第15話

 人材派遣会社からメールが届いていた。どうやら仕事が入ったらしい。どうせ日雇いの仕事であるが。清掃会社であった。新型コロナウイルスの感染者のうち軽症者を収容するホテルの清掃がその仕事内容であった。回復して数回のPCR検査で陰性となった患者が使った部屋を、次の軽症者が入る前に徹底的に掃除消毒することがその仕事であった。防護服とフェイスシールドとN95マスクとゴム手袋

を渡された。

 テレビでは毎日のように新型コロナウイルス関連を内容とした番組が放映されていた。感染者を取材した内容を含んだ番組も多くなった。軽症でもそれがいかに苦しいものであるかということが放映されていた。重傷者となると集中治療室での治療となり、スタッフも他の病気の治療よりも多くのスッタフが必要となる。新型コロナウイルス感染者の重傷者は死と隣り合わせの状態になる。重傷者が急激に増えると医療崩壊の危機が迫ってくる。イタリア、フランス、イギリスの医療現場の生々しい映像が流れる。防護服、フェイスシールド、N95マスクを身にまとった医療スタッフの悪戦苦闘した映像。渡された防御服とフェイスシールドとN95マスクを見てその映像が頭に浮かんだ。


 「最近になってからだよ、これだけ渡されるようになったのは。同じ清掃仲間で感染者が出たんだよ。それで会社は慌ててこれだけ用意するようになったんだろうな」

 時田は渡された防御服を広げながら言った。私と時田は、新型コロナウイルス感染軽症者に用意されたホテルの清掃担当となった。時田とこの清掃にあたっていた人はここで清掃作業中に感染した人でした。彼はこのホテルの一室に入っている。

 時田は医療関係、ウイルス関係の知識が驚くほど豊富だ。彼といろいろ話しているうちに分かったことだが、彼は以前医学生だったらしい。彼の父は大企業の社員だったが、上司と喧嘩をして窓際部署に移動させられ、鬱になって、退職したということだ。そういうわけで時田は大学を退学せざるをえなかったようだ。

 いつの間にか、仕事が終わってから時田と話すことが楽しくなっていた。私は高校時代に生物部に入っていて、ゲノムとかDNAの話をよく譲と話して、それがとても楽しかった記憶がある。意味・内容がよくわかっていなかったのに知ったかぶりして、それがまた楽しかった記憶がる。

 時田と話している時は別の意味での楽しさ、喜びのようなものがあった。家庭の事情で退学したにしても、彼は実際医学部に籍を置いて生の医学的経験をしてきている。

 彼のウイルスについての知識はすごい。さすが元医学生だと思った。PCR検査という言葉を、私は新型コロナウイルスを通して知るようになった。時田はPCR検査という言葉を知っているどころか、その検査を実際にしたことがあるというから、私の単なる興味関心とはおおちがいである。

 PCRとはポリメラーゼ連鎖反応の英語の頭文字をとったものであることを教えてもらった。これはDNAポリメラーゼと呼ばれる酵素の働きを利用して、少量のDNAサンプルを増幅することだと説明してくれた。時田はこのことを説明するのが楽しいようで時間をかけて説明してくれた。専門的な語句と内容が多すぎて、時田が意図しているほどにはとても理解できなかった。彼は私がいくらかでもわかるようにと専門用語の一つ一つを説明してくれた。時田には悪いがとても私の能力ではついていくことのできないレベルであった。

 でも部分的ではあるが以前よりもいくらか理解できるようになったことがあるように思える。皮膚の一部や髪の毛の一部のような少量のサンプルでDNA判定ができるのはこの技術のおかげであると言われるとなんとなく納得できるような気がする。

 私は生物部の活動において、細菌とウイルスが別物であることを知った。それはまではウイルスと細菌は同じもののように思っていた。大きさが違う細菌は1000分の1ミリから1万分の1ミリくらいの大きさだが、ウイルスは1万分の1ミリから10万分の1ミリくらいの大きさだ。細菌は光学顕微鏡で見ることできるが、ウイルスは電子顕微鏡が必要になるということらしい。細菌には細胞があるが、ウイルスには細胞がない。ウイルスが人に感染すると、細胞に入り込んでその細胞を利用して増殖していくという。いわばパラサイト。

 細菌はDNAとRNAのどちらも持っているが、ウイルスはどちらか一つであるということであるらしい。新型コロナウイルスにあるのはRNAであるらしい。PCR法はRNAからでも増幅することができるということであるらしい。

 時田が時間をかけていろいろ説明してくれたが、今言ったことくらいしか説明できない。説明できたと言っても私は十分に理解して説明できたわけではない。でも高校の時に生物部で譲とゲノムやDNAについて長時間話したときのことを思い出した。当時は私は意外と理解していたのかもしれない。この10年間のブランクというものがあまりにも長かったのかもしれない。

 時田と毎日仕事の後にDNAやウイルスを話題にして話しているうち、高校の時のことがいろいろ思い出されてきた。だから私の理解力も少しずつ高校時代の理解力に戻っているように思えるようになってきた。

 この職場で後どれくらい働けるかわからないが、時田と話す内容がいくらかでも専門的な内容に近づけたらという思いが強くなってきた。時田も私のその思いを何とか感じ取れるようになってきたような気がする。人に教える喜びを感じるようになったのかもしれない。通信制の大学に編入学して教職免許を取って教員採用試験を受けることを考えるようになったようである。確かに時田のような優秀な人が、私のような派遣の仕事をしているなんてもったいないと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る