第二回 建花寺村①
闇の中を、歩いていた。
月も星も出ていない、全くの暗闇である。夜目は利く。灯りなどなくとも、清記の足に一寸の乱れは無い。
幼き頃から訓練してきたのだ。夜の山を独り歩かされ、時には暗い部屋に釘を撒き、その中で一晩過ごした事もある。御手先役は闇のお役目である以上、夜に行動を起こす事が多い。夜目が利く事は、絶対条件だった。
杉崎一党を始末した清記は、その足で小竹宿を発していた。向かう先は、平山家の所領・
途中で目尾組の廉平と落ち合い、用意していた衣服に改めた。浪人の風体のまま帰ると、平山家の家人や奉公人のみならず村の百姓たちも驚かせてしまう。これでも清記は、内住郡代官の御曹司なのだ。平山家は念真流の宗家であると同時に、
遠くに夜須城の陰影が薄っすらと見えてきた辺りで、清記は街道を外れて城下を迂回した。
(何かがいるな……)
そう感じたのは、城下も遠くなったと感じられる頃である。
地名で言うと、
気配は背後からだった。不快な気配である。
相手は誰なのか。気にはなるが、今まで斬った人数を考えれば、わかるはずもない。念真流、そして御手先役に対して遺恨を抱いている者の数が多過ぎるのだ。そして、平山清記という自分自身への遺恨も。
十二歳の時に、初めて人を斬った。相手は内住郡を荒らしていた盗っ人で、父に斬り殺すように命じられた。
葦の原で、盗っ人も刀を持って待っていた。父から、目の前の子どもを斬れば罪を許すと言われていたようだ。死に物狂いで迫る盗っ人を、清記はかなりの時を掛けて殺した。最後は馬乗りになり、喉に脇差を突き刺して息の根を止めた。それ以降、殺した人数を数えていたが、十五を越えた所で止めた。
呪われた血脈なのだ。故に、自ら欲していなくとも敵は現れる。そして、それらを斬らねば生き残れない。唯一、この呪いから解放される術は、死ぬだけだ。
父曰く、
「我ら一族を狙う者は多い。次から次に現れるので、一々調べたり考えたりはするだけ無駄というものじゃ。ただ粛々と斬って捨てればそれでよい」
だそうだ。
現にそうなっている。お役目の合間、或いはその最中にも敵が現れる。最初は何の為に? と、考えていたが、今はもう父の言葉に従っている。
御手先役という役目については、加助を斬った後も、暫く考えていた。その宿命から逃れられないからこそ、納得出来るように考え抜いたのだ。
何の為に、人を殺すのか。罪人ならばまだいい。そうでない者も殺すのだ。これが
吹っ切れたのは、二年前の事だ。栄生利永が芸者の娘に産ませた御落胤で、
血は流すな、とも言われたので、清記は細紐を使って若丸の息の根を止めた。足掻く若者がその動きを止めた瞬間、清記も御手先役の是非について、考えるのを止めた。
御手先役は、御家と領民を守る刀。どれほど罪業を重ねても、
それでも、人を殺める行為自体には、慣れる事はない。一人斬る毎に、何かが肩に
筒原を抜けると、開墾した田園風景が見えて来た。当然、この時間は全てが寝静まっている。清記は田圃の畦道で歩みを止め、一度振り返った。
闇が広がっている。その奥の奥に蠢く黒の中に、確かに何者かの気配はあるように感じるのだが、人の姿は無い。夏虫が、けたたましく鳴いているだけである。
(私を斬りたいのであれば、いつでも相手にするのだが……)
人の目はない。いつの間にか雲の切れ目から姿を出した月明かりで、夜道もそう暗いものではなくなっていた。つまり、立ち合うには、うってつけの機会なのだ。
暫く待ったが、不快な気配は霧散したかのように消えていた。
相手にも機というものがあるのだろう。こうした読み合いも、立ち合いの内である。清記は軽い溜息を吐いて、踵を返した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
建花寺村が見えてきたのは、翌日の昼前の事だった。
村の周囲を巡る田畠の農道を歩いていると、
「清記様」
と、野良仕事をしていた中年の百姓に声を掛けられた。確か、名前は
「朝帰りでごぜえやすか?」
「この時分では、朝帰りではなく昼帰りだな」
清記は、幾分かの笑みを浮かべて、栄吉に歩み寄った。
栄吉は日焼けした顔に、大粒の汗を浮かべている。この暑さだ。野良仕事も骨に違いない。
「これですかい?」
と、栄吉は
「
「なら、これですか」
今度は小指を立てた。清記はただ頷いた。
「吉原町に中々の女がいてな」
「ひひっ。清記様も、顔に似合わずお盛んで」
栄吉が、卑猥な笑みを浮かべて乗ってきた。
「お前さんには勝てんよ。父上に聞いたが、若い頃は相当女を泣かせたらしいな。何でも他の村の女に手を出し、若衆が殴り込んできたとか」
「まぁ、そんな事もごぜえやしたが、今はかかぁの小間使いみたいなもので」
「
「じゃ、清記様も女に泣かされやすな」
と、栄吉が笑ったので、清記も声を挙げて笑った。
「違いない。今に女に泣かされよう。そうなったら、私を慰めてくれ」
百姓の前では、善き武士、善き領主であろうと心掛けていた。これは代官職に無関心な父にも重々言われている事で、その〔善き〕とは、百姓の話を聞き、理解し、共感しながらも、生かさず殺さずに支配する事を指す。その為に、清記は出来るだけ村民の名と顔を覚え、親しみやすい演技をしている。
「あんた、何やってだい」
遠くで、声が聞こえた。栄吉の女房である。
「うるせえ。清記様と話してんだ」
そう大声で叫ぶ栄吉に対し、女房は何事か叫んでいる。罵詈雑言の類だろう。清記は思わず苦笑し、
「私に代わって、女房殿に謝っておいてくれ」
と、その場を離れた。
それから何人かに声を掛けられた。その全てに清記は応えた。急ぎたかったが、無視をすれば印象が悪くなる。それに、百姓は国の根幹支える柱。その彼らに対し、
田畠を過ぎると、木戸門が見えてきた。そこには、平山家の家人が一人立っている。村を守る門番のようなものだ。六角棒を手にしている。門番は清記に目をやると、軽く目を伏せた。
建花寺村は平山家の知行地であると同時に、内住郡内の二十五ヶ村、おおよそ一万二千石の村政を司る要地でもある。代官所たる陣屋を中心に、家人が住まう長屋があり、〔建花寺流〕の看板が掛けられた剣術道場、そして小さいが居酒屋・一膳飯屋・旅籠・鍛冶屋・古着屋・よろず屋と商店が軒を連ね、それを囲むように百姓屋が広がっている。村というより宿場町の
村は秩序が保たれていて、静かだが人が生きている息遣いに満ちていた。それは、内住郡の政事が滞りなく行われている証左だろう。しかし、それは代官たる悌蔵の手腕によるものではない。代官職は御手先役という闇の役目を隠す為の偽装で、政務は藩庁から派遣された優秀な与力と
清記は、内住郡の政事も自らの手で為したいと、かねがね思っている。この内住郡代官を含めて、平山家なのだ。故に時間があれば、与力見習いの身分で職務を手伝う事もあるのだが、それに対して父は、
「余計な事よ。そんな暇があるのなら、剣でも磨け」
などと言うが、清記がそれでも続けるので、今では何も言わなくなっている。
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