第一回 懊悩②
それは、墓石と呼ぶには粗末過ぎるものだった。
楕円形の、一抱えほどの石が置かれているだけなのだ。
その村の真宗寺院の墓域の隅で、清記は瞑目し手を合わせた。
この石の下に、一人の女が眠っている。名は、
十五の時に、清記は悌蔵によって二つ年上の波佐見と引き合わされた。
無口だが、気が利いて腕が立つ。お役目を重ねるうちに、波佐見が心惹かれる存在になっていた。
初めて惚れた女だった。だが、その気持ちを清記は必死で抑えようとした。身分の差。そして何より、お役目に私情を持ち込む事は憚られたのだ。
それでも、清記は波佐見への想いを止められなかった。お役目だけではない。人生を共に歩む伴侶でありたいと願った。清記は決心をし、気持ちを打ち明けようとした。しかし、それは遂に叶う事はなかった。
「平山様。やっぱり来てなすったんですかい?」
背後からの声に、清記は孤思を中断した。
「お前もか」
声でわかる。ゆっくりと振り向くと、小男が一人立っていた。武士の
「そりゃそうですよ。従姉と、上役だった男の命日でございやすからね」
清記は、波佐見の墓石の右隣りにある、もう一つの石に目をくれた。そして、したたかに手を合わせる。
二つ並んだ、戒名も彫られていない墓。その下には、首しか埋まっていない。
「早いもんですね。もう、八年になりやすか」
「そんなになるのか。あの時の事は、未だに思い出す事がある」
「平山様は、もうここへ来るべきじゃございませんよ。思い出すのなら、なおのこと」
「自分でもそう思うのだがな」
「過去に囚われてはなりやせん。
波佐見を斬ったのは、自分だった。波佐見が、男と脱藩したからだ。
逃げた男も目尾組の忍びだった。同じ目尾組と言えども、男は組頭を輩出するほどの家格で、目尾組の中では上忍の枠組みに入る。一方の波佐見は下忍であり、二人が結ばれる事など周囲が許さなかった。
「必ず首を持ち帰れ」
清記は父に命じられ、二人の後を追って藩を出た。廉平と初めて組んだのも、この時だ。従姉と逃げた上役を追わねばならない廉平も、惚れた女を斬らねばならない自分と同じように複雑だっただろう。
巧妙な逃走と狡知な罠に難渋したが、江戸を目前にした
首は塩漬けにして持ち帰ったが、その帰途は二人共無言だったのを今も覚えている。
「それに、平山様は今年で二十六になられます。そろそろ奥方様をお迎えになっても」
「お前も同じ歳ではないか」
「身分が違げぇます。あっしは、所詮は木っ端な下士。平山様は大組の上士なんですよ」
縁談が無いわけではない。事実今年の初めには、中老を輩出した事もある家の次女との縁談もあった。しかし、清記は断っていた。それに対し、父が何か言う事は今のところは無い。
「廉平、私は資格が無いのだ」
「そりゃ、どうして?」
「人殺しだからだ」
すると、廉平が膝を叩いて一笑した。
「そいつを言っちゃぁ、あっしも所帯を持てませんや。それに、平山様は自分の欲で人殺しなんざした事はございやせんよね。御手先役にしても、始末屋にしても、やらさせてんでさ。そいつぁ、人殺しじゃねぇ。むしろ、平山様も殺されていると、あっしは思いますがねぇ」
「何をどう解釈しても、私は人殺しだ。自ら欲したものではないにしろ、選んだのは私だ。毎年来るのは、それを確認する為かもしれない」
「左様ですか」
と、廉平が二つの墓の前にしゃがみ、ぞんざいな合掌をしてみせた。
「もう、この墓を参る者なんて、平山様とあっしだけでしょうねぇ。源内の家も波佐見の家も、二人をそもそもいなかったもののように扱っておりやすぜ」
清記は何も応えずに、踵を返した。
「平山様」
「何だ?」
「あっしが目尾組を抜けたら、平山様は斬りに来やすかい?」
「どうして、そんな事を訊く」
「いや、何となくですよ」
「やめろよ。考えたくもない」
友を斬りたくない。愛する女を斬り、友も斬ったとなれば、俺は本当に畜生になってしまう。
◆◇◆◇◆◇◆◇
百人町の別宅に戻ると、夕闇に溶けるように中間が庭先に待っていた。
清記を見て、したたかに頭を下げる。どこかで見た顔だ。記憶を辿りながら式台に腰掛けると、奥から穴水主税介が現れた。
「お前か。来ていたのか?」
「ええ。兄上、お待ちしておりました」
「待っていた? 珍しいな」
「たまにはね。兄弟ですから」
主税介が、そう言うと口許を緩めた。色白の細面に笑みを浮かべると、冷たく軽薄なものに見える。母に似たのだ。清記にとっては継母だったその女が、父によって屋敷を追われた時も、似た表情を浮かべていた。
治作が、水を入れた盥を持ってくると、清記はその水で足を濯いだ。その間、主税介は傍に控えていた。
「それで、兄弟水入らずで話そうというわけか」
すると、主税介が鼻を鳴らした。
「冗談ですよ。兄上と、話す事などありませんよ」
「ならば何用だ?」
清記は、主税介の挑発を無視し立ち上がった。この男の性悪に付き合うと疲れるだけだ。
「父上からの伝言でしてね」
「ほう」
「二人で犬山梅岳様をお訪ねせよ、との事です」
「お役目か?」
そのまま、自室に入る。主税介も部屋に入り、床柱を背にして腰を下ろした。
「わかりませんが、お役目でしょう。何せ、執政直々のお呼び出しだそうで」
「いつ?」
「明日、戌の刻。迎えに来ますから支度をしていてください」
「お前も一緒なのか?」
主税介は、御手先役ではない。清記のように見習いでもないので、藩のお偉方に呼び出された事も無いはずだ。やっていると言えば、始末屋としての
「そうですよ、私も呼ばれております。それが、何か?」
どこか誇らし気な主税介の口調に、清記は小さな溜息を漏らした。
そんなに、嬉しい事なのだろうか。やらされている事と言えば、人殺しだというのに。
「それはそうと、兄上」
そこまで言うと、主税介が何かを思い出したのか、噴き出す笑いを堪えながら口を開いた。
「夜臼村では、大変なご活躍をしたようで」
「……」
「ですが、首謀者を見逃したそうですね。何でも、相手が商人で無腰だったから斬らなかったと」
その事か。誰が、主税介の耳に入れたのだろうか。そう思って浮かぶ顔は、一つしかない。父だ。
「笑いたければ笑えばいい」
「ええ、言われずとも笑います。兄上らしいとは思いますが」
夜臼村での事は、私事である。明義屋の憎しみは、夜須藩ではなく自分個人に向いている。ならば、見逃す事も許されるのだと思った。
なるべく、私事で人を斬りたくないのだ。斬らなくて済むのなら、それに越した事はない。
「ただ、人ひとり見逃したところで、その手の穢れが落ちるわけでもありませんよ。お役目だろうが、そうでなかろうが、人斬りには変わりはない。既に我々の手は、落ちない穢れで真っ黒なんです」
「だから、これ以上は穢れたくなはい」
「兄上、そこが甘いんです。諦めるのですよ。そして、自分が人斬りである事を受け入れるのです。さすれば、心が楽になります。悩まずともいい」
「お前が助言とはな」
そう言うと、主税介が鼻を鳴らして立ち上がった。もう時刻は逢魔が時だ。庭に目をやると、闇は更に濃くなっていた。
「でも、感謝しますよ。兄上のその甘さがあるからこそ、私の働きが映えますからね。父上も、どちらが御手先役に相応しいのか考え直している事でしょう」
主税介が去ると、清記は身体を横たえた。
確かに、主税介の言う通りだ。一々悩んでいる自分より、非情になって徹底している主税介の方が、御手先役に適任だろう。
十日前には、主税介は始末屋として五歳の少年を斬っていた。さる門閥の跡目相続に関わる
「あいつ、何の迷いも無く斬りおったぞ」
と、教えてくれたのは、父自身だった。そこには、感嘆とする響きがあり、明義屋を逃がした事への批判が含まれていると感じた。
あれから、明義屋がどうなったのか、清記は知らない。調べるつもりもないが、もし再び現れたら、父はどんな顔をするだろうか。そして、その時こそ見限るはずだ。
(それなら、それでもいいのだ)
別に、御手先役となる事も、平山家の家督を継ぐ事も望んでいる事ではない。不適格の烙印を押されれば、寺小屋の師匠にでもなろう。
(しかし、父はどこかで試すはずだ)
主税介を穴水家に養子に出したとは言え、主税介の芽が完全に無いとは言えない。主税介の方がいいと思えば、何の迷いも無く廃嫡を決めるだろう。何しろ、父自身がそうだったのだ。二人の兄を押し退け、家督を継いでいる。
鬱々とした懊悩を断ち切ったのは、自分の名を呼ぶ治作の声だった。どうやら風呂が沸いたらしい。清記は、ゆっくりと身を起こした。
〔第一回 了〕
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます