第1章:月夜の出逢いと夢の誘い

1.幕開けのユニゾン

るい、今夜はスーパームーンが見れるらしいよ」


 白衣を脱ぎ、紺色のユニホームから普段着に着替えるオレにそう言ったのは、月島つきしま りく。彼が着替えもそこそこに覗き見ているのは携帯端末だ。察するに、何かネットとかSNSのニュースにでも載っていた情報を見ての発言だったんだろう。ただその情報は……。


「知ってる。というか、ここに来るまでの間、窓から見えてただろ?」

「見えてはいたけどさ。なんかいつもより明るい気がする、くらいだったんだよね、オレ」


 そう言って彼は、緩くウェーブがかった金髪の頭を掻きながら苦笑いを浮かべた。


 全く、月のような髪を地毛で持っていて羨ましい限りだと言うのに、オレと違って陸は月に全く興味がないらしい。栗原くりはら、なんて月と一字も被らないオレと違って、月の字を名字に持っているのに、本当に勿体ない……。


「スーパームーンは楕円を描く月の軌道の関係で、地球と月が接近して、普段よりも明るく見える満月、あるいは新月のことを言うんだ。だから、お前がいつもより明るいと感じた時点でちゃんと見てるよ」

「さっすが月オタク」

「月オタク言うな」


 揶揄する陸の頭に軽くチョップを入れる。


 オレは昔から月――特に満月が好きで、誕生日プレゼントに望遠鏡をねだるくらいに好きだ。どうして好きなのかと問われれば、そこに月があるからとしか言いようがない。何せ自分でも、何故こんなにも月に心惹かれるのか、全くさっぱりわからないのだから。ただとにかく、月に関することは何でも好きだった。神話とか月を題材にした物語や伝承とか。もちろん、雑学的なこともだ。


「あ、ちなみにそれ、エクストラスーパームーンの時間とかは書いてないのか?」

「エクストラ……何それ? 聞いた感じゲームの秘奥義みたいな名前だけど……」

「地球に一番近付く時間の前後一時間っていう限られた時間に、ちょうど満月を迎える月のことを言うんだ。それこそ、そう滅多にお目にかかれるものじゃないから、二十三時頃とか忘れなかったら見るのを勧めておく」

「へぇ、そうなんだ」


 返ってきた生返事的には、たぶん陸は見ないで寝るんだろうな、と確信する。何せ今日は金曜日だし、一週間続いた地域医療実習の最終日でオレだってクタクタだ。


 それでも、今回を逃したら二度とお目にかかれないかもしれない満月。オレに見ないという選択肢はないし、楽しみにしていたからしっかり見るつもりだ。れんさんが帰って来たら、道場で月見酒と洒落込むのもいいかもしれない。今度のボランティアコンサートの練習を兼ねて、ヴィオラを引っ張り出すのもありだな。


 そんなことを考えつつ、ロッカーの中を空にして扉を閉めれば、慌てた様子で陸が着替えを再開した。


「ちょ、もう着替え終わったの!?」

「お前がスマホを見てる間にさくさく着替えたからな。急がないと置いてくぞ」

「三十秒待って!」

「はいはい」


 もはや定番となりつつある掛け合いに、思わず苦笑する。そんな中、律儀に三十秒で支度を整えた陸と更衣室を後にして、正面玄関へ向かう。その途中で、この月村総合病院の院長で、大学の客員教授も兼任している月村先生から労いの言葉を貰いつつ、挨拶をしてオレたちは帰路についた。


 十一月ともなれば、日が落ちるのも早いもので。更衣室に向かうときはまだ薄暗い程度だったのに、十八時を回る前にも関わらず、宵闇の色はだいぶ濃くなっていた。


「こうして見ると結構明るいね」

「地球と月が今少しずつ近付いて行ってる最中だからな」


 そんなことを話ながら、帰宅ラッシュの満員電車とは逆にスカスカの電車に乗って、都心の方に向かって移動する。数駅先で降りる予定の陸に見送られ、最寄り駅で降りて、高架から少し離れた川沿いの道を歩く。


 ワイヤレスのイヤホンから流れるのは、もう失われたピアノの音色。早逝したピアニスト、唐崎からさき 奏佑そうすけが奏でるパルムグレンの『星は瞬く』に耳を傾けつつ、夜空を見上げる。


 実家ほど空気は澄んでいないし、明かりも多い。それでも住宅街の中を北に走るこの川沿いの道ならば、背の低い戸建て住宅が多く、空が拓ける。人通りも少ないから、のんびり月を眺めながら歩くにはもってこいだ。


 徐々に登っていく満月はとても綺麗で、居候先に帰ったら望遠カメラで一枚写真を撮ろうと決意する。ただ、それでも携帯のカメラで一枚は撮っておきたくて、良い感じになる場所を探り、立ち止まった。


 夜景も綺麗に撮れる携帯のカメラは、高価なカメラのそれほどではなかったけど、なかなかよく撮れていて、思わず顔がにやける。


 そんなときだった。


――ルイス!


 やけにハッキリと聞こえたのは、少し高めの女性の声。どこか懐かしく感じる名前を呼ぶ、楽しげな明るい声に振り替える。でも、オレの周囲に人影らしいものはない。


「空耳、か?」


 どこかで聞いたことのある声だった気がするが、思い出せない。ただその声は、月を見るときに感じるものと、どこか近いものがあった。


 そんなよくわからない事象に小さく息をついて、もう一度月を見上げる。心なしか、いつもより胸が苦しく感じたが、その理由はやっぱりわからない。


「オレなりに月を追いかけ続けたら、いつか理由わかる日が来るのかな……?」


 詮ない話だ、と頭を切り替えて足を踏み出そうとしたときだった。


 甲高いブレーキ音と共に、背中に固いものがぶつかる感触と衝撃が加わり、撥ね飛ばされるように前方へ倒れた。痛みに呻く間もなく、続けざま小さな悲鳴と共に後頭部に鈍い衝撃が走る。


 その瞬間、膨大な情報が洪水のように襲う。知らない誰かの一生のような映像が、一瞬のうちにオレの脳裏を過ぎ去る。


 それから襲ったのは、頭が割れそうなほどの痛み。その頭痛に堪えながら首だけで振り返れば、オレの上に重なり、一人の人間が俯き倒れていた。


 茶色のコートの裾から見えるのは、チェックのスカートと、そこからすらりと伸びた細い足。リボンで結んだ髪からしても十中八九女性だろう。ハイソックスとローファー、体格から推測するに、中学生か高校生くらい。


 オレたちの傍には、女子が好みそうなピンクの自転車が倒れ、カラカラとタイヤを空回りさせている。状況から察するに、オレにぶつかってきたのは彼女――正確には彼女の自転車だったんだろう。


 いろいろ言いたいことはある。自転車スピード注意の看板はどうしたのかとか、いくら暗いにしても、前方不注意が過ぎないかとか。それでもまぁ、相手の身体が投げ出された先が、柵を越えた川じゃなかったのは不幸中の幸いだと思う。


 疲れた頭でそんなことを考えること数秒。その間、オレの上に倒れたままの人物はうんともすんとも言わない。


「あの、退いてもらえると助かるんですが……」


 そう声をかけるも、相手が動く気配はない。それに嫌な予感を覚えつつ、そっと体をひねり起き上がる。


 それでも身動きしない相手をそーっと仰向けにすれば、思った通り、オレよりも年下に見える女の子の顔がそこにあった。彼女の顔を見た瞬間、さらにズキズキと頭痛が増す。


 だとしても、今は医学生として、自身よりもまずは患者かもしれない彼女の方が優先だ。呼吸も脈も乱れはない。ぶつかったであろう額は腫れているものの、目立った外傷もない。……はずなのに、意識を取り戻す気配がないことに焦りを覚える。肩を叩けば微かに反応はしても、目覚める気配は一向に見られなかった。


 もしかしたら、ぶつかったことで脳に何かあったのかもしれないと判断し、救急車を呼ぶ。ただ、状況を伝える段になってはたと気付く。


 この場合、オレと彼女はどういう扱いになるのだろうか。


 状況的には後ろから自転車での追突事故、人身事故の類いになりそうだと思った瞬間、面倒事の予感しかしなかった。


 自転車に乗っていたのは彼女で被害者はオレだけど、オレは頭痛こそあっても意識がある。対して、加害者側の彼女には意識がない。彼女が目を覚ましたときにどう証言するかによっては、冤罪もあり得そうだ。痴漢冤罪の話とかもよく聞くし。


 そこまで考えた末、彼女には少々申し訳なかったが、倒れていたところを見つけたことにさせてもらうことにした。


 そうして、程なくしてやってきた救急隊員に彼女を任せて、オレはそそくさと帰途についた。


 まだ頭痛は止まない。一晩様子を見て、それでもなお続くようなら、転んで頭をぶつけたと言って病院に行こうと心に決めつつ、徐々に大きくなる月の光の中、オレは足を進めた。


 正直、このときのオレは災難に遭遇したとしか思わず、後々になって気付くことだけれども。この事故こそが、全ての始まりだった。


 これから語るのは、平和な現代世界で生まれ育ったオレたちが、再び手を取り合うまでの記録。オレと彼女――月村つきむら 莉音りおんの、前世から続く恋の物語だ。

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