序章

曩祖八幡宮奉納試合

 宝暦六年霜月、野州夜須藩やしゅう やすはん


 おろしが吹いていた。

 背後にそびえる、竜王山りゅうおうざんからの滑降風かこうふうである。

 竜王颪りゅうおうおろしと近郷の者が呼ぶそれは、氷の刃で肌を切り裂くように冷たかった。

 もうすぐ、下野しもつけを覆う長い冬が来る。竜王颪は、その先触れだと言い伝えられている。

 曩祖八幡宮のうそはちまんぐう、その境内。平山清記ひらやま せいきは、陽に焼けた精悍な武士同士の対峙を、試合場の端に敷かれた御座の席から、半呆然とした気分で眺めていた。

 踏み固められた固い土の上で向かい合う二人の青年は、互いに素面・素籠手。手には竹刀を握りしめている。

 曩祖八幡宮建立五百年を祝う、大祭の奉納勝ち抜き戦。試合場を取り囲む、観客席は大盛況である。夜須藩やすはん藩主家たる栄生さこう家一門衆や藩政を取り仕切る執政府のお偉方から、武家や町人・百姓に至るまで、身分に問わず大勢詰めかけていた。

 しかしこの日は、試合日和とは言えない天気だった。朝から重く低い雲が空を覆っているが、午後を過ぎた今も、雨は降り切れないでいるのだ。その下で行われる試合も、空模様のように息苦しいものだった。

 対峙しているのは、奥寺東馬おくでら とうま山岸卯兵やまぎし うひょうという二人の武士である。奥寺東馬は、中老を務める奥寺大和おくでら やまとの嫡子であり、大組に属する上士。今も父親の大和が、藩主家の面々と並んで見守っている。一方の山岸卯兵は、無足組むそくぐみに属する下士だ。身分階級が厳しい夜須藩では、容易に交わらぬ両者の立ち合い。身分の上下に関わりなく、ただ剣の実力のみが試される曩祖八幡奉納試合の主旨が具現化したような決勝戦になった。


(さて、どうなるか)


 どちらも、中々の試合を繰り広げ決勝まで辿り着いていた。東馬も山岸も、外連味けれんみの無い精妙せいみょうな剣を使う。互いの持ち味は正反対であるが、根本の部分、剣への思想では似た者同士の立ち合いだった。


(俺としては、奥寺殿が勝つ方がいいのだがな)


 そうすれば、この屈辱も多少は払う事が出来よう。

 清記は、二回戦で東馬と対戦し敗れていた。長い対峙の末に、小手を打たれたのだ。

 いつどのように打たれたのか、清記は気が付かなかった。ただ立会人の旗は上がり、不思議な事に竹刀は地に転がっていたのだ。

 完敗だった。言い訳も出来ないほどに。そして元服以来、初めて師でもある父親以外の者に全力を賭して負けたのだった。それほど東馬は強かった。これが真剣であったらと思うと、肌に粟が立つ。


(情けない……)


 と、清記は内心で自嘲した。負けた事も、東馬が勝てばいいと思ってしまう事も。負け犬の発想である。

 自らの力量を試そうと、意気揚々と参加した奉納試合だった。父の悌蔵ていぞうには、


「竹刀遊びなんぞ、何の役にも立たん。止めとけ、止めとけ」


 そう言われて反対されたのだが、なおも言い募ると、


「我儘な奴よの。時間の無駄というものじゃが、お前が是非というのなら勝手にしろ」


 と、許してくれた。

 それだけに、情けない。父に合わせる顔も無い。

 清記は、自らの剣に自信を持っていた。幼き頃より、父に付き従い血反吐を吐くような修行を重ねた。元服前には、人も斬った。そうして得た、至高の剣だと自負していたのだ。

 東馬は藩庁に剣の腕を認められ、江戸の一刀流中西道場で修行している逸材。とは言え、竹刀と平らな板張りだけの生温い道場剣法と高を括ってしまっていた。奢りが敗北を招いたのだと、はっきりと今ならわかる。

 平山家は、夜須藩の御留流おとどめりゅうである、念真流ねんしんりゅうの宗家である。藩外は勿論、藩内の者にも稽古すら見せてはならぬと命じられた、門外不出の流派だ。

 次期宗家となる者の無残な敗北を目の当たりにした藩主家や執政府の面々は、どう思っているのだろうか。念真流の名は伏せ、建花寺流けんげじりゅうと称しての参加だったが、負けたのが次期継承者である事は、当然知っているはずだ。故に清記は、お偉方の席に目を向けられなかった。怖かったのだ。

 先祖代々平山家の血脈に受け継がれてきた、念真流の剣。邪険と人は呼ぶが、それが清記の誇りでもあり自我そのものだ。それが、東馬に全く通じなかった。敗れたのは流派云々ではなく、自分の力量。そう思っても念真流が敗れたと感じ、心は深く沈んだ。


(ここで東馬殿が敗れたら、ますます面目が立たぬ)


 情けない考えだと思っても、東馬の勝利を願ってしまう。

 強い風が、再び吹いた。二人が頭に巻いた、純白の鉢巻が靡いている。

 二人共、背が高い。ただ東馬に比べ、山岸は太くもあった。体格で戦うわけではないが、力勝負になった時はそれが有利に働く事もある。

 対峙は続いていた。見物客は溢れんばかりだが、曩祖八幡宮の境内は、水を打ったかのように静まりかえっている。皆が息を呑んでいるのだ。


(動くか)


 微かだが、二人の剣気が膨れたのを清記は感じた。

 先に動いたのは、東馬だった。気勢を挙げてからの連撃。流れるような攻めだった。それは一刀流を使う東馬らしさが出た、一本気で果敢な攻めである。山岸はそれを躱し、防ぎ、弾きながら、何とか反撃の機会を伺っている。

 山岸は甲軍流こうぐんりゅう。出羽の剣豪鬼尾逸平斎おにお いっぺいさい元和年間げんなねんかんに興した流派で、その高弟である塩原弥一郎しおばら やいちろうが寛永十五年に野州に移り住んだ事で、藩内に広まる事になった。守りに強い流派で、守り、守り、守り通した上に返し打つ特徴がある。清記は、その守りの硬さと返しの峻烈さについて、父から何度も聞かされていた。


「幻惑の剣じゃな」


 そうとも言っていた。攻めて攻めて、攻めているうちに、自分が優勢になっていると勘違いをする。そう思った時に、返しを受けて敗れるとの事だった。

 目の前で山岸が見せている動きは、まさに父が言っていた幻惑の剣。未だ東馬の連撃は続いているが、自分が優勢であると勘違いをしている頃合いだろうか。

 しかし、守り通す山岸もだが、息を吐かせぬ東馬の攻めもまた見事だった。甲軍流の返しがあるというが、その隙が清記には見えない。


(しかし、このままでは済むまい)


 甲軍流の名声だけでなく、山岸の剣名も藩内では高い。夜須の使い手を挙げるなら、五指に入らずとも十指には入るほどだ。しかも、三年前には盗賊の追討で何人か斬っている。実戦を経験した者は、格段に強くなる。このまま押し切られる事はないだろう。

 そのうち、痛烈な返しが来る。清記は、そう読んでいた。山岸の顔にも、まだ余裕がある。そして、攻撃の間に生まれる隙を狙っている。そのはずだった。


「なに」


 立会人が、赤い旗を上げた。清記は、身を乗り出していた。

 東馬の竹刀が、山岸の左肩を打っていた。その瞬間を、清記は見て取れなかった。東馬の連撃が、甲軍流の厚い壁を打ち破っていたのだ。

 歓声が挙がった。清記は勝負を見届けると、無言で腰を上げた。


(あれは天賦の才というものだ)


 計り知れない剣を使う。努力によるところもあるだろうが、紛れもなく天が与えたものだろう。そして、優勝者に負けたとなれば、これで念真流の面目も立つ。情けないが、ホッとしている自分がいる。

 しかし、東馬は強い。あの男に、真剣で勝てるのか? 真剣と竹刀は違う。しかし、真剣であっても勝てるとは思えない。東馬が勝ち面目は立ったが、嬉しさは無かった。情けなさと、悔しさが双肩に圧し掛かり足取りは重かった。

 清記は伏し目がちで、境内から延びる長い階段を一人ぽつぽつ下った。

 階段脇、そして降りた所には様々な出店が立ち並んでいて、奉納試合でひと稼ぎをしようと香具師やしが、最後のかき入れを狙って声を張り上げている。しかし、敗戦の言い訳に思考が忙殺されている清記にとって、その声は遠かった。


「やい、我儘息子」


 声を変えられたのは、掛け茶屋の前だった。人の往来は激しい。見物人が一斉に帰り出したのだ。


「おい、清記。こっちじゃて」


 振り向くと、人の波の中で総白髪の頭だけが見えた。それが切れ間を見せると、小柄の老爺ろうや緋毛氈ひもうせんが敷かれた縁台で茶を啜っていた。父の悌蔵だった。

 清記は、悌蔵の遅い子だった。本当は三男で上に二人の兄がいたが、早世し自分が嫡男となっている。


「竹刀遊びなんぞにうつつを抜かしおって」

「父上、何故……」

犬山梅岳いぬやま ばいがく様の別邸に呼ばれての。その帰りじゃ」


 犬山梅岳。野州夜須藩十二万石を統べる執政である。藩主・栄生利永さこう としながに取り入って藩政を壟断し、心ある藩士の間では君側の奸とも呼ばれている男だ。

 梅岳の名を聞いた時、清記は微かに眉を潜めたが、すぐに自らの敗北が頭に過った。


「私は」

「清記、儂は子供の遊びがどうなったなど聞きとうないわ」


 と、悌蔵は立ち上がり、清記に頬を寄せた。


「新たなお役目じゃ」


 父の低く抑えた声を聞いた瞬間、清記の四肢に力みが走った。そして押し黙り、次の言葉を待った。

 いつもそうだ。いつかは慣れるのだろうと思いつつも、慣れる事はないのかもしれないとも感じている。

 念真流は、夜須藩の御留流。そうされる理由は、念真流宗家たる平山家が、御家に仇なす者を斬る御手先役おてさきやくという刺客の役目を秘密裏に負っているからだ。現在の当主は父の悌蔵であるが、老齢を理由に今はその大半を清記が肩代わりしている。


仁保郡にほぐんで一揆の機運がある。百姓を使嗾しそうする加助かすけとやらを討てとな」

「……」


 多田村ただむらの加助の事だった。庄屋の息子で、陽明学ようめいがくを修めた学識豊かな男である。物腰も柔らかく、本百姓や小作人の分け隔ても無い。〔義民の加助〕として、近郷の者は呼んでいるという。

 清記も、一度だけ会った事がある。藩内を巡っていた時、雨に降られていた清記に声を掛け、屋敷に招いてくれたのだ。代官の息子と庄屋の息子。その夜は、農政について遅くまで語り合った。深い見識と百姓へ慈愛に満ちた視線は清記も学ぶべきものが多々あり、加助自身もいずれは名高い篤農家とくのうかになるであろうと思っていた。


(その男を斬るのか)


 一揆を起こさせてはならない。しかし、その為に加助を斬る事が藩の為になるのか。もっと根本の部分に、太刀を入れるべきではないのか。


(何を詮無き事を……)


 清記は、お役目に関する思念の一切を消し去った。お役目の是非など、考えても仕方のない事だ。命ぜられた事を粛々と為す、権力の走狗いぬ。これが平山家が受け継ぐ、呪われた宿運。そして、御手先役のあるべき姿なのだ。


「何をぼさっとしておるのだ」

「しかし、父上。私は」

「四の五の言わんで早う行くぞ。我らのお役目は竹刀遊びではないというのに、わからん奴じゃの、全く」


 清記は唸るような返事で応え、父の小さな背を追った。


〔序 了〕

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