第一回 懊悩②

 それは、墓石と呼ぶには粗末過ぎるものだった。

 楕円形の、一抱えほどの石が置かれているだけなのだ。

 安恒村やすつねむら。城下町と接している百姓地だ。城前町の掘割から、猪牙舟で四半刻ほど南へ下ったところにある。

 その村の真宗寺院の墓域の隅で、清記は瞑目し手を合わせた。

 この石の下に、一人の女が眠っている。名は、波佐見はさみ。清記が、初めて組んだ目尾組の女だった。

 十五の時に、清記は悌蔵によって二つ年上の波佐見と引き合わされた。

 無口だが、気が利いて腕が立つ。お役目を重ねるうちに、波佐見が心惹かれる存在になっていた。

 初めて惚れた女だった。だが、その気持ちを清記は必死で抑えようとした。身分の差。そして何より、お役目に私情を持ち込む事は憚られたのだ。

 それでも、清記は波佐見への想いを止められなかった。お役目だけではない。人生を共に歩む伴侶でありたいと願った。清記は決心をし、気持ちを打ち明けようとした。しかし、それは遂に叶う事はなかった。


「平山様。やっぱり来てなすったんですかい?」


 背後からの声に、清記は孤思を中断した。


「お前もか」


 声でわかる。ゆっくりと振り向くと、小男が一人立っていた。武士の恰好なりをした廉平である。


「そりゃそうですよ。従姉と、上役だった男の命日でございやすからね」


 清記は、波佐見の墓石の右隣りにある、もう一つの石に目をくれた。そして、したたかに手を合わせる。

 二つ並んだ、戒名も彫られていない墓。その下には、首しか埋まっていない。


「早いもんですね。もう、八年になりやすか」

「そんなになるのか。あの時の事は、未だに思い出す事がある」

「平山様は、もうここへ来るべきじゃございませんよ。思い出すのなら、なおのこと」

「自分でもそう思うのだがな」

「過去に囚われてはなりやせん。生死しょうじは人の常なれど、平山様は今を生きておられるんですから」


 波佐見を斬ったのは、自分だった。波佐見が、男と脱藩したからだ。

 逃げた男も目尾組の忍びだった。同じ目尾組と言えども、男は組頭を輩出するほどの家格で、目尾組の中では上忍の枠組みに入る。一方の波佐見は下忍であり、二人が結ばれる事など周囲が許さなかった。


「必ず首を持ち帰れ」


 清記は父に命じられ、二人の後を追って藩を出た。廉平と初めて組んだのも、この時だ。従姉と逃げた上役を追わねばならない廉平も、惚れた女を斬らねばならない自分と同じように複雑だっただろう。

 巧妙な逃走と狡知な罠に難渋したが、江戸を目前にした草加宿そうかしゅくで追いつき斬った。

 首は塩漬けにして持ち帰ったが、その帰途は二人共無言だったのを今も覚えている。


「それに、平山様は今年で二十六になられます。そろそろ奥方様をお迎えになっても」

「お前も同じ歳ではないか」

「身分が違げぇます。あっしは、所詮は木っ端な下士。平山様は大組の上士なんですよ」


 縁談が無いわけではない。事実今年の初めには、中老を輩出した事もある家の次女との縁談もあった。しかし、清記は断っていた。それに対し、父が何か言う事は今のところは無い。


「廉平、私は資格が無いのだ」

「そりゃ、どうして?」

「人殺しだからだ」


 すると、廉平が膝を叩いて一笑した。


「そいつを言っちゃぁ、あっしも所帯を持てませんや。それに、平山様は自分の欲で人殺しなんざした事はございやせんよね。御手先役にしても、始末屋にしても、やらさせてんでさ。そいつぁ、人殺しじゃねぇ。むしろ、平山様も殺されていると、あっしは思いますがねぇ」

「何をどう解釈しても、私は人殺しだ。自ら欲したものではないにしろ、選んだのは私だ。毎年来るのは、それを確認する為かもしれない」

「左様ですか」


 と、廉平が二つの墓の前にしゃがみ、ぞんざいな合掌をしてみせた。


「もう、この墓を参る者なんて、平山様とあっしだけでしょうねぇ。源内の家も波佐見の家も、二人をそもそもいなかったもののように扱っておりやすぜ」


 清記は何も応えずに、踵を返した。


「平山様」

「何だ?」

「あっしが目尾組を抜けたら、平山様は斬りに来やすかい?」

「どうして、そんな事を訊く」

「いや、何となくですよ」

「やめろよ。考えたくもない」


 友を斬りたくない。愛する女を斬り、友も斬ったとなれば、俺は本当に畜生になってしまう。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 百人町の別宅に戻ると、夕闇に溶けるように中間が庭先に待っていた。

 清記を見て、したたかに頭を下げる。どこかで見た顔だ。記憶を辿りながら式台に腰掛けると、奥から穴水主税介が現れた。


「お前か。来ていたのか?」

「ええ。兄上、お待ちしておりました」

「待っていた? 珍しいな」

「たまにはね。兄弟ですから」


 主税介が、そう言うと口許を緩めた。色白の細面に笑みを浮かべると、冷たく軽薄なものに見える。母に似たのだ。清記にとっては継母だったその女が、父によって屋敷を追われた時も、似た表情を浮かべていた。

 治作が、水を入れた盥を持ってくると、清記はその水で足を濯いだ。その間、主税介は傍に控えていた。


「それで、兄弟水入らずで話そうというわけか」


 すると、主税介が鼻を鳴らした。


「冗談ですよ。兄上と、話す事などありませんよ」

「ならば何用だ?」


 清記は、主税介の挑発を無視し立ち上がった。この男の性悪に付き合うと疲れるだけだ。


「父上からの伝言でしてね」

「ほう」

「二人で犬山梅岳様をお訪ねせよ、との事です」

「お役目か?」


 そのまま、自室に入る。主税介も部屋に入り、床柱を背にして腰を下ろした。


「わかりませんが、お役目でしょう。何せ、執政直々のお呼び出しだそうで」

「いつ?」

「明日、戌の刻。迎えに来ますから支度をしていてください」

「お前も一緒なのか?」


 主税介は、御手先役ではない。清記のように見習いでもないので、藩のお偉方に呼び出された事も無いはずだ。やっていると言えば、始末屋としての仕事ヤマだけである。


「そうですよ、私も呼ばれております。それが、何か?」


 どこか誇らし気な主税介の口調に、清記は小さな溜息を漏らした。

 そんなに、嬉しい事なのだろうか。やらされている事と言えば、人殺しだというのに。


「それはそうと、兄上」


 そこまで言うと、主税介が何かを思い出したのか、噴き出す笑いを堪えながら口を開いた。


「夜臼村では、大変なご活躍をしたようで」

「……」

「ですが、首謀者を見逃したそうですね。何でも、相手が商人で無腰だったから斬らなかったと」


 その事か。誰が、主税介の耳に入れたのだろうか。そう思って浮かぶ顔は、一つしかない。父だ。


「笑いたければ笑えばいい」

「ええ、言われずとも笑います。兄上らしいとは思いますが」


 夜臼村での事は、私事である。明義屋の憎しみは、夜須藩ではなく自分個人に向いている。ならば、見逃す事も許されるのだと思った。

 なるべく、私事で人を斬りたくないのだ。斬らなくて済むのなら、それに越した事はない。


「ただ、人ひとり見逃したところで、その手の穢れが落ちるわけでもありませんよ。お役目だろうが、そうでなかろうが、人斬りには変わりはない。既に我々の手は、落ちない穢れで真っ黒なんです」

「だから、これ以上は穢れたくなはい」

「兄上、そこが甘いんです。諦めるのですよ。そして、自分が人斬りである事を受け入れるのです。さすれば、心が楽になります。悩まずともいい」

「お前が助言とはな」


 そう言うと、主税介が鼻を鳴らして立ち上がった。もう時刻は逢魔が時だ。庭に目をやると、闇は更に濃くなっていた。


「でも、感謝しますよ。兄上のその甘さがあるからこそ、私の働きが映えますからね。父上も、どちらが御手先役に相応しいのか考え直している事でしょう」


 主税介が去ると、清記は身体を横たえた。

 確かに、主税介の言う通りだ。一々悩んでいる自分より、非情になって徹底している主税介の方が、御手先役に適任だろう。

 十日前には、主税介は始末屋として五歳の少年を斬っていた。さる門閥の跡目相続に関わる仕事ヤマだったらしい。


「あいつ、何の迷いも無く斬りおったぞ」


 と、教えてくれたのは、父自身だった。そこには、感嘆とする響きがあり、明義屋を逃がした事への批判が含まれていると感じた。

 あれから、明義屋がどうなったのか、清記は知らない。調べるつもりもないが、もし再び現れたら、父はどんな顔をするだろうか。そして、その時こそ見限るはずだ。


(それなら、それでもいいのだ)


 別に、御手先役となる事も、平山家の家督を継ぐ事も望んでいる事ではない。不適格の烙印を押されれば、寺小屋の師匠にでもなろう。


(しかし、父はどこかで試すはずだ)


 主税介を穴水家に養子に出したとは言え、主税介の芽が完全に無いとは言えない。主税介の方がいいと思えば、何の迷いも無く廃嫡を決めるだろう。何しろ、父自身がそうだったのだ。二人の兄を押し退け、家督を継いでいる。

 鬱々とした懊悩を断ち切ったのは、自分の名を呼ぶ治作の声だった。どうやら風呂が沸いたらしい。清記は、ゆっくりと身を起こした。


〔第一回 了〕

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