第一回 風見鶏②

 清記が百人町の別宅を守る治作とふゆに、


「今日の夕餉はいらぬ」


 と、言って出て来たのは、岡の葬儀の翌日の事だった。

 清記は迎えの駕籠に乗り込み、暫く揺られたのちに、三の丸にある犬山梅岳の上屋敷で降りた。


「よくお越しくださいました」


 出迎えに現れた、用人の波多野右衛門が慇懃に頭を下げた。


「まずはお召し替えを」


 清記は、波多野に導かれて母屋の一間に通された。そこで持参した濃紺の稽古着に着替えると、思わず大きな溜息を吐いてしまった。


「倅に一つ稽古をつけてくれんかの」


 犬山梅岳にそう言われたのは、五日前の事である。

 奥寺家での稽古を終えて別宅にいた清記を、梅岳が突然に訪ねてきたのだ。

 気軽に現れた梅岳は、嫡男の格之助が来年元服する事と、それに合わせて実戦を見据えた剣術を授けて欲しいと告げた。


「なぁに、少しだけでいいのだ。自分の身を守れる程度でいい」


 勿論、一藩の全権を掌握する梅岳の誘いを断れるはずもなく引き受けたのだが、梅岳と大和という危うい関係にある両者の間を行き来する自分が、まるで風見鶏のように思えて何とも情けなかった。


(俺は何をしているのだ)


 まるで走狗いぬではないか。自分の意思というものが無い。命ぜられるままに尻尾を振る、情けない走狗。相手が相手だと、自分を納得させる他に術はない。

 支度を終えた清記は、波多野の案内で道場に通された。犬山家邸内に建てられた、立派な道場である。数名の供廻りが道場脇で控える中、その中央で格之助が待っていた。

 格之助も稽古着である。日に焼けた肌にも目立つ、痛々しい面皰は相変わらずだ。


「父上から、話は聞いておるか?」

「はっ。私めが格之助様に指南など、恐縮するばかりでございます」


 清記は、格之助の目の前で跪いて答えた。


「私は今年で十五になり、来年には元服する予定だ。元服したとなれば、私も一人前の武士。戦が起これば、お殿様の馬前に侍り戦わねばならぬ。そこで、父上にお願いしたのだ。実戦を多く経験した者に教えを乞いたいと」

「立派なご覚悟であられます。しかし、犬山様の下には、数多の使い手を家人に抱えていると聞き及んでおります。その手前、私が御指南するのも……」

「斟酌は無用。おぬしほどの腕と経験を持つ者はおらぬと、父上が申しておった。私もそれに同意だ。それでよいではないか」

「格之助様が、そう申されるのならば。非才の身ではございますが、格之助様の糧になりますようお務めいたします」

「ああ、活きる剣術を教えてくれ」


 格之助が深々と礼をして、稽古は始まった。

 まず格之助に自由に打ち込ませ、清記はその全てを弾き返した。踏み込みといい、斬撃の迅さという、格之助の筋はかなりのものである。しかし、何処かに高慢さも覚える。


「どうだ、上手いだろう」


 と、言わんばかりの攻撃なのだ。確かに上手い。清記の隙を突こうと動き、隙が無ければ作ろうと陽動する。十五歳で中々出来るものではない。しかし、上手いだけなのだ。故に、こうした高慢さは早いうちに取り除いた方がいい。実戦では、自分が上手いと思っている者から死んでいくものなのだ。

 暫くすると、格之助の息が上がり始めた。清記はそれでも手を出さず、全ての打ち込みを防いで見せた。

 格之助が、へたり込む。清記は竹刀を退いて、手を差し伸べた。


「実戦で大事な事が、二つあります。どんな手を使っても生き残ろうと思う気持ちと、それを支える体力です。息が切れて動けなくなる事は、即ち死を意味します」

「その通りだと思う。もし、おぬしが敵であったのなら、私は死んでいた」

「そうならぬ為に、稽古をいたしましょう」


 清記が微笑むと、格之助が頷いた。

 それから清記は、格之助を庭に連れ出した。これには、波多野も供廻りも難色を示したが、


「敵は板張りを選んで襲ってくるとは限りませぬ」


 と格之助が言うと、口を噤んだ。

 庭に出た清記は、周囲の状況を素早く把握する事から始めた。


「ここに庭石がございます。この庭石に、敵の頭を打ち付ける事も出来れば、逆に打ち付けられる事もございます。また、背後には池。足を滑らす危険もあれば、敵を沈める事も出来ます」

「それで?」

「まず、周囲の状況を把握しなければなりません。勿論、繁々と見ている暇はありませんので、素早く頭に入れる必要があります」

「それが、地の利を得るという事なのか?」

「左様にございます。腕が上と思われた者が、木の根に足を取られて敗れた例もございます」

「それはお前か?」


 清記は頷いた。二年前の事だ。これはお役目ではなく始末屋としての仕事ヤマだった。相手は浪人で始末屋。どこからの依頼なのか知る由もないが、始末屋が始末屋が狩るという事は、粛清意外にあり得なかった。


「なるほど。やはり、おぬしの剣は道場剣法とは違う」

「剣は戦う為の手段の一つに過ぎませぬ。目的は、敵に打ち勝つ事。梅岳様が私を選ばれたのも、それを存じているからかと」


 格之助が深く頷くと、真剣な眼差しを清記に向けた。

 それは孔子に教えを乞う顔回がんかいのようで、格之助に教えている事が楽しいと感じている自分に、清記は些か驚いた。稽古前の陰鬱な気持ちがも、きれいに消えている。


「おっ、やっておるの」


 不意に梅岳の声がして、足運びを教えていた清記と格之助は、すぐさま片膝をついた。

 城からの帰りなのだろう、梅岳は裃姿で縁側に立っていた。


「どうだ、清記よ。我が息子の筋は?」

「はっ。大変よろしゅうございます」

「そうか、そうか。お世辞でも嬉しいぞ。格之助、しっかり学べよ。平山清記ほどの剣客は、夜須にはおらぬ」

「はい。出来ますならば、当家の剣術師範を平山殿に」

「それは、いかん。無理を言うでない」


 梅岳は苦笑して、首を横にした。


「これなる平山清記は、奥寺家の剣術師範もされておるのだ。それに、当家には既に師範がいるではないか」

「しかし」

「格之助。仮に、清記を剣術指南役にするとしよう。すると、今の指南役はどうなる?」

「それは」

「この清記を憎むようになる。行きつく先は果し合いよ。それで収まればいいが、儂らを憎むかもしれぬ。格之助、いずれ人を使う立場になるのじゃ。ちと、人の気持ちというものを考えねばならぬぞ。優れている、勝っているものを選ぶ事が、必ずしも正しいとは限らぬのよ」

「左様でございますか」

「だが格之助よ、毎日とは言わぬが、元服するまでは指南してくれるであろう。これなる平山は、儂らの味方じゃ」

「……」


 聞いていなかった。格之助への稽古は、一度だけと思っていたし、事実そうだと言われた。


「一度、稽古を見てやってくれ」


 ああ、確かに梅岳は一度と言ったのだ。


(こうやって、取り込まれていくのだろうか)


 だが、今の夜須藩で梅岳に抗う事など出来ない。これは仕方のない事なのだと、清記は自分に言い聞かせた。


〔第一回 了〕

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