13.交わす約束はルスティカーナ

 莉音の前世を確信したその翌週末のこと。十二月に入り、徐々に年末の慌ただしさが増していく中、オレはバイトのため月村家を訪れていた。


 今日は月村夫妻も仕事は休みなのか、出迎えてくれたのは莉音によく似た月村先生の奥さん――安那あんなさんというらしい――だった。先生も交えて挨拶もそこそこにお邪魔すると、二階から小走りでやってきた莉音が、待ちきれないとばかりに口を開いた。


「類先生、聞いて聞いて!」

「こら莉音。聞いての前に、ちゃんと挨拶しなさい」


 腰に手を当てた奥さんに窘められると、莉音はやや不満げな顔を見せる。けれど、無言の厳しい眼差しに屈したようで、不承不承ながら挨拶を口にした。


 先々週初めて会ったときは、最初こそ笑顔で礼儀正しい反面、よそよそしかったのに比べると雲泥の差だ。その分、彼女との距離が近くなった気がして、それがただただ嬉しかった。


 そんなオレに、奥さんは申し訳なさそうな顔で言った。


「ごめんなさいね、落ち着きない子で……」

「いえ、元気なのは良いことじゃないかと」


 ちょっと……いや、かなーり元気が過ぎる気がしないでもないけど。でもそれは口に出さずに笑顔を返せば、苦笑が返ってきた。


 そんなオレたちの会話をどう捉えたのか、莉音がオレの背後に回り、押しながら言った。


「ほら先生、世間話はあとにして、早く部屋に行こう!」


 彼女の言動に、どこか楽しげに笑って月村夫妻は居間の方へと姿を消し、オレ達は莉音の部屋へと向かったのだった。


 部屋に着くなり、言い渡してあった宿題を受け取り、目を通す。その間、莉音は教科書とノートをテーブルに置くと『早く話したい』とばかりに、キラキラとした眼差しをオレに向けた。


 そんな彼女の始めの頃とは真逆の反応に小さく笑いながら、オレは手元のノートから顔を上げて問いかけた。


「で、どうしたんだ?」


 そう聞けば『よくぞ聞いてくれました』とばかりに、ドヤ顔で胸を張って彼女は言った。


「例の謎の眠りに見舞われずに済んで、なんと一週間経ったの!」

「おお、そうなのか?」


 まだ改善したと判断するには早計とはいえ、彼女が喜び勇み足気味になるのも頷ける。授業についていくのがなかなか難しいと言ったときの顔は、本当に不安そうだったから尚更だ。協力してくれた陸や宝条先輩にも伝えたら、きっと喜ぶだろうなと思いつつ、彼女に言った。


「よかったな」

「きっと、類先生のおかげだね」

「え?」


 思いがけない言葉に目を瞬かせれば、彼女はふわりと笑って続けた。


「類先生が見つけてくれた漢方薬飲み始めてからだから、きっとその効果もあるんじゃないかってお父さんも言ってたし」

「だといいけどな。だけど、まだ原因ははっきりしてないって先生から聞いてるし、あまり楽観視し過ぎるなよ?」

「もー! なんでそういうこと言うかなぁ」


 頬を膨らませる莉音のそんな仕草一つも可愛らしい。リオンの生まれ変わりだと確信してから特にそれが顕著で、そんな自分の心の変化に自嘲しそうになるのを堪えながら、オレは小さく息をついて言った。


「何でも何も、莉音は肝心なところで抜けやすいからな。例えばほら、ここの証明問題」

「え? ……あ」


 採点していたノートを彼女に向けて見せて、問題の箇所を指し示せば、最初こそ訝しげな顔をしていた莉音の口元が引き攣る。


「途中まで見本にしても良さそうなくらいだったのに、なんで最後の最後に凡ミスするんだ?」

「うっ……それ、学校の先生にもよく言われる」

「……だろうな」


 本人が指摘されて見たらすぐわかるようなミスだ。実際、これまでの傾向を見てもそれは明らかで、こんなところで前世の特徴を引き継がなくてもいいだろうに、と思ったりした。


「とにかくだ。調子のいいときほど、最後の最後で小さな、でも結果的に回答が台なしになるミスをしやすい傾向があるから気をつけろ」

「……はい」

「ここまで挽回できたんだ。あとはそこさえ気をつければ、来週の定期考査も問題ないはずだから、頑張れ」


 しゅんとしてしまった様子の彼女に、軽く檄を飛ばす。すると、彼女はそーっとオレを上目遣いで見上げてきた。その表情が、前世でリオンが何かお願いしたいときに見せた顔に重なり、思わずドキッと胸が鳴る。


「ねぇ、類先生。定期考査頑張ったら、何かご褒美とか欲しいって言ったら、ダメ?」

「ご褒美? ……例えば?」

「んー……今すぐは思いつかないかなぁ」


 思いつかないのに、なんで褒美をオレに強請るのかはよくわからない。けれど、わざわざ口に出すだけの何かはあるんだろうと思いつつ返す。


「まぁ、無茶ぶりしないって言うなら、オレに可能なことなら構わないけど」

「ホント!?」

「あ、ああ……」


 突然身を乗り出してくるのは、正直オレの心臓が持たないからやめてほしい。特にここ一週間は、前世のリオンに重なる行動も増えてきていて、手を伸ばしたくなるし、鼓動が早くなり気味だから尚更。


 とはいえ、そんなの知るはずもない彼女は、差し出した右手の小指を立てて言った。


「約束!」

「はいはい、約束な」


 平常心平常心と思いながら、自分の右の小指を絡めて指切りをする。他愛のないただの約束だ。けれど、小指を離して座り直した彼女は、酷く嬉しそうに笑って言った。


「ふふっ、ご褒美楽しみだなぁ……」

「まだ定期考査自体始まってないんだ。やる前から気を抜くなよ?」

「大丈夫。私、ご褒美がある方が頑張れるタイプだから!」

「……左様で」


 そう言えば前世でも、何か褒美を設けてたときの集中力はハンパなかったなと思い返す。オレの回想中の顔を見た彼女は『心外だ』とばかりに声を上げた。


「あー! 類先生ってば、信じてないでしょー!?」

「信じてる信じてる。オレも月村先生にいい報告できる方がありがたいし、期待してる」

「……言葉がものすっごく軽い」


 ぶす~っと口を尖らせる彼女に対し、採点をササッと済ませて言った。


「じゃあ、期待してるから、定期考査に向けて次のダメ出し行くぞ」

「類先生の鬼ーーーー!!」


 涙目で訴える彼女の反応に笑いを噛み殺しながら、オレは自分の心の奥底にある想いそれを他人事のように見て見ぬフリをする。そうして、オレはその日も家庭教師としての責務に励んだのだった。


***


「ご褒美、ねぇ……」


 学食の日替わり定食のパスタを絡めながら、僅かにニヤニヤと笑いながらそう言ったのは陸だ。最近どうかと聞かれて答えた結果、ニヤニヤ笑われるのは解せぬ。


「なんだよ?」

「べっつにー? 何だかんだで上手くやってるんだなって思っただけだよ」


 楽しげにそう言って、フォークに巻き付けたパスタを口に運んで行く。それを眺めたあと、オレは手元のオムライスをスプーンで弄りながら言った。


「まぁ、今のところは、な……」

「何、その意味深発言」


 陸が浮かべる表情から察するに、何か甘い話でも期待してるんだろうが、生憎そんな理由じゃない。


「最近、急に莉音がリオンに似てきたというか……、ダブることが増えたんだ」

「それがどうしたの?」


 キョトンとした様子で問われて苦笑する。まぁ、陸は最初から記憶があった上に、オレより遥かに前世と向き合ってるから大したことじゃないのかもしれない。それでも、今のオレにとっては結構な大問題だった。


「前世と重ねないようにと思うのに、重ねそうになるんだよ……。莉音はリオンじゃない。ルイスが好きだったリオンを、彼女に重ねるわけにはいかないのに」


 莉音の前世がリオンであっても、今はリオンじゃない。だからこそ、リオンと同じ扱いをすべきじゃない。莉音として扱うべきなのに、重なって見えれば見えるほど、それがどんどん困難になっていく。正直、ここ数日のオレの内心は、目の前でぐちゃぐちゃにかき混ぜられたチキンライスと卵みたいに、いろんな感情で滅茶苦茶だ。


「錯覚しそうになって、触れたくなるんだ。リオンを相手にしていたときのように……。そんなのダメだとわかってるのに」

「類……」


 オレにとって莉音は、前世の恋人の生まれ代わりだ。けれど、莉音にとって、類はただの家庭教師であって、恋人でも何でもない、赤の他人。


 触れていいはずもないのに、笑いかけられる度、その髪に触れたくて、抱きしめたくなる。夢で相変わらず、リオンとルイスだった頃のことを見るから余計にだ。


 特に最近は、想いを告げたあとのことばかり夢に見て、夢で触れているからこそ現実でも触れたくて、笑顔を見ていると無性に堪らなくなる。


 類として生まれてから、実りこそしなくても初恋だってあった。付き合った女子だっていなかったわけじゃない。そのときだってここまで感情を持て余すことなどなかったのに、莉音に関してだけはそれが上手くできない。グルグルと思考だけが渦を巻いて出口が見えない。


 そんなオレに陸は言った。


「まぁ、今はまだ混乱してるのもあるんだろうし、焦らず行ったらいいんじゃない? 相談ならいくらでも乗るからさ」


 きっと陸だって相当悩んだことだろうに、それをおくびにも出さずに笑う。そんな親友の温かな気遣いは、じんわりとオレの心に染み入ったのだった。




※ ルスティカーナ:素朴なの意

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