ショッピングモールの住人

オレンジの金平糖

第1話

 一八の夏だった。毎日の受験勉強に疲れて、当時通っていた学習塾からの帰りの電車をふらりと途中の駅で降りた。特に何か目的があったわけでもなく、いや、電車の窓を突き破って僕の目に写り込んだ街の明かりに、ここで降りなければいけないと思った。


 街は様々な色が混ざり合ってできていた。無機質な灰色のビルに、大型ビジョンが映し出す鮮やかな口紅の広告。似たような白いワイシャツに身を包んだ仕事帰りのサラリーマンに、原色のきらびやかな服を着た若い女。赤やオレンジの明かりがふわふわと灯る居酒屋に、青白い蛍光灯がいつまでも消えないオフィス。ごく稀にある葉の茂った木は忙しなく動き回る人間たちを観察して葉を揺らした。


 僕は道の真ん中で立ち止まって、街に覆いかぶさった薄汚い空を見上げた。肌に訴えかけてくる色であふれた世界から切り離されたそこは、僕の心にほんの少しの安堵を与えた。川の水は岩に引っ掛かった枯れ葉なんて見向きもせずに流れていく。この大通りも川と同じだった。僕を器用に避けて皆歩いていく。立ち止まることを考える者はいない。

 視界の端に映った星かと思ったものはヘリコプターだった。星の見えない都会の空では、ヘリコプターが堂々と通ることができるらしかった。そして、ここにいる誰の願いも叶えずに僕の視界から消えてどこか遠くへ流れて行った。その途端に夜空は偉そうになった。人間を排除した世界で愚かな人間を眺めて一人優越感に浸っているように見えた。なぜかもう、この空から安心感を得ることはできなかった。


 結局枯れ葉も、延々と押し寄せる水の流れに逆らえずに再び海に向かって流れていく。僕には枯れ葉を超えるだけの力はなかった。水の流れを変えられる岩や壁になることができるのは、ごく一部の人だけだ。そしてそういう人はあの狭い箱の中で講師の唾も気にせずに熱心にノートをとっているに違いない。


 歩き出して大型のショッピングモールの自動ドアから漏れ出る冷気に触れた僕は、あることに気がついた。八月の夜の僕にまとわりついてあわよくば体内にねじ込もうと体をくねらせている空気を感じているのは外にいる人だけだということに。僕は電車から降りた時と同じように、今ショッピングモールに入らなければならないという使命感に駆られた。


 ショッピングモールはタイムセール中だった。値下げをアピールする声があっちこっちから聞こえる。店員によって売り捌かれていく三割引の惣菜は、心なしか萎んでいるように見えた。あの惣菜たちの多くは日付を跨ぐことなく初対面の人の胃のなかへ落ちていかねばならない。もしくは、ひとまとめにされて機械の中に放り込まれて砕かれるか。どちらがいいのだろう。彼らは人間の都合に振り回されて生まれてから死ぬまでを決められてしまうけれど、彼らにもプライドというものがあったのならどちらを選ぶのだろう。


 一つ上の階に上がると、冷房の働きが顕著に違って感じられた。タイムセールとは無縁のブランド物が並んでいるからかもしれない。だから僕はとても場違いだった。白いTシャツに黒い長ズボン。教材が詰め込まれて少しいびつになったリュックサック。どこにでもいるありふれた服装で、ボヤけた顔。学習塾に行くだけだから気にする必要もないかと思って整えもしなかった髪の毛は、ショーウィンドーのガラス中で遊んでいた。


 そろそろ帰ったほうがいいな、と僕の中でまだ半分以上を占めていた水の部分で考えた。僕の家は特に門限に厳しいわけではなかったが、良識的だった僕は二十三時を超えたことが今まで一度もなかった。二十二時少し前に終わる学習塾から家まではだいたい三十分で、電車に乗るのは十六分くらいだ。今日は寄り道をしてしまっているから、今から帰らないと家に着くのが二十三時ギリギリになってしまう。


 右足を出すたびに居心地の悪さが積もって、左足を出すたびにここに並ぶものたちへのうらやみが抜けていく。自分は特別だと二階で居場所を主張している商品たちと、この店での自分の席をさっさと手放したいと焦っている一階の商品たち。僕には彼らがただの作り物のように思えなくなってきていた。


 外に出てしまえば、ショッピングモールもただの箱だった。


 リュックサックと背中に挟まれた一枚のTシャツが徐々に湿っていくのを感じながら、足を動かした。家に着くまでそれ以上のことを考えることはなかった。何も考えなくても僕はしっかり家にたどり着いて「ただいま」と言っていた。考える必要もなかった。やっぱり僕は三割引のきんぴらごぼうだった。



 なぜか次の日も、僕は学習塾からの帰りに途中の駅で降りてしまっていた。しかも、何がしたいのか、僕は髪の毛をワックスで整えて家を出てきていた。昨日は気にもならなかった夜の街に響く若い女の人たちの甲高い笑い声を、僕の耳はやけに拾い集めてくる。早く帰ろうと思っているのに気がつけばあのショッピングモールに入っていた。


 誰かの今晩の空腹を救うことになるだろう惣菜たちが、今日もその誰かを待っていた。割引シールを誇らしげに見せびらかせて、自分の存在を売り込んでいる。仕事帰りの中年の女性の目に止まった三割引のデミグラスオムライスは、透明なプラスチックの蓋にわざとらしく光を反射させて、向かいの棚に並んだままのほうれん草のお浸しに自慢していた。


 夜の惣菜コーナー戦争を一人勝ち抜けしたデミグラスオムライスは女性の手でレジへ運ばれて行った。敗者たちはデミグラスオムライスがその場から消えると、そんなもの最初からなかったとでもいうように再び自分たちの三割引シールに光を当てて手を挙げていた。


 僕のワックスで固められた髪の毛は僕を二階へ引っ張っていった。上にあるものが特別素敵なものではないと知っていても、行きたくなるものらしかった。少なくともこの時の僕はこのショッピングモールの二階にあった非日常的な高級感に魅せられていて、心の奥底の部分で望んで足を動かしていた。


 僕は二階にたどり着いてから少し後悔し出した。二階の住人たちは割引商品を毛嫌いしている。周囲の鞄や時計やアクセサリーが鋭い目で僕のことを品定めしていた。僕が歩くたびに「なぜここにいるの?」「早く一階に戻らないと売れ残って廃棄処分になっちゃうわよ?」という声が聞こえた。


「何かお探しですか?」

「い、いえ。買い物をしている母を待っているだけなので」


 何を手に取るでもなくフロアをうろついていた僕は、店員から見ても二階にいてはいけない存在に見えるようだった。悪いことなんて一つもしていないのに、責められている気分になって逃げ出すように階段を下りた。僕がいても咎められないのは一階だった。それでも、身の丈を知らずに無茶なことをした子どもを暖かく迎え入れてくれるほど、そこも優しくもなかった。まだ売れ残っていたほうれん草のお浸しにさえも哀れまれている気がした。見向きもされないほうれん草のお浸しと、不相応なところへさも当然のように足を踏み入れて注目を浴びた僕はどちらがより哀れなのだろう。そう考えてから、比べても仕方がない一階の隅っこの住人同士のドングリの背比べこそみっともなく哀れだと気がついた。僕は一階の住人ですらないから争う権利も持ち合わせていないのかもしれないけれど。


 もちろん一階で買い物をしている母はいない。惣菜売り場の方を見て母親を探す素振りを見せてから、外で待っていた母を見つけたというように目を大きく開いて小走り気味にショッピングモールを出た。


 何でもかんでもひとまとめに詰め込まれた都会の街は簡単に僕を仲間に混ぜてくれた。この街は僕みたいな一階の住人にすらなれていない人々と、割引シールを貼られて争い合う人々と、そういう人々に横を胸を張って歩いていくオムライスで大体ができているんだなと思った。だから僕もこの街のうるさいくらい光る電光掲示板の下では街の一部のようになることができるのだ。ごく稀に現れる二階の住人はきっと僕たちの紡ぎ出す喧騒を冷たい目で見るに違いない。


 僕が学習塾の帰りに都会の発する引力に引き寄せられることはもうなかった。電車の分厚い窓ガラスがすべてはじき返していた。僕は背中のリュックサックに収まる単語帳を見ているほうがよっぽど安心できた。




 僕が再びこの街に来たのは五十七になった時だった。


 相変わらず虚勢を張って威張りちらす夜の街の蛍光色を見ていると玩具箱の中に間違えて入ってしまったような気分になる。珍しく星が見えた空に思わず立ち止まれば、木のそばで立ち話をしていた大学生ぐらいの男女がこちらを見た。八月の力強くしつこい空気は僕のこの間仕立ててもらったばかりの柔らかなワイシャツの周りで僕の様子を伺っていた。僕に飽きたのか大学生のもとに流れていく。一瞬僕を撫でたその肌触りは思いの外心地よく、空の星をよく見ることも忘れて歩き出した。


「何かお探しですか?」

「ああ。腕時計を探しているんだ」


 僕はショッピングモールの二階で腕時計を買った。最近気に入っているブランドの新商品だ。


「十万五千円です。お支払いは」


 クレジットカードを革でできた財布から抜き出して店員に手渡した。


「一括で」


 僕の懐に入った時計は軽い。混み合っている惣菜売り場を一瞥して妻の待つ家へと帰る。ショッピングモールで値引き商品を漁る人々は家で温かい料理を作って待っていてくれる人がいないのだなと思うと、一回で繰り広げられる同族たちの慰め合いに同情さえ感じられた。

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ショッピングモールの住人 オレンジの金平糖 @orange-konpeito

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