第四回 空振り①
あまり旨い酒では無かった。
芋と豆腐の煮しめも、辛いだけの代物である。それでも清記は、この店を何かと贔屓にしている。店の主人が商売っ気がなくて、何かと融通が利いて使い易いのだ。
吉原町の裏通り。
「相変わらずの安酒だな」
陣内は、猪口を飲み干すとそう呟いた。清記の親友である陣内も、この店には幾度となく来ている。特に藩校に通っていた時は、よく此処で飲み明かしていたものだった。
「ああ変わらんな」
「まぁ、水で薄めないだけはましか」
と、陣内は煮しめに箸を伸ばした。
「もっと高い店が良かったか?」
「そりゃ、平山家の御曹司からの誘いなんだ。秀松とは言わんが期待はしたぞ」
「すまんな。俺がまだ自由に使える銭は僅かなんだよ」
今回、陣内を誘ったのは清記だった。最近嫌な事が続いているので、陣内と飲んで気晴らしをしたかったという事もあるが、目付組の陣内に訊きたい事があった。
「清記、どうだ最近の調子は」
「まぁまぁだな」
「ふうん、奥寺様の剣術指南役をしているそうじゃないか」
「知っているのか?」
「俺は目付だぜ? 藩内の動きは逐一耳に入る」
陣内が笑いながら、銚子を差し出した。安酒だが、程よく酔う事は出来る。
「奥寺東馬も、江戸から戻ったと聞いたが会ったのか?」
「四日ほど前かな。仲良くしてもらっている」
「かつての敵だった男とか?」
「敵ではないさ。壁だよ、あの男は」
その壁を乗り越えぬまま、今に至っている。いつか、東馬という壁を乗り越える事があるのだろうか。帰国してから二度ほど顔を合わせたが、性格はどこまでも陽性で、話しているだけで春の新風のように清々しくなる。
「奥寺家との繋がりは、お前にとって善い事かもしれんなぁ」
「そうかな」
「そうさ。そういえば、娘もいるじゃないか。無口な娘だというが、お前には似合いだ」
「何の事だ」
「知らぬ振りをするなよ。鹿毛馬で救ったって話も聞いたぜ。城内はその話題で持ち切りよ。俺は鼻が高かったぞ」
鹿毛馬での一件は、久し振りの燃え上がるようなものがあった。百人町の別宅に奥寺家の下男が駆け込んできて、急報を報せてくれたのだ。清記は馬に飛び乗ると、無心で駆けに駆けた。途中馬を潰してしまい、最後は自らの足に頼る事になったが、何とか間一髪というところで到着し、志月を救う事が出来た。
何故、そこまでしたのか。清記は一人で考えた。もし、襲われていたのが志月ではなくとも助けただろう。しかし、あれほど焦る事は無かったはずだ。
(しかし、父は気に入らなかっただろうな)
父は建花寺流の剣名が、必要以上に高まる事を望んでいない。いざという時に、相手を斬っても不審がられないほどでいいと考えている。今回の一件では、城下から駆けてきて中老の令嬢を救ったという事も相成って、凶賊を一人斬った以上の評価をされてしまったのだ。梅岳などは鼻が高いと喜び、冗談なりとも志月との縁談を勧めてきたほどだ。
だが、父は何も言わなかった。叱責でも嫌味でも言ってくれれば、この心も些か軽くなるというのに。
「下手人の松井直四郎はお前と同じ一刀流だったな」
清記は、これ以上の事は考えたくはないと話を変えた。
「松井の野郎か。道場は違うが、名前だけは知っていた。だが、清記よ。夜須に一刀流なんざ、ごまんといるぜ」
「確かにそうだな」
「そんな事はどうでもいい。話を逸らすなよ」
「何が言いたい」
「
志月を妻にする。そう考えただけでも、清記の心の底に熱いものが突き上げてきた。
惚れている。そうは思うが、その心を押えようとする自分もいた。波佐見という女に惚れた。そして裏切られた。今回も裏切られるのでは? と思うと、やはり怖い。
「清記よ。選択肢の一つとして考える価値はあるぞ。何せ奥寺様は、飛ぶ鳥を落とす勢いの中老だ。その義理息子になるのは悪くないだろ」
「その分、何かと気苦労もある。奥寺様を取り巻く雰囲気は俺でもわかる」
そう言うと、陣内は腕を組んだ。
清記が聞きたかったのは、大和の状況とあわよくば抜け荷の事だった。
目付組という性質上、その辺りの事は知っているのかもしれない。
梅岳からは大和の不審な動きを知らせてくれと命じられ、大和からは抜け荷の事を掴んだら教えてくれと頼まれた。心情は大和だ。しかし平山家の事を考えれば、梅岳には逆らえない。
「確かにな。表だった対立はしていないが、犬山様は奥寺様の伸張を相当に警戒しているとは聞いている。お陰で城内は剣呑な雰囲気だ」
「藩内が二つに割れる?」
「どうだろう。そこまでの事態にはならんとは思うが。第一、奥寺様が犬山様の向こうを張れる
「清廉な男だよ。人望もある」
そうは言ったものの、清記には大和が梅岳という怪物に互する存在には、どうしても思えなかった。
大和は実直で、清廉潔白な男である。その発言はいつも正しく、武士らしい武士、と称しても差し支えない。ただ、怖さが無いのだ。梅岳には感じる、得体の知れない怖さがない。果たして大和に、藩政という魔界で魑魅魍魎を従える事が出来るのだろうか?
「ただ、危うさもある」
「ほう」
「奥寺様を好きな人は、崇拝と呼べるほど慕うだろう。しかし、嫌う人は徹底的に嫌う」
「それだ」
そう言うと、陣内は膝を打って頷いた。
「清記、それだよ。拗ね者には、あの人が眩しく見えるんだ。その上、奥寺様の正義感は、敵味方を明確に分ける。中庸というものが無い。そうした頭の固さが、足を引っ張るやもしれんな」
「奥寺様は、揺るぎない正義の信念をお持ちだ。だから、目上にも目下にも容赦なく言う。それが言い訳の出来ないほどに正し過ぎるから、嫌われるのだろう」
「政事を正義で通そうとすると、犬山様との対立は必定だな」
「まるで水と油だ。犬山様は現実にそぐわぬ正義は、悪より
「それで、犬山様の事だが」
抜け荷について、やんわり訊こうとした瞬間、
「もし」
と、店の小女が料理と新たな銚子を運んできた。料理は、軍鶏の串焼きである。粗塩が上から振りかけられ、食欲をそそる匂いを醸し出している。
「清記、お前は奥寺様が嫌いか?」
「いいや、好きだな。確かに眩しく見えるが、それは好ましい眩しさだ」
清記はそう言うと、一本を口に運んだ。噛むと、驚くほどの脂が飛び出る。その旨味が、何とも堪らない。
「崇拝しているのか?」
「まさか」
「ま、嫌いとは言えまい。何せ雇い主だ」
陣内も、一本を手に取った。
「義父になるかもしれぬぞ」
「うるさい、黙れ」
「わかった。黙って食うとしよう」
陣内も、夢中で頬張っていた。陣内は江戸の生まれで、初め獣肉を喰らう事を嫌がっていた。しかし、何度か此処で食べさせた所、今では大の獣肉好きになっている。その後は他愛もない話で酒が進み、結局肝心な事は訊けなかった。
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