2.夢の始まり

 綺麗な満月が浮かぶ澄み切った夜空に、見たこともないどこかの湖。見たことはない……はずなのに、どうしてだろう。とても懐かしい気がする。


 そんな湖のほとりで、私は月を見上げながら歌を歌っていた。


 知らない歌のはずなのに、旋律に乗せられた歌詞が、勝手に口から紡がれていく。どこかへ飛んで行きたい、そんな気持ちとは裏腹にどこか諦めが見え隠れする歌詞が、辛くて切ない。こんな綺麗な夜は、悲しい歌じゃなくて、もっと楽しくて嬉しくなる歌を歌いたい。


 そんなことを思いつつ、しばらく満月を見上げた私はふと振り返って言った。


「もう戻らないとね」


 振り返った先にいたのは、ファンタジーな衣装を着た男の人。月明かりに照らされれた茶色の髪が、さらさらと夜風に揺れる。深い緑色の瞳がとても印象的な彼は、どこか切なげに微笑み、右手を差し出して言った。


「そうだな。いい加減、エマが待ちくたびれてるはずだし、リオンも説教は短い方がいいだろ?」


 見知らぬ彼の口から最後に出てきたのは、私の名前。一緒に出てきた名前も、子供の頃からよく一緒に遊んでいる年上の幼馴染と同じだ。


 どうして私の名前を知っているの? ここはどこなの? あなたは誰?


 そう問いかけたいのに、口が思うように動かなかった。口だけじゃなく、体の自由も利かない。まるで別の誰かに操作でもされているかのように、彼の言葉と手に誘われるまま、私の手足が動く。


 暗い森の中、彼の手を握り、ぼんやりと浮かぶ灯を目指して歩いて行く。そうして森を抜けて、最初に見たのは、白い石造りの大きな建物。それはまるで、ヨーロッパの古い教会のような佇まいだった。まぁ、お父さんとお母さんのアルバムで見たものくらいしか知らないんだけど。


 さっきの湖と同じで、なんだか不思議な既視感を覚える建物の中を、彼に手を引かれるまま進んでいく。雑談のようなものは基本ない。むしろ、名前すら呼ばずに、えーっとなんだっけ。そうあれだ。慇懃無礼いんぎんぶれいっていうヤツ。とにかくこう、ものすご~く堅苦しく振る舞ってる感じがした。


 それにしても、ツキミコ様って何だろう? 月の巫女、っていう変換であってるのかな?


 そんなことを思いつつ、半歩先を行く彼を観察する。瞳と同じ深い緑のマントを靡かせる彼の腰には、一振の西洋風の剣。本物なのかどうなのか、よく見ようとしたら勝手に目線が外れて、結局わからなかった。辿り着いたのは、何だか随分ときらびやかな扉の前。


 扉の前に立った彼は、一瞬ノックを躊躇った気がしたけど、コンコンと叩いた。中から応じる声が聞こえて、少しして出てきたのは、黒髪に明るい茶色の目の女の子。和服のような衣装を除けば、その顔立ちは幼馴染に瓜二つだった。


「お帰りなさいませ、月巫女さま。こんな夜遅くまで、一体、どちらへ、いらしてたんですか?」


 うん、笑顔なのにものすごーく怖い感じがするところから、怒ってる声音まで、恵茉えまに本当にそっくりだ。そんな彼女は私の隣に立つ男の人を、じろりと睨んで問いかけた。


「ルイス様、ご説明いただけますか?」


 どうやら彼の名前は『ルイス』と言うらしい。日本人っぽくない名前を聞く限り、いよいよファンタジー染みたことになってきた気がする。そんなことを思う中、彼は澄まし顔で口を開いた。


「月巫女さまが星見をご所望でしたので、それに同行していたまでです」

「私が待っているのをご存じのはずなのに、こんな遅くまで、ですか?」

「少々事情があったものですから」

「その事情とやらは、ご説明いただけるんですよね?」

「……私からは説明いたしかねます」


 そう言って彼が口を閉ざせば、恵茉ねえと同じ色の瞳が私に向けられる。幼馴染にそっくりな顔で、じろりと睨まれると私のことじゃないはずなのに、私まで緊張する。


「月巫女さま、ご説明いただけますか?」

「え、えーと……」


 勝手に動く口はもごもごと要領を得ない返事をする。


 何か言いにくいことでもしてたのかな?


 それにしても、恵茉ねえにそっくりな彼女に、畏まって喋られるのは、怖い以上に何だか寂しい。同じ人ではない、ように思うけど、それでも距離を感じるのがちょっとだけ辛い。


――……おん。


 ルイスさんと同じように、名前で呼んでくれたらいいのになぁ……なんて思ったその時だった。


――りおん!


 聞き覚えのある声が聞こえた途端、急に周囲の景色が朧気になって遠のいていく。遠のく最中、私が見たのは、青くて長い髪と和風な衣装の背中だった。


***


莉音りおん!」


 その声にハッと目を開ければ、最初に飛び込んできたのは知らない天井……じゃなくて、見覚えのある白い天井。それがどこだったか記憶を辿っていたら、横から顔を覗かせたのはお父さんだった。お父さんは、心配した様子で言った。


「よかった、目を覚ましたんだな」

「お父さん、ここどこ?」

「うちの病院の個室よ」


 お父さんとは違う声に、視線を少しずらせば、ホッとした様子のお母さんがいた。


 なるほど、うちの病院なら見覚えがあって当然だなと思う反面、どうしてうちの病院の個室で寝ているのかがさっぱりわからない。現状に戸惑う私に、お父さんが答えをくれた。


「自宅近くの路上に倒れてるお前を、通りすがりの人が見つけて、救急車を呼んでくれたんだそうだ。最初は近所の病院に運び込まれて、検査も一通りしてもらったんだが、異常はないのに目を覚まさなくてな。うちの病院に移送をお願いしたんだ」

「えっ!? 私、どれくらい眠ってたの?」

「お前が倒れて丸二日経つか経たないか、といったところだな」


 道で倒れていたということにも驚いたけど、それ以上に二日も寝ていたことに驚いた。道理で喉がすごく渇くわけだ。そんな私にお父さんが問いかけた。


「何があったのか、思い出せるか?」

「えーと、確か塾からの帰り道で月がすごく綺麗だなって思……あっ」


 記憶を辿って行ったところで、冷や汗が流れる。どう考えても雷が落ちる話だ。ううん、雷で済んだらいい方かもしれない。そんな私に、目敏く反応したのはお母さんだ。


「莉音、何かあるのなら言いなさい?」


 にっこり微笑むお母さんの言葉に、思わず叫ばなかった私は褒められていいと思う。お母さん、恵茉ねえと同じタイプで、笑顔なのに目が笑ってなくて怖いんだもん。とはいえ、内容的にも躊躇えば躊躇うほど、雷の威力が上がるのも経験上知っているから、腹を括って問いかけた。


「えっと、その……運ばれたのって私だけ、だったの?」

「莉音一人だけだって私は聞いたけど、他にも誰かいたの?」

「そ、その……自転車に乗りながら余所見をしてて、歩いてた男の人に後ろから思いっきりぶつかっちゃって……。そのとき、その人の頭に私の頭を思いっきりぶつけた気が……」


 私の言葉に、お母さんが息を呑んだけれど、その顔を見るのは怖くて、つい視線を逸らす。


 思い出せるのは、塾の帰り道。何気なく空を見上げたら、いつになく大きな満月が綺麗で、思わず見とれてしまったこと。それもペダルを漕ぐ足を止めないまま、だ。


 気付いたら目の前に人が居て、慌ててブレーキかけたけど間に合わなくて、思いっきり背中にぶつかった。最後、茶色の頭に額をぶつけたところで記憶は途切れてて、それ以上は思い出せない。


「あなたって子は……」

「ご、ごめんなさい……」

「それはぶつかってしまった方に、ね。その人の顔とかは覚えてる?」


 呆れた様子のお母さんの問いかけに、私は首を左右に振った。後ろ姿を本当に一瞬見ただけだから、顔を覚えるも何もない。……はずなんだけど、何でだろう。今見たって判別つくわけないのに、何故かすごく懐かしい気がして、胸が締め付けられる。


 そんな私の返事に、お母さんは困った様子で頬に手を当てて言った。


「困ったわねぇ……」

「もしかしたら、救急車を呼んでくれた人がその人なのかもしれないな」

「ねぇ、あなた。救急隊員の方に事情を説明して、話を聞くことできないかしら?」

「守秘義務があるから難しいとは思うが、馴染みの人を通じて聞ける範囲で聞いてみよう」


 なんだかものすごく事が大きなことになってる気がする。というか、二人とも仕事で忙しいはずなのに、仕事を更に増やしてしまった気がしてならない。


「迷惑かけてごめんなさい」


 そう言ったら、お父さんのゴツゴツした大きな手が頭を撫でた。その感触に目線を上げれば、困ったように笑う両親の姿があった。


「間違いは人間誰にでもあることだ。それでもお前は隠さずにちゃんと話しただろう?」

「それは……だって、私が全面的に悪い話だし……」

「うん、そうだな。でもそんなとき、一番大事なのは、落ち込むことじゃない。誠意を持って相手に向き合う事だ。そして、繰り返さないために何ができるのかを考えて実行する」

「誠意を持って、考えて、実行する……」


 お父さんの言わんとすることを噛みしめる。そんな私にお父さんは言った。


「その人が見つかったら誠心誠意を込めて謝る。そして、今回みたいなことがないようにするために、莉音がすべきは何かを考えるんだ。できるな?」

「うん」


 しっかり頷いて返せば、お父さんもお母さんも満足げに笑った。『それ以外は任せなさい』と言ったお父さんに対して、お母さんには『あとでみっちり説教はするから覚悟しなさい』と付け足されたけれど。


 このあと、自分の身に起こることを何一つ知らなかった私は、甘んじてその説教を受けよう、なんて暢気なことを思ったのだった。

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