第三回 余波②

「これは平山様」


 奥寺邸を訪れると、屋敷を出ようとする女と行き違った。


「これから稽古でございますか?」


 誰だと思った清記は、そう声を掛けられて初めて、この女が志月であるとわかった。

 今日の志月はいつもの男装ではなく、淡い桃色の単衣という女の恰好だった。しかも薄っすらと化粧を施している。誰かの墓参だろうか。禍々しい赤の彼岸花を手にしていた。

 そんな事を考えていると、志月が咳払いをした。どうやら、つい繁々と見ていてしまったらしい。


「そんなに、この恰好が珍しい事でしょうか」

「いや申し訳ない。つい……。それで、小関道場はお休みなのですかな?」


 清記は慌てながらも、話題を他に逸らした。


「ええ。師範代が佐與まで出稽古に行っておりまして」

「それは遠い。しかし、斯様な場所にも門人がいるとは、流石は小関道場だ」


 佐與郡は藩内の北部にあり、城下からは遠い。道場に通えない者の為に、出稽古で足を伸ばす事は珍しい事ではない。


「しかし、門人はいるのでしょう?」

「それが、師範代が門人を引き連れておりまして。行っても寂しいものなのですよ」

「なるほど。小関道場の師範代といえば、小関忠五郎おぜき ちゅうごろう殿か。懐かしいな。お変わりはないか?」


 小関忠五郎は、道場主・小関弥蔵の甥であり、いずれは小関道場の後継者と目されている。

 清記は、この忠五郎と試合をした事があった。まだ十五歳の時。藩校で行われた勝ち抜き戦の二回戦だった。その時、清記は三歳年上の忠五郎を終始押していたが、最後は胴を抜かれて敗れている。無論、これはわざとだった。準決勝で負けろと、父に命じられていた。恐らく、清記の剣に注目させない為だったのだろう。


「ええ、まぁ。ですが、最近は学問にも凝っておるようでして」

「ほう、学問を」


 志月が、コクリと小さく頷いた。

 学問に凝る。それ自体は、心掛けとしてはよい事だとは思うが、どうも志月には納得出来ないものもあるらしい。


「志月殿は歓迎しておられぬようですね」

「小関道場は、一刀流の剣を学ぶ場でございます。学問を学ぶ寺小屋ではございませぬ」

「確かに」


 そうは言ったものの、学問も学べる剣術道場が無いわけではない。剣のことわりは、学問に通じる所もあり、相性はいいのだ。しかし、そんな事を言えば、志月は眉を吊り上げるに違いない。じゃじゃ馬も悍馬のじゃじゃ馬なのだ。


「では、わたくしは墓参がございますので」


 と、志月は軽く頭を下げて外に出て行った。


(しまった。誰の墓に参るのか訊きそびれた……)


 そんな事を訊きたいと思った自分に、清記は驚いた。その刹那、胸の疼きを微かに覚え、慌ててかぶりを振った。


「おう、清記。志月に袖にでもされたか?」


 そう言って現れたのは、大和だった。これから登城でもするのか、裃姿だ。他に同行する家人が、幾人か控えている。


「いや、別に私は袖にされたわけでは」

「まぁ、仕方なき事よ。今日はあれの母、つまり私の妻の命日でな。ああやって、毎年墓参を欠かさぬ」

「左様でございましたか」


 大和は、随分と前に妻を亡くしている。労咳だったという。それ以来、後添いを取らずに独り身を貫いているが、新川町しんかわまちに妾宅を設けているらしい。その話は、稽古の合間に家人から聞いた。


「そういうわけだ。気落ちなどせず別の日に誘ってやれ」

「いや、私は誘っておりませぬ」

「ふふ。そんな事より、お前の話だ」


 大和が話を変えた。


「私が何か?」

「少し前から気になっているのだが、お前の剣に迷いがある」

「迷いでございますか……」

「剣は時として、口以上のものを語るというからな。何か悩んでいるのか?」


 そう言われ、清記は肺腑を突かれる心地がした。

 図星だった。そして、その悩みは何を隠そう、大和の事。梅岳から間諜になるよう、命令のような頼みを受けた事だった。


「さて……」


 大和の一点の穢れも、後ろめたさも感じられない両眼が、清記の心を突き刺した。

 笑顔だ。それが、何よりの自白の強要だと思った。


「白状してしまえ。梅岳の走狗いぬだと吐いて楽になれ」


 脳裏で、何者かが囁く。大和なら、自分を罰する事はしないだろう。許してくれる。救いの手を差し伸べてくれるはずだ。そして御手先役という暗闇で呻吟する自分を、光の射す方へ導いてくれる。だが、自分は――。


「まぁいい。話したくなったら、いつでも儂の所へ来るがいい。儂はお前という男を買っているのだよ」

「ありがとうございます」


 そう言って高笑いする大和に、清記は何も言えず黙礼をした。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 道場に顔を出すと、十人ほどが集まっていた。今までは非番の者だけの参加だったが、望めばお勤めの最中でも稽古に出る事が許さている。今日の十人の中に、平次の顔もあった。清記を見て、笑顔で頭を下げる。


(さて、やるか)


 道場に入ると、不思議と心が軽くなる。だが、大和は剣に迷いが出ているというところをみると、自分がそう思っているだけのようだ。

 清記の掛け声で、稽古を始めた。全員が同じ内容ではない。型稽古、掛かり稽古、地稽古と様々で、それぞれ年齢や体力に見合った稽古に励んでいる。

 稽古のやり方は、工夫を凝らすようになった。それは、家人を飽きさせない為に必要な事で、同じ事の繰り返しでは、いずれ稽古から足が遠のいてしまう。


「道場経営は人気商売。束脩そくしゅうを貰った以上、門人と言えどもお客様のように扱わねばならない」


 先日稽古の参考にと、父の友人で同舟流どうしゅうりゅう丸尾兵之助まるお へいのすけという剣客に話を聞いた時に、そう言われた。清記も、剣術指南をする事で、幾らかの謝礼を得ている。ならば、立場は道場主と同じである。些細な事でも、清記は褒めた。褒める言葉にも気を使っているし、注意する際も必ず褒めてからにした。

 そうする事で、家人達は俄然稽古に熱が入るようになった。やはり、褒め認められる事で、人は自信を得るのだろう。こうした変化は、清記自身の自信にも繋がっている。


(次はどんな稽古をしようか?)


 道場を出ての稽古もいいし、丸尾兵之助に頼んで試合をしてみるのもいい。同舟流は型稽古を中心にしているが、丸尾道場では最近になって竹刀稽古にも力を入れている。

 そんな事を考えるのが、どうしようもなく面白い。


(やはり、私は寺小屋の師匠になるべきだな)


 ひとりひとりの特性を見極め、寄り添いながら成長を促す。楽しい事ばかりではないが、やりがいは大きいだろう。少なくとも、人を殺すよりは。


「先生、一手御指南を」


 防具に身を包んだ平次が、清記の前に進み出た。


「自信があるようだな」

「秘策がございます」

「よし」


 清記は頷くと、残りの九人が歓声を挙げた。清記は、素早く籠手と胴だけを身に着けて道場の中央に進み出た。


「面は?」

「私には不要だ」


 平次が一つ頭を下げた。念真流には、竹刀は使うが防具というものが無い。特に面は被る機会は滅多になく慣れていない。視界を遮り、返って邪魔になるのだ。

 清記は、相正眼で向かい合った。睨み合いはふた息とも続かず、お互いの気勢が、開始の合図になった。

 最初に仕掛けたのは、勿論平次だった。小手から面、面から逆胴、更に小手と、目まぐるしく攻め立てる。その全てを清記は弾き返したのだが、流石は見込んだだけの事はある。その剣は重く、払うだけでも手が痺れる。


(やはり、これが小関道場の真骨頂か)


 一刀流小関道場は、先手必勝の攻撃剣。細心の注意を払って、大胆に踏み込み連撃を仕掛けてくる。東馬が曩祖八幡宮の奉納試合で見せた剣もそうだった。東馬も江戸に出るまでは、この道場で汗を流していたのだ。

 清記は、受けながら隙を狙った。前回に比べて荒い攻撃ではないが、それでもやはり大振りの感は否めない。

 清記が前に出る気配を見せた時、平次の竹刀が面に伸びてきた。だが、慌てる事はない。その太刀筋は見切っている。


(なにっ)


 清記は、本能的な感覚で一歩跳び退いた。平次の面打ちが、小手打ちに変化したのだ。

 これか、と清記は思った。東馬に敗れた小手打ちは、この変化だったのか。


「ここまでにしよう」


 清記は、一旦そう言って竹刀を下ろした。


「いやぁ、惜しかった。これでいけると思ったのですが」


 面を外した平次の顔には、大粒の汗が浮かんでいた。息も切れている。剣の技量は伸びているが、体力そのものを付ける必要があるかもしれない。


「面からの小手。私が東馬殿に敗れた技だ」


 すると、平次がほくそ笑んだ。


「どうかしたか?」

「いや、この技は〔翡翠かわせみ〕と言うらしく、大和様が授けてくださったのですよ」

「翡翠。あの鳥の?」

「ええ」


 翡翠は、枝の上から水中に飛び込み獲物を獲る鳥。その動きにちなんで、翡翠と名付けたのだろう。


「しかし、何故に奥寺様が」

「これで先生の目を覚ましてやれと。何から覚ますのか、私にはわかりませんが」


 清記は、一度だけ目を閉じた。大和は、心配して平次を使ったのだろう。やはり、このような男を梅岳に売れるはずはないし、売ってはいけない。


「しかし、駄目でした。技がどうこうではなく、私が未熟だったのでしょう」

「いや、見事だった。冷や汗が出たよ」

「なら?」


 平次が目を輝かせる。ああ、あの約束か。清記は苦笑し、平次の肩に手を置いた。


「飲みに行こう。勿論、私の奢りでだ」

「まことですか?」


 清記は頷くと、平次が歓喜の声を挙げた。同輩の家人が駆け寄って祝福する。このようでは、家人達も奢らねばなるまい、と清記は苦笑した。


〔第三回 了〕

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