ぐ見つめて言った。


「そういうわけなので、八剣先生。これから母共々よろしくお願いします」


 ぺこりと頭を下げた彼女の声は凜としていて、震えはなかった。けれど、真剣な顔で『こちらこそ』という蓮さんの返事に、彼女の手はここ一番力が籠もっていた。


***


 そうして、どうにかこうにか話が纏まった後、オレはズンズン先を行く恵茉に引っ張られる形で、莉音たちが待つ公園に向かい進む。


 日が落ちたあとだと言うのに、もう一度出かけると言った彼女に、蓮さんも末菜さんも心配そうにしていた。それでも『今日だけは目一杯遊んでおきたいの』という言葉を前に、二人も強く止めるのは躊躇われたらしい。あまり遅くならないことを条件に、二人に見送られてオレたちは八剣家を後にした。


 無言で進む恵茉の背を見ながら歩いていると、急にピタリと足を止めた彼女はオレの手を離し、やや俯きがちに言った。


「手、ごめんなさい」

「別に大したことないから気にしなくていい」


 本音を言えばそれなりに痛かったものの、彼女に今かかっているであろう負担に比べたら些細なことだ。そう思って返せば、呆気に取られた様子で振り返り、彼女は泣きそうな顔で『ありがとう』と言った。


 二人並んで歩く中、沈黙を破ってオレは問いかけた。


「言わなくて、よかったのか?」

「……いいんです」


 オレの問いに、彼女は膨らみ途中の月を見上げながら、足を止めずに続けて言った。


「失恋確定してるのに伝えても、お母さんの再婚をぶち壊すか、ただただ気まずくなるだけだし。それに……先生の中の私、子供でしかないんだなって話を聞いててよくわかったから」

「恵茉……」

「だから、これでいいんです」


 悲しげに微笑んで振り返る彼女に、オレは『そうか』以外何も返せず、そのまま二人とも無言で足を動かす。そうして目的地に辿り着くと、ブランコに腰かけていた莉音が慌てて立ち上がり、駆け寄ってきた。


「恵茉ねえっ!」

「寒い中待たせてごめんね、莉音」

「そんなのっ……!」


 泣きそうな顔を左右に振ったあと、莉音は恵茉の手を握りしめた。そんな彼女につられるように、恵茉の瞳にじわりと涙が滲む。それを堪えるように、彼女が唇を噛みしめたときだった。


「我慢しなくても大丈夫だから、思いっきり泣いたらいいよ」


 そう言ったのは、ゆったりとした足取りで近付いて来た陸だ。彼の言葉に、恵茉の目に溜まっていた涙がポロリと溢れる。そんな彼女の頭をそっと撫でて、陸は続けて言った。


「頑張ったね、恵茉ちゃん」


 彼のその言葉に、恵茉の口から嗚咽が洩れる。そして、それにつられた莉音と共に、彼女は声をあげて泣いた。


 彼女の泣き声は、街の音にかき消され、きっと蓮さんたちには届かない。彼女が心にしまうと決めた想いと同様に。だからせめて、彼女が蓮さんを想っていたことを、蓮さんの代わりに覚えておこうと、心に刻む。


 どれだけ前世と似ていたって、同じになるとは限らないんだという現実と共に……。


***


 それから年が明け、半月が経とうという頃の金曜日の夕方。夕飯の支度をしていると、玄関の戸の開閉音が響く。やや遅れて、廊下に通じる引き戸が開いて、そーっと恵茉が顔を覗かせた。


「おかえり、早かったな」

「た、ただいま……」


 そう言った彼女の格好は、学校の制服じゃなくて私服だ。


 さすがの蓮さんも、大事な時期に引っ越しという形での同居は考えていなかったらしい。提案されたのは、恵茉が自宅で過ごしていた時間を八剣家に通い過ごすというもの。ご飯は蓮さんとの二人暮らしの時同様、オレと蓮さんで担当して、恵茉は勉強に専念する。その上で、オレたちがいるときはその勉強を見る、というのが蓮さんの考えていた計画だった。


 蓮さんの提案に恵茉はさほど迷わず頷き、こうして学校のあとは私服に着替えて八剣家にやってきていた。夜遅くなったときに泊まれるように宛がわれた客間には、恵茉の持ち込んだ勉強道具が日々増えつつある。寝間着なども、ほんの少しずつ。


 今いる台所もそうだ。男っ気しかなかった食器棚には、女性が好みそうな食器が少しずつ足されていっている。確実な変化を感じつつ、コタツに入った恵茉を見れば、目が合った。


 どうやらこちらを窺っていたようで、ハッとした様子で彼女は固まり、ぎこちない空気が漂う。『どうした?』と問えば、背中を丸めコタツ布団に隠れるようにして、彼女は問いかけた。


「今日のご飯は何ですか?」

「カツ丼だ」


 そう返せば、恵茉は呆気に取られた様子で目を瞬かせる。その反応に何かまずかったかと思い尋ねた。


「嫌いだったか?」

「あ、いえ、そういう訳じゃないですけど……。類さんの料理おいしいし」

「そりゃよかった」


 生活サイクルの関係上、ほぼほぼ夕飯作りを担当していた甲斐があったというものだ。とはいえ、それなら先の反応はなんだったのか。そう思いつつ視線を送れば、彼女はもじもじとした様子で言った。


「……もしかして、明日が受験だから、とか?」

「そうだ」


 大事な試験の前の勝負飯と言えば、カツ料理を置いて他にない。調理を再開しつつ返せば、恵茉は小さく笑って言った。


「類さんって、験担ぎするタイプだったんですね」

「験担ぎでいつもどおり試験に臨めるなら、それに越したことはないからな」


 ただの気休めなのは百も承知だ。それでも人間が気持ちを保つ上で手っ取り早い方法が、こういう験担ぎやジンクスだとも思ってる。


 そんなオレの言葉に『そうですね』と言ったあと、恵茉はポツリと呟いた。


「私、この生活もっとキツいかなって思ってました」


 その言葉に手を止めて顔を上げる。オレの予想とは異なり、穏やか表情を浮かべた彼女は、コタツに寄りかかりながら続けた。


「でも、灯のついてる家に『ただいま』って言って、『おかえり』って言って貰えるの、こんなにホッとするものだったんだなって……思い出しました」

「前は違ったのか?」


 そう問いかければ、寂しげな顔を浮かべて彼女は言った。


「お父さんが死んで、お母さんがパートから正社員になって働くようになってからは、ただいまって言ったことあんまり……。日勤のときは私の方が帰り早いし、夜勤のときは出たあとだったり、間に合っても夜勤に備えて寝てる場合起こしちゃいけないと思って」

「なるほど……」


 父親を亡くした上に、仕事に追われる末菜さんに気を遣って家事の一切も請け負って、さらに受験勉強……。そりゃ、ストレス過多にもなるよな、と思う。蓮さんが放っておけないと判断したのも、正直今なら少しわかる気がした。


 お泊まり会のような半同居生活を始めて、約半月。たった半月、されど半月というか、あのクリスマスイブの荒れ具合からすれば、今の恵茉はすごく穏やかだ。


 つられるように、末菜さんも明るい印象に変わった。蓮さんが間にいなければ、恵茉ともギクシャクしないし、普通に仲のいい母娘だと思う。もしかしたら、蓮さんが見ていられなかったのは恵茉だけじゃなかったのかもしれないと思うくらい、二人の変化は著しかった。


 あの一件を手放しに『よかった』とは言えない。それでも結果的にいい方向に行ったのはよかったなと素直に思う。そんなオレに恵茉が苦笑しながら言った。


「今さらだけど、類さんまで巻き込んじゃってごめんなさい」

「確かに今さらだな」


 軽口を叩く反面、そういうところに意識が向けられる程度には余裕ができたらしい彼女に、自然と口元が弛む。


「まぁ、首を突っ込むと決めたのはオレだし、気にしなくていい。それよりもだ」


 オレの言葉に首を傾げる彼女に、お玉を向けて言った。


「これで明日と明後日の試験、手抜いたら承知しないからな?」

「それはもちろん」


 胸を張り、勝ち気な笑みを浮かべる恵茉とオレは互いに小さく笑う。そうして、オレは調理に、彼女は明日に向けての勉強に取りかかった。


 二人で夕食を食べたあと、最後の追い込みと称してコタツで恵茉の勉強を見ていたときだった。


「ただいま」


 その言葉と共に居間の戸を開けたのは蓮さんだ。コートも脱がずに、後ろ手で何かを持った蓮さんは、ソワソワした様子で恵茉の前に立って言った。


「あー……その、渡したいものがあってだな……」


 恵茉がキョトンと首を傾げれば、蓮さんが出したのは合格祈願のお守り。それも一つや二つじゃなく、いろんな寺社仏閣のものが大量に。それにオレも恵茉も目を瞬かせる。お守りの山を渡した蓮さんは一つ咳払いをして、至って真面目な顔で言った。


「引率にはオレもついていくが、あくまでも教師としての引率だから、今のうちに言っておく。これまでの努力と、自分を信じて頑張って来い」


 教師としてではなく、蓮さん個人の激励なんだろう。両手いっぱいのお守りの山を見つめると、恵茉はそれをそっと抱きしめて『ありがとうございます』と笑ったのだった。

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