第四章 穢土の暗闇

第一回 江戸にて①

 赤。それは、眩いばかりの鮮血だった。

 裂いた喉元から、息が漏れる音が鳴る。清記は、思わず顔を顰めた。それは、何度聞いても嫌になる、魂魄こんぱくが抜けていく音だった。


「畜生」


 男は首を手で押え、燃えるような視線を清記に向けた。

 腹黒い男だった。謀略を好み、おおよそ汚いと思う手は何の迷いも無く打ってきた。裏切り。賄賂。脅迫。暗殺。悪逆の限りを尽くして築いた身代だった。

 そんな男でも赤い血を流すのだと、崩れ落ちる身体を眺めながら清記は思った。

 江戸の郊外、猿ヶ俣村さるがまたむらの外れにある小さな社である。傍には、手下であろう男達の骸が五つ転がっている。

 男は、稲荷の長吉という女衒ぜげんだった。東北の寒村を回っては娘を買い、方々へ売る。そんな商売で身を立て、その財力を背景に葛飾一帯で力を伸ばしていた男だった。

 夜。早い日暮れが訪れて間もない時分ある。気配を感じて振り向くと、主税介が涼しい顔で立っていた。


「終わったか」

「ええ、七人でしたが全員始末しましたよ」


 予想より二人多い。目算は外れたが主税介の敵ではなかったようだ。


「誰にも見られてはいないだろうな?」

「勿論です。相変わらず兄上は心配性だなぁ」


 そう言うと、主税介は懐から書き付けと矢立を取り出すと、その書き付けに何やら墨を入れた。


「これで二人目……」

「何をしている?」

「こいつの名前を消したんですよ」


 と、書き付けを清記の目の前で広げて見せた。

 確かに、長吉の名前に縦線が入れらている。その他には、松竹屋徳次郎まつたけや とくじろうという男の名も消されている。徳次郎は鉄砲洲の薬種問屋で、江戸についてすぐに斬っている。


「外で無暗に広げるな」


 そう言うと、主税介が肩を竦めた。

 御手先役としての役目だった。二か月前、主税介と梅岳に呼び出されて命じられたのだ。


「江戸へ行き、ここに名のある者を一人残らず斬れ」


 勿論、その理由はわからない。訊ける雰囲気でもなかったし、理由を訊かない事が御手先役としての作法だった。

 突然の江戸行き。正月も旅の途中で迎えた。

 憂鬱だった。名簿の中には、六人の名前があった。商人が二名。武士が二名。裏稼業の者が二名。この中には、見知った者も含まれていた。今までのお役目で知人を斬った事が無いわけではないが、この憂鬱を拭う事は、斬った後ですら出来ない。


(何をしたのだ、この者達は……)


 商人の名がある時点で、金銭にまつわるものであろう事は想像は出来る。しかし、見知った者の名がある事で、疑問符が付く。これが一つの目的の為の殺しなのか、別個の目的での殺しなのかすら、清記にはわからない。

 清記は憂鬱だったが、主税介は乗り気だった。初めて江戸へ行けるのが嬉しかったのだろうか。或いは手柄を挙げれる機会を、自分にも与えられたからか。どちらにせよ、清記は二度目となる江戸に心躍るものは無く、憂鬱な事には変わりはない。


(しかし、手の込んだ事をする)


 この役目の為に、清記と主税介は剣術での江戸遊学という名目を与えられ、実際に清記は中西派一刀流に主税介は雖井蛙流せいありゅうに通っている。

 兎も角、この役目を終えても夜須にすぐには戻れないとは覚悟していた。江戸では、御手先役が必要とされる機会は数多くある。一度江戸に行ったからには、大掃除をさせられると、父も言っていた。


「それでは、退散するとしよう」


 清記は、主税介を促した。

 骸は夜須藩と深い関係にある、非人頭が処理してくれる手筈になっている。それは、夜須でも江戸でも変わりはない。

 その夜は用意していた宿で一泊し、あくる日に百姓渡しで隅田川を越え清記と主税介は浅草へと入った。

 江戸は相変わらず人が多かった。物珍しいと思ったのは江戸に入ってからの三日間ぐらいのもので、十日も経つと煩わしさの方が先立ってしまう。

 清記にとって、江戸は二度目だった。一度目は十五の時。父から連れられての旅だった。


「何とも息苦しいですね」


 主税介が溜息交じりに言った。この様子では、主税介も江戸に飽いているのだろう。

 ちょうど、浅草広小路に入った辺りだった。江戸三大広小路の一つ。各種の店が軒を連ね、人通りも多い。その活況かっきょうは想像以上だ。


「こう人が多いとな」


 そう答えて、清記は頷いた。この息苦しさは、欲望や嫉妬、怨念めいた人の情が渦巻いているからだろう。十二万石の夜須でさえ、清記は息苦しさを覚えるほどだ。江戸なら尚更だった。


(江戸では始末屋が繁盛しているだろうな)


 初めての江戸で、四人を斬った。斬ったのは武士の他に、商人や博徒もいた。四人の暗殺が夜須藩にどう関わるものかわからない。が、魔都が放つ腐臭が人を狂わせるのだと、父に言われた。

 大番組屋敷と東本願寺の間を抜け、夜須藩邸中屋敷に戻った時には、陽は中天に登っていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「見事な手並みだったようだな」


 そう言ったのは、江戸家老の菊原相模きくはら さがみだった。

 上屋敷の一間。昨夜の報告をしろと、清記は呼び出されたのだ。だが、菊原は文机に向かったまま書き物をしている。傍には火鉢。火が恋しい季節は、まだ終わりそうにはない。

 菊原は梅岳の盟友の一人で、片腕と呼ぶべき存在だった。今は江戸家老の地位にあって、梅岳の意に沿った藩邸運営をしている。頭には白いものが目立ち、うだつが上がらない貧相な小男だが、梅岳が信を置くのだから、それなりに有能なのだろう。


「報告は乙吉に聞いた。問題はないな?」

「ええ」


 今回の役目は、廉平ではなく梅岳が使っている乙吉が帯同していた。清記は気心が知れた廉平を連れて行きたかったが、乙吉は梅岳直々の命を受けていた。乙吉は江戸生まれで、土地勘があるというのも大きい。


「しかし、手下が予想以上に多く」

「それも聞いている。お陰で後片付けが大変だったとも」

「申し訳ございません」

「平山。私は責めているわけではない。降りかかる火の粉は払う他にないからな」


 そこまで言って菊原は顔を上げ、微笑を浮かべた。嫌味で人を小馬鹿にしたような笑み。この男を、清記はどうにも好きになれない。


「私は、流石は悌蔵殿のご子息だと褒めているのだよ」

「恐悦にございます。しかし、これもお役目ですし、私も愚弟も見習いの身。お役目をただ一心に果たすのみにございます」

「殊勝な考えだ。大変好ましい態度でもある。残りの始末も無事に果たせば、恩賞の沙汰もあろう」


 清記は、返事とばかりに軽く目を伏せた。

 恩賞の沙汰などない。あるはずもない。少なくとも、清記が父の代わりをするようになって一度も加増の話は無かった。それもそのはずで、御手先役が人を斬るという事は、百姓が田を耕す事、商人が算盤を弾く事と同じなのだ。それが当たり前の行為で、その度に加増していては、今頃平山家は万石取りの大名になっている。


(しかし、加増さえあれば楽が出来る)


 御手先役で掛かる一切の費用は、全てが自弁だった。探索の費用、屍の処理など全てだ。それを込んだ上での家禄ではあるが、役目が頻繁だと支出も高くなり、それを補填する意味で、藩に黙認された始末屋をしていた。人を斬る為に人を斬る。それが、清記にとって苦痛だった。


「そう言えば、平山……」

「はっ」

「奥寺大和の屋敷に出入りしているらしいな」


 清記は、顔を挙げた。どう返事するべきか一瞬だけ迷ったが、正直に答える事にした。この事は梅岳も承知している事なのだ。


「父の命で、剣術指南をしております」

「ほう、お父上の命令か」


 清記は頷いた。父は藩内では一目置かれた存在である。利永に信頼されており、あの梅岳も容易に手を出す事は出来ない。その父の名を出せば、菊原もおいそれと追及しないはずだ。


「その上、梅岳様のお屋敷にも稽古に上がっているとか」

「ええ」

「それは面白い。まるで、風見鶏じゃないか。あっちにふらふら、こっちにふらふら」


 そう言った菊原に清記は腹立ちを覚えたが、敢えて無視をした。自分でも、風見鶏だという自覚はある。だからこそ腹が立つ。そうせざる得ない状況にも、それしか出来ない自分にも。


「私は命じられるままですので」

「なるほど。しかし、そうしたお前の考えはどうかと思うがね」

「……」

「お前は、こうして立派にお役目を果たしているのだ。もう少し、自らの意見というものを、お父上に申し上げるべきだろう」


 それが出来たら、どれだけ気が楽になる事か。


「私は江戸にいて国元の事はよくは知らん。だが、奥寺は何やら人を集め、藩政を我が物にしよう蠢動していると聞いている。斯様な者と交際を持つと、お前の今後に差し障りが出よう」


 と、菊原は煙草盆を手元に引き寄せた。煙草を吸いそうな男に見えなかったので、少し意外だった。

 すぐに煙草の煙が香った。それを良いものだと、清記は思わない。しかし、そこらの煙草とは質が違うという事だけは、何となく感じた。


「悌蔵殿は、お殿様にとって大切なお方。しかし、もう高齢だ。その名を利用しようと虫が近付いて来ぬように、目を光らせておくのも、息子たるお前の役目だろう」


 結局は、奥寺派への牽制だった。それから、暫く菊原の話を聞かされた。おおよそ、梅岳にそうするように指示を受けたのだろう。梅岳にも、江戸では菊原に指示を仰ぐよう命じられている。

 部屋を出ると、主税介が待っていた。報告には二人で向かったのだが、主税介の同席は認められなかったのだ。それについて、主税介は何の感情も示さずに従っていた。


「何か言われました?」

「特に何もなかったな。ただ恩賞があるとは言われたが」

「へぇ、恩賞ですか。当然の言えば当然でしょうが、眉唾ですねぇ」

「おい、滅多な事を言うな」


 清記は慌てて周囲を見渡した。それを見て、主税介が薄ら笑みを浮かべた。


「大丈夫ですよ。人の気配はありませんし」


 藩邸の母屋を出て、与えられた長屋へ戻る道筋だった。この時分は人が出払っていて、藩士が居住する長屋はがらんとしていた。


「でも、嫌ですね。こんな事に、我らの剣を使うのは」

「ほう」


 清記は、驚いて主税介を見返した。


「何を驚いているんですか。そりゃ嫌ですよ。いつまでも、何とも知れぬ尻拭いに使われるのは」

「正直、お前がそう考えているとは思わなかった」

「初めて打ち明けましたからね。私は真剣での立ち合いは面白いとは思いますが、今の使われように忸怩たる想いも抱いています。平山家の現状を変えたいとも常々考えています」

「俺もそう思う」


 清記が呟くように告げると、主税介は鼻を鳴らして立ち上がった。


「そうは見えませんがね。兄上は父上の傀儡だ」

「おい、お前」

「私が御手先役を望むのも、その為です。力を持ち、平山家を変える。変えさせるのです。苦渋を舐めさせられた先祖の為に。これからの子孫の為にね。それを阻止しようと言うのなら、兄上は敵ですよ」


 そう言って、主税介は自分の部屋に帰っていった。

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