第16話

「今日は退院する人数が多くて大変だったね」

「新規感染者を最大数予想しているからね。空いた部屋がすぐ使えるようにしておかなければならないからね」

「PCR検査は結果が出るまで時間がかるんだよね。一人の患者になぜ何回も実施するのかね。今海外で日本のPCR検査の実施人数が極端に少ないことが問題になっているよね。一人の人に同じ検査を複数回実施しないで、一人1回でできるだけ多くの人に実施すればいいと思うけど。そうすれば外国から批判されないで済むと思うけど」

 私は最近疑問に思っていることを時田に聞いてみた。彼は私の疑問に喜んで応答してくれた。

「実際の陽性者にPCR検査をした場合何パーセンの人が陽性と出ると思う」

「100パーセントじゃないの」

「いや違うんだ。70パーセントなんだ。それでは陰性者に実施した場合何パーセントが陰性と出ると思う」

「これも100パーセントじゃないんだね」

「そうだよ。陰性者にPCR検査をして陰性と出るのは99パーセントなんだ」

「感染していても30パーセントの人は陰性と、感染していなくても1パーセントは陽性と判定されてしまうんだね」

「そう、だから、仮に1万の人にPCR検査をして700人の陽性者を割り出したとしても、あと300人の陽性者を見逃したことになってしまうんだ。300人の見逃された陽性者は無症状者である可能性が高いだろうから、彼らは自分たちが感染していないと思ってマスクもつけないで自由に振舞う可能性が大だね。だから闇雲に大人数の人々にPCR検査をしていくよりも、感染者との接触者に絞って同じ人に数回実施するほうが効果があると思う。30パーセントの陽性者の見逃しも、1回よりも2回の方が、2回よりも3回の方が、回数が増えるほど減っていく可能性が大きくなるからね」

「それじゃなぜ、海外ではそれほどまでPCR検査にこだわるのだい?」

「それが謎だよな。欧米人は合理的だという印象があるけど・・・なぜ70パーセントのものにそんなに信頼性をおくのかな」

「テレビのニュースで見たけど、ドイツでは全自動のPCRを使っているって。だからドイツでは1日にかなり多くの検査が可能になったとか」

「あーその機器、日本製だってね。だけど日本ではその機械まだ使われていないんだって。ますますわからなくなるよ」


「PCRの仕組みについてあまり知らないというか。関心がないのか」

「まさか」

「ところで、時田はウイルスとDNAのことに関心があると言っていたよね」

「そうウイルスのゲノムが解析されてるけど、今回の新型コロナウイルスではますます関心を持たせてくれるよ」

「去年2019年に感染が確認されたからcovid-19と命名されたんだよね」

「SARSコロナウイルスやMERSコロナウイルスと同じように電子顕微鏡で見たとき太陽のコロナのような表面突起が見えるので、コロナと命名されているんだ。そしてゲノム配列がSARSとMERSに似ているんだ」

「高校のとき生物部で一生懸命勉強したことを思い出すよ。ゲノム配列というのはアデニン、グアニン、チミン、シトシンの4種の塩基の並びが文字情報のようなものを表しているんだよね」

「ゲノム配列の数パーセントにたんぱく質生成に関しての情報が書かれている。問題は残りの九十数パーセントのゲノム情報で、それが以前はジャンク DNAと言われていて、なんの意味もないと考えられていたんだ。でも今はジャンク DNAにも意味があるはずだと考えられるようになってきたんだ」

「そうそのことを友達の部員とよく話したよ。とても興味あることだったよ」

「よくゲノムが解析されたというけどそれはDNAの塩基配列がわかったということで、その意味するところは数パーセントしかわかっていないんだ。つまりたんぱく質生成に関しての情報しかわかっていない」

「それではその九十数パーセントには何が書いてあるんだろう。時田は何か考えがあるの?」

「新型コロナウイルスには文字情報にしたらどれくらいあると思う?」

「最近インターネットで調べたかきりでは4万文字くらいかなと思うけど」

「たぶんそれくらいだと思うけど、そうすると多くて数千文字ほどのところにたんぱく質生成に関する情報が入っていることになるようね。問題の残りの30,000文字以上ある情報の中に書かれていることに大いに好奇心が駆り立てられるよね。今問題になっている新型コロナウイルスのゲノムの意味がわかったらすごいことだと思うよ。今世界中でこの新型ウイルスを恐れているよね。このウイルスのために学校は休校になり、コンサートは中止になり、プロスポーツの試合は延期になり、オリンピックは延期になり、インターハイ、甲子園野球は中止になった。映画館、美術館、劇場が閉まってしまった。遊園地も食堂も閉まってしまった。家にじっとしていることが、社会に貢献することとなってしまった。世界中でこのウイルスが恐れられている。何しろ無症状の陽性者との日常的な接触で感染してしまうんだから。そして感染して重症化する可能性は誰にでもあるような雰囲気なんだから。テレビで放映される重症者の様子はあまりにも悲惨だね」

「それで九十数パーセントに何が書いてあるんだい?」

「それについて聞きたいだろうけど、そのためにどうしても説明しなければならないからもう少し言わせてくれよ。SARSウイルス、MERSウイルスと新型ウイルスは顕微鏡で見たときの太陽のコロナのような表面突起が似ているように、ゲノム配列でも似たところがあるが、ある程度の違いがあるので新型と呼ばれている。新型ウイルスでも中国で流行ったもの欧州で流行ったものが微妙に違っている。こういったことを変異と言っている。でも変異ということで片付けるということ、偶発的なこととして解決してしまうというか、解読不可能ということで逃げてしまっているのかなと思うんだ。でもこれからいうことが重要なんだけど、変異ではなく、学習しているんじゃないかと思うんだ」

「へー、ウイルスが学習しているというの。ちょっと信じられないんだけど。あの小さなものが学習しているなんて」

「今世界中を震撼させているウイルスの動静をみていると、巧妙だと思わないか。無症状の感染者を通して世界中に広めて、重症者や死者を一部の人に広めていく。あまりにも巧妙だと思わないか」

「ウイルスが学習しているとしたらその目的のようなものがあるの?」

「自己保存だと思うんだ」

「自己保存したかったら、重症者、死者を出さないで、無症状者しか出さないように感染していけばいいように思うけど」

「かなり個人的な考えだけど、無症状者だけが出るような感染の仕方はウイルスにとって自己消滅を意味すると思うんだ」

「よくわからないんだけど」

「重症者化させるということは、それだけ細胞に負荷をかけたということになる。その分だけエネルギーを帯びる。逆に無症状の場合はエネルギーが少なくなる。無症状者だけの感染になると自己消滅していくことになると思うんだ」

「それでは風邪のような症状しか出ないウイルスになることが、最も自己保持に適した形ということかな」


「言っておくけど、これは本当に私観だよ。なんの科学的根拠も論拠もないよ」

「でも、聞いていてなるほどと思うよ」

「そう言ってくれると嬉しいけど。実際、九十数パーセントのゲノム情報はジャンクDNAと言って、何も意味のないものだとしてきたんだから。でも、数パーセントの中に、たんぱく質を生成する驚くべき情報が書かれているのを見ると、他の九十数パーセントに何も意味がないなどとは思いたくないんだけど」

「人間のゲノム情報は文字数にしたら、30億文字くらいに相当するんでしょう? これがもし全部解読できたらどうなるんだろうか?」

「人類が自分たちのゲノム情報をすべて解読できる日が来る可能性は、実際ないんじゃないかと思うよ。ウイルスのゲノム情報さえ現時点では、たんぱく質生成の情報以外は解読できていないんだからね。でももし人間のゲノム情報をすべて解読することできたら、人類が未だに終わりない苦闘をしている癌を克服できてしまうと思うよ」

「癌が治ってしまうのか」

「37兆とも言われている人間の細胞だけど、受精卵の時点ではどの細胞にでもなる状態であるのが、胎児化する時点でどの細胞になるか決定されて、その後はその細胞で存続していく。皮膚、内臓、血管など、骨と歯の一部以外は細胞分裂をしながら古い細胞と入れ替わっていく、そしていつの間にか体がそっくり入れ替わっているんだ。だけど人相、体型などその人の特徴は維持されている。これがすべて30億のゲノム配列に書かれていると思いたくなるのは自然なことだと思うんだけど。どの細胞になるか決定された時の情報はジャンク DNAと言われてきたゲノム配列の中に巧妙に配置されていると思いたくなる。

 癌は遺伝子の暴走だと言われているよね。でも人間のゲノム配列のすべてを解読できれば、暴走の内容もわかるということだ。その暴走がコンピューターのプログラムのバグのようなものだったら、バグ取りをすれば修正できるんじゃないかと思うんだ」

「でも、その暴走が、バグのようなものではなく、綿密に計画されているものの一つだったら」

「そうそのことなんだよ。ある一部の細胞にバグのようなものがあってその細胞が暴走している、つまり悪性腫瘍となっているので、その部分を取り除くことで暴走を食い止めることができると考えてきたけれど、転移ということが出てきて、結局完治できないということが今まで起こってきた。でももしその暴走と思われてきたことが、一部の癌化した細胞にあるバグのようなものでなく、すべての細胞に仕組まれた計画的な情報であるとしたら、がん細胞を痛める治療法で転移を食い止めることは不可のであると思うんだ」

「いや、時田はすごいことを考えているんだね」

「これはなんの科学的根拠もないからね。専門家から言わせたら、何戯言を言っているんだということになるからね。でも、九十数パーセントのジャンクDNAの存在とそこに秘められている、計り知れない情報の宝庫の存在を、想像した時、なんとも言い難い感情の高まりを感じる。夜空に輝く無数の星を見る時、人間の力ではとてもたてうちできないような計り知れない力を感じるように、人間のゲノム配列を見る時、なんとも言い難い高揚感を感じるよ」

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