第一章 闇の誓約

第一回 宵の闇①

 出された酒が、酷く薄いものだった。

 半分以上は水だろう。そうやって、酒の量を誤魔化しているのだ。

 清記は、板場にいる主人に一瞥をくれたが、六十を越えた歯抜けの老爺は、何食わぬ顔をして包丁を動かしている。

 色褪せた上に襟が擦り切れた単衣と、埃塗れの袴。髷も乱れ、無精髭を蓄えている。清記は浪人の風体をして、猪口を傾けていた。


(米が無いというのはわかるが、これは悪辣だな)


 飢饉とまで言わないが、夜須藩内の作柄が良いとも言えない。米価のみならず作物が軒並み値上がりし、こうした不正が起きているのだ。

 飢饉が起きれば、この比ではない。記録でしか知らないが、享保の御代に起きた飢饉では多くの餓死者を出し、打ち壊しも起こったという。

 米が手に入らないわけではない。多少高いが、銭で買える範囲でもある。市中も農村も、そこまで飢えた者はいない。ただ、だからと言って気を抜いてはならない。これからどうなるか、わかったものではないのだ。

 現在の不作が、大飢饉の引き金になる可能性もある。それに、不作が長引けば一揆も起こる。六年前、美濃の郡上ぐんじょうでは大規模な一揆が起き、それが切っ掛けとなって藩主たる金森かなもり家は改易に処されていた。

 夜須藩でも、四年前に一揆の機運があった。当時の中老・杢谷周兵衛もくや しゅうべえの発案で、新たな検地を実施された。その際に杢谷は藩内十郡の百姓代表者と話し合い、元禄三年に実施された検地以降に拓かれた田だけを検地すると取り決めていたにも関わらず、古い田までも調べ上げて年貢を増加させたのだ。それにより百姓達の怒りは高まり、多田村の加助がその怒りを一揆へと導こうとしていたのである。

 しかし、それは執政府の見解で実際は違った。加助は、百姓の暴発を防がんとして説得を試みていたのだ。

 その事実を掴んだ清記は、早速父に報告を入れたが、返ってきた答えは、


「斬れ」


 という、一言だった。

 清記はなおも加助の無実を言い募ったが、父から扇子を清記に投げつけられ、


「考える事は、我らの役目ではないわ。もしお前が斬らぬのなら、儂が斬るまでよ」


 と、一喝を受けた。

 仕方なく、清記は加助を斬った。夜、厠で用を足そうと外へ出た所を襲ったのだ。

 御手先役は、藩と主家の刀に過ぎない。改めて、そう思った。ただ斬るだけなのだ。そして、誰を斬るかを決めるのは、藩主或いは執政府である。そうした自分に、忸怩たる思いがないわけではない。悪人を斬るのならまだいい。しかし、この役目は善人も命令次第では、容赦なく斬らねばならない。加助もそうだった。腹を割って話せば、斬らずに済んだかもしれない。そして、いずれは有能な庄屋になり、夜須をより豊かにしたであろう。しかし、斬った。それが自分の役目であり、この世に存在する理由だからだ。走狗いぬである。つくづく、そう思う。殺す直前に、加助が見せた笑みが今も脳裏から離れないでいる。

 清記は、湯呑の酒に落としていた視線を上げた。

 客は、自分の他に地の者と見られる町人が三人と、長脇差を抱えた渡世人が一人。奥の小上りなどは無く、土間だけの店内である。客が十人も入れば満員になる小さな店で、酒気と料理の臭いが染み付いていた。

 夜須藩城下から北陸へ向かう、下野北街道しもつけきたかいどう沿いにある宿場・小竹宿こたけじゅく。地名で言えば、佐與郡さよぐんという。その居酒屋である。表には〔ひょう吉〕と、所々破れた提灯に記されていた。ひょう吉とは、この老爺の名前なのだろう。


(以前は賑わっていたというが……)


 かつて小竹宿は、飯盛旅籠が二十軒ほど建ち並ぶ色町として栄えていた。しかし十数年ほど前に、執政の犬山梅岳の名で城下に吉原町よしわらまちという岡場所を設けたのだ。城下に華やかな傾城街けいせいがいを置く事は、士風の乱れを危惧した初代藩主・栄生利忠さこう としただにより禁じられて以降、夜須藩の祖法として守られてきた。

しかし根っからの遊び人である利永が、梅岳に命じて祖法を撤回させたのだ。梅岳は藩内の批判を一斉に浴びる形になったが、それで藩主からの信頼は盤石なものになった。

 一方で吉原町の誕生で小竹宿は一気に寂れ、潰れた店は数知れず。今や旅人たびにんや近郷の百姓を相手に細々と商売を続けている有様になっている。飯盛女めしもりおんながいるにはいるが、城下では相手にされない女ばかりだいう話だった。


(この酒が、小竹の現状を如実に語っているのかもしれぬな)


 そう思いながら、清記は二杯目を飲み干したが、その冷たさに思わず喉が鳴った。水で薄めた酒でも、この溽暑じょくしょには恵みの甘露には違いはない。朝から日差しが強かった。昼過ぎになると、にわかに雲が広がって蒸すようになり、肌を舐めつけるような湿気は不快感しかなかった。

 清記は三杯目の薄い酒も空にすると、猪口を箸に持ち替えた。肴は、焼き茄子である。胡麻と大葉が乗っている。これは旨かった。冷えた茄子の冷感と、大葉の味が合うのだ。粗悪な酒の割りに料理は確かな事に、清記は驚いた。すると、板場から老爺が得意げな顔をこちらに向けた。清記は、それに肩を竦めて応え、四杯目の酒を胃に流し込んだ。


(薄いだけに、いつまでも酔えそうにない)


 だが、喉の渇きを潤す事は出来た。酒は好きではない。かと言って嫌いでもなかった。出されれば飲むという程度だが、この暑さが酒を求めた。

 老爺が傍に来た。


「浪人かい?」


 その言葉には、相手が二本差しである事への遠慮は無い。歯は抜け、老いさらばえてはいるが、度胸はありそうだった。


「俺が主持ちに見えるってのかよ?」

「見えるね。浪人の風体はしているが、お前さんには隠しきれない品というもんがある。だから声を掛けたんだ」


 清記は鼻を鳴らした。


「何だか知らねぇが、仕事ヤマを踏む為にしてんだろ、そんな恰好なりをよ。百姓がにわか士分を与えられたように全く似合ってねぇぜ」


 見抜かれた。が、清記は気にしなかった。そもそも、この変装で騙し通せるとは思っていなかった。


「当たりだろう?」

「知らねぇな」


 そう言ったものの、老爺の言葉は図星だった。人を斬る、御手先役としての、いつものお役目。その為に、薄汚れた浪人の恰好をしているのだ。


「第一、その喋り方からして似合わねぇ」

「そんなに滑稽か?」

「あんたの口は、下卑た喋り方をするようには出来てねぇ。『ござる、ござる』って言う為の口だよ」

「好きでやっている事さ」

「へぇ……。最近の侍は、ようわからんな」

「どうだ、一杯」


 猪口を差し出すと、老爺は僅かな笑みを見せて、それを受けた。


「景気は?」

「どうもこうもねぇよ。手遅れだ、この宿場は」

「随分と悲観的じゃねぇか」

「元々肥溜めみたいな場所だったんだ。城下に吉原町が出来て寂れたと思ったら、あいつらが来た」

圓通寺えんつうじの浪人の事か」

「そこまでは言いたくねぇな。こんな老いぼれでも命は惜しい」

「そうかい」


 圓通寺には、杉崎孫兵衛すぎさき まごべえという男を中心にした浪人衆が巣食っている。その数は、六名。腕っぷしに物を言わせ、宿場内で傍若無人な振る舞いをし、逆らう者は容赦なく斬り捨てているらしい。

 夜須藩は、浪人の流入を禁じている。見つけ次第、斬り捨ててもいいという事にされていた。そのうち、町年寄や庄屋など身許確かな引受人がいれば浪人の定住も許されるようになったが、寛永年間の頃には餓えた浪人が藩士によって数多く斬られたという。そうして藩士は実戦の経験を積み、当時の藩庁も腕磨きの為に、浪人狩りを奨励していた。

 しかし、宝暦となった今はそうする者はいない。むしろ、凶悪化した浪人に対して、城下に踏み込まない限りは見て見ぬ振りを決め込んでいる。何とも情けない話だが、戦乱が遠くなり真剣を満足に抜けない武士が大半の昨今では仕方のない話だ。

 杉崎孫兵衛も凶悪化した浪人の一人で、彼ら一党を残らず始末する事が、清記に課せられた御手先役としての役目だった。


「お前さん、何が目的か知らんが早く立ち去った方がいい。十日前にも、城下から来た侍の一団が呆気なく殺されたばかりだからさ」

「へぇ」


 野村重太郎のむら じゅうたろうの事だ。十名からなる討伐隊の指図役を務めた野村は、不伝流ふでんりゅうの剣客である。直接の面識はないが、その剣名は度々耳にしていた。

 また、野村は犬山梅岳の派閥に加わっており、討伐は梅岳の命を受けての事だったという。だが野村は武運拙く返り討ちされ、いよいよ御手先役の出番になったという次第だった。


「命は大事にしろ。まだ若いんだろう?」

「まぁ」

「早く出ちまうこった、こんな宿場」


 老爺は小声で吐き捨てた。

 この宿場に住む者にとって、圓通寺に巣食う浪人は触れてはいけないものなのだろう。老爺はそれ以上語らず、板場に戻った。

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