第三回 奥寺中老家②
城前町の奥寺邸に着いた清記は、応対に現れた家人に用件を伝えると、邸内に案内された。邸内には樹木が多く植えられ、まるで鎮守の森に迷い込んだかのような錯覚に陥る。陽を浴びる緑が眩しく、それが涼し気にも思え、また敷地は見掛けより広いように感じる。
客間に通され、暫く待つように言われた。大和は手が離せぬ所用とやらで、席を外しているという。
開け放たれた障子から庭を眺めていると、女が現れた。丁寧に頭を下げたが、表情には客を迎える温かみは微塵も感じなかった。
冷めた麦湯と
歳は十七か八。
「何か」
眼差しに敵意を感じた清記は、思わず口を開いたが、
「いえ」
と、女はそれだけを口にして、スッと立ち上がって客間を出て行った。
(何なのだ、あの娘は)
あの大和とて、奉公人の躾は行き届いてないと見える。平山家に斯様な不愛想な奉公人がいれば、三郎助の叱責が飛んでいたはずだ。
暫く葛饅頭と麦湯で暇を潰していると、家人が大和が戻ったと伝えに現れた。
「申し訳ない、筆が止まらなかった」
陽に焼けた大和が清記の目の前で胡坐座になると、そう言った。
両手が墨汁で汚れていた。書画に勤しんでいるのだろう。確か、奥寺竹円という雅号だったか。
「ちょいと依頼を受けた作品があってね。まだ急がんのだが、我を忘れるほど没頭してしまった」
「いえ、斯様な時にお訪ねして申し訳ございません」
「気にするな。私が悪いのだよ」
大和は、筋骨逞しい男である。顔は四角で、首は太い。鍛え込んでいるのか、歳による衰えが見えない。ただ、鍛えている男が持つ特有な野卑さは無く、そこはかとない品の良さを感じる。そこは名門の出だからだろう。
「それより、よく来てくれたな」
「はっ……。お初にお目に掛かります。父・悌蔵に申し付けられ、参上いたしました。平山清記と申します」
「ふふ。堅苦しい挨拶は抜きにしようか。私は奥寺大和。お前については、悌蔵殿に聞いておる。中々使うそうではないか」
大和はそう言って、剣を構える仕草を見せた。
「いえ。私は、ご子息に敗れた身でございます」
「曩祖での事か」
清記が頷くと、大和は闊達に笑った。
「東馬も言うておったが、あれは不運な負けであったな」
「不運ではございません。実力でございます」
「なんだ、お前は気にしておるのか?」
僅かな沈黙の後、
「気にしない者は、剣を棄てるべきだと思います」
と、清記は答えた。
「ふむ。確かにそうだな。それは政事にも言える事だが」
奥寺は、頷いて腕を組んだ。めくれた袖から見える二の腕は、やはり太かった。
「その私が、奥寺様や御家人衆へご指南とは、お恥ずかしい限りでございます。本来ならお断りを申し上げる所ですが」
「なんの。お前の剣には、凄味がある。儂や東馬とは違う、到底辿りつけぬほどのな」
「凄味ですか」
「そうだ。東馬とは、根本的に違う世界の剣なのだ。どのような修行を悌蔵殿としたのかわからぬが、あの試合を見ているだけの儂でさえ、肌に粟が立ったぞ。しかし、だからこそ四十六にもなって、息子と変わらぬ歳の者に剣を学ぶのだよ」
凄味、という言葉が、清記には引っ掛かった。大和は、自分が御手先役である事を知っているのかもしれない。御手先役について知っているのは、藩主と限られた一門衆、そして執政府だけである。中老は執政府に入れる身分であるから、御手先役について知っていても不思議はないのだが、命を受ける場に一度も姿を見せた事は無い。
「今、時勢が妙に動いている。二年前、京都で竹内式部一件が起きた事は知っておろう」
「はい。大徳寺家の臣・竹内式部が
「そうだ。その一件で、我が藩も一枚噛んだ事は?」
清記は頷いた。
当然知っている。父の事なのだ。夜須藩は幕府の要請で、宝暦六年からの約二年もの間、御手先役を京都へ派遣していた。主な役割は京都所司代・
「しかも、つい先日には幕府の重石であり、大樹公の股肱の臣であった、
本物の剣。気になる物言いである。やはり、大和は御手先役について知っていて、意図的に言っているのだろう。
「わかりました。東馬殿に敗れた私に指南役とは酷な事だと思いましたが、そう言われるとやる気も出ます」
「こちらこそだ。さっそくやろうか」
大和が、破顔して膝を叩いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
それから稽古着に着替え、道場に案内された。敷地内に建てた、立派な道場だ。東馬もここで腕を磨いたのだろうか。
「あなたは……」
清記は、思わず声を出していた。
客間に茶を運んできた女が、道場の中央で端座して待っていたのだ。しかも、稽古着姿。髪も崩され、後ろで一つに纏められている。
「
大和が言った。
志月と呼ばれた女は、おもむろに立ち上がると、清記の前に進み出た。眼光は鋭く、敵愾心に溢れている。
「父上。わたくし、平山殿と手合せをしとうございます」
「お前が? どうして?」
「平山殿は、兄上に敗れた相手。わたくしもその試合を見ておりましたが、兄上の敵ではございませんでした。しかも、軽く小手で一本。決勝で争った山岸殿ならまだしも、斯様な御仁が当家の剣術指南とは解せませぬ」
「たわけ、何と無礼な事を言うのだ」
「無礼である事は承知しております。ですが事実でございます。剣とは命を奪うものでございますが、同時に命を守るものでもございます。故に家人に教導をする役目は、腕が確かな者を選ぶべきと思います」
すると、大和が苦笑し清記を一瞥した。
「清記殿。これなるは儂の娘で、志月と申す。女ながら剣が好きと、困ったものでな。一刀流の
そう言った大和の顔が、言葉とは裏腹ににんまりとしていた。困った娘だが、剣術達者なのが自慢で、それでいて可愛くて仕方ないのだろう。
「ほう。あの小関道場ですか」
小関道場は城下にある小さな道場だが、荒稽古で有名だった。道場主の
「そうだ。その上、一度言い出したら聞かぬ。まぁ、滅多に我儘を言う女ではないのだが」
「はぁ」
「どうだ、一度だけ手合わせをしてくれぬか」
「女とは立ち合わない。と、そのような事は申しません。剣を志しておられるのなら、喜んでお受けしましょう」
「そうか。娘の我儘に付き合ってくれるか」
「ただし、防具は無しで」
「おい、それでは」
これには、流石の大和も色をなした。その気持ちはわかる。素面素小手では、嫁入り前の娘に傷が付くと思っているのだろう。しかし、清記は敢えてそう言った。あの挑戦的な視線に、些か腹立ちも覚えている。
それを取りなしたのは、志月だった。
「父上、わたくしは構いませぬ。清記殿の竹刀が、わたくしの身体に届くとは限りませぬ故……」
「大した自信ですね」
その言葉に、志月は何も反応を見せず踵を返した。
暗い女だ、と清記は思った。声の調子も、瞳の光も。それでいて、気が強い。これでは、嫁の貰い手はいないのも頷ける。ただそうした志月を、腹立たしく思いこそすれ、性悪だとは何故か思わなかった。
(肩肘張って生きているだけなのだ)
きっとそうさせるだけの何かが、彼女の中にあるのだろうと、清記は感じた。
「いざ、参りましょう」
志月に促され、清記は適当な竹刀を選び、道場の中央に進み出た。
正眼。志月の構えは、端正なものだった。それでいて、隙が無い。何処を狙っても、打ち返される。そんな気にもなる。
(見事なものだ)
厳しい修行と、身近な父や兄を見て、覚えたのだろう。並みの武士よりは使える。それは間違いないが、竹刀に限っての事だ。
清記も正眼に構え、竹刀の切っ先に剣気を集中させた。そして、不動。ただ、切っ先を志月に向けるだけである。
志月が、しきりに気勢を挙げている。こちらの圧力を振り払おうとしているのだ。
清記は待った。佇立、
更に気を込めた。志月の額に、大粒の汗が浮かぶ。なんとか膠着を打開しようとしているが、中々前に踏み込めないという所だろう。
(やはり、相手の力量を見極める目は大切だ)
と、対峙を続けながら、清記は何となく思った。これが実戦であれば、志月の命は確実に無い。相手の力量を見誤ったのである。
(剣に秀でているのは確かだが、道場剣術の域を出ていない)
清記は前に出た。すると、志月が一歩下がる。それを二度繰り返した時、志月が堪らず竹刀を落とし、膝を付いた。
「それまでだ」
二人の間に大和が割った。
「流石だな。私が見込んだだけはある」
「いえ。奥寺様のお嬢様に傷はつけられませんので」
すると、それを聞きた志月は、下唇を噛んだまま道場から駆け去っていった。
「志月の事は気にするな。あれでいて、認める所は認める女だ。そのうち、お前の稽古を受けたいと言い出すだろう。……さて、次は儂と稽古だ。手加減は無用だぞ」
そう言うと、大和は竹刀を手に取った。構えは正眼。やはり親子。その構えは、どことなく似ていた。
〔第三回 了〕
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