第四回 兄弟①
清記は、文机の上に山積みの書類と向き合っていた。
建花寺村の代官所である。書類は各村々の年貢高と村内の様子をまとめたものだ。年貢は兎も角、村々の様子は月に一度は下役に村を巡察させ、提出するように命じていた。
それらを一刻ほどで、清記は読み終えた。大きな問題はない。喧嘩や盗みはあるが、庄屋が上手く対応しているようだ。村同士の争いも無い。
顔の見える治政をしたい。郡代官が誰でどんな人間なのか、皆が知っているような。これまでのやり方を否定する気は無いが、代官として実績を上げる為には、従来通りでは駄目だと思ったのだ。
(また、郡内を周るか)
報告書から視線を上げた清記は、何となくそう思った。
年貢の礼を、庄屋や百姓に言う。そうしたいと単純に思ったが、代官が頭を下げる事で、来年も頑張ってくれるかもしれないという打算もある。
ようやく代官職に慣れてきた。まだ下役達に訊かないとわからない事もあるが、小さい事であれば判断を出来ている。しかし、それでも慣れない仕事の連続で、疲労はそれなりに溜まっている。
そんな中で、志月がいないのが寂しかった。廉平の話では、腹が幾分か目立つようになっているという。清記は廉平に頼んで、何度か様子を見に行ってもらったのだ。
志月を、蓮台寺村にある叔母の屋敷に預けたのは父だった。表向きは出産に集中してもらう為にしたが、本当の狙いは自分から志月を遠ざける事が目的だったのだろう。
「妻とはいえ、奥寺大和の娘じゃ。平山家の当主が表立って
そう父に言われ、清記は反論した。しかし、父は引かなかった。
「何もずっと会えぬというわけではない。志月に罪が及ばぬとわかれば戻すわい」
それで、清記は納得した。
清記は懐に入れていた書状を取り出した。差出人は志月で、三日前に届いたものだ。志月は廉平に書状を託してくれる。それが清記の楽しみだった。
何度も読んだ書状を、再び目を通した。
日々の生活の事、身体の事、そして大和の義理の息子として政争に巻き込まれた清記への心配が、懇々と書き記されていた。くれぐれも無茶な真似はせず、平山家の当主として、奥寺家には構わず冷静な対応をするようにと、まるで母親が差し出した手紙のように諭す形で締めくくられている。それが志月らしくて、余計に会いたくなる。
しかし、藩内は激動だった。昨日、いよいよ衣非が切腹となった。実弟が直前に相賀家へ養子に入ったので、衣非家は無嗣断絶という事になった。
衣非は決して好きな男ではなかった。東馬も危険視していた。だが、結局は腹を切らねばならない羽目になった男の運命を思えば、哀れで仕方がなかった。
「平山様」
下役の一人が、障子越しに声を掛けてきた。
どうやら父が呼んでいるらしく、三郎助が呼びに現れたらしい。平山家の家政を司る用人たる三郎助が、代官所棟まで入り込んでくる事は珍しい。
隠居所を訪ねると、悌蔵が縁側で刀に打ち粉をくれていた。反りの強さを見るに、おそらく
ただ、最近では脇差の筑前兼國を帯びる事が多い。寄る年波には勝てないとのぼやきを、何度か聞かされた事がある。
「来たか」
清記が傍に腰を下ろしたのを認めると、悌蔵が三条法印有伏を鞘に戻した。
「お呼びでしょうか」
「ふむ」
悌蔵は刀を傍らに置き、清記に目を向けた。
「今しがた、犬山様から使者が参ってのう」
「お役目でございますか?」
悌蔵が首を横に振った。
「主税介めが江戸から消えたという話は聞いておろう?」
「存じております」
「菊原様を斬って逃げたと思うておったが、夜須に入ったようじゃ」
何の為に? という疑問が湧いた。菊原を斬った今、主税介は大罪人である。その身の上で夜須に戻るという事は、虎穴に入るようなもの。そこまでして、果たしたい事があるのか。そう考えた時、清記の脳裏には主税介と真剣で対峙する自分の姿が浮かんだ。
「あやつ、脱走した八人の奥寺派と合流したようでのう。若宮庄のとある寺に姿を見せたようじゃ」
「すると主税介は……」
「梅岳様を斬るつもりだのう」
驚きはなかった。もはや勝ち目のない大和を勝たせる為には、梅岳を殺す他に術は無い。しかし、それも一か八かの賭けである。
主税介を差し向けたのは、帯刀に違いない。若宮庄は、帯刀の知行地。脱走した八人が帯刀を頼ってか、若宮庄にある寺へ逃げ込んだという話は廉平が報せてくれていた。安全な若宮陣屋に入らないところを見ると、帯刀は表立って支援するつもりはないらしいが、縁のある寺には預けている。幾ら藩主の弟でも、罪人を表立って匿う事は難しいのかもしれない。
(それにしても、帯刀様だ……)
菊原の暗殺といい、今回の件としい、最後まで足掻くつもりなのだ。その最後の、逆転が出来得る一手が、梅岳の暗殺だった。
「それで、若宮庄へは捕吏が向かっているのでしょうか?」
相手が主税介なら、捕吏が返り討ちに遭う事も十分にある。そうした場合は、御手先役として自分が出馬せざる得ないだろう。
「梅岳様は監視以外は何もせぬらしいの」
「それは、帯刀様の知行地である事を憚っての事でしょうか?」
「そんな事を気にするような御仁ではあるまいて。待っているのよ、主税介達が襲って来るのをな」
「襲わせるとは、合ヶ坂のように」
「梅岳様は、とことん奥寺派を悪党に仕立てるつもりらしいのう。その為なら、自らの命を危険に晒す事も厭わん。だから儂は、奸臣と呼ばれる男を嫌いになれんのだがの」
そこまで言うと、悌蔵は億劫そうに身体を横たえた。話は終わりなのだろうと、立とうとした清記に悌蔵が、
「明日、
と、命じた。
頴田庄とは
「三の丸のお屋敷ではないのですね」
「考えるところがあるのだろうよ。明日の昼までには来るようにとの事じゃ」
梅岳が言っていた〔何か〕とは、この事だったのだ。奥寺派残党の襲撃から梅岳を守り、実の弟を斬る。それが、〔何か〕だった。
腹を括るしかない。理不尽とも言える宿運に怒りを覚えるが、迷いを抱いたままで勝てるほど、自分の弟は弱くはない
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