第15話
「インフルエンザの感染者が校内から出たから全員注意するように」
次の土曜日の合奏練習の日。朝のミーティングは最近校内で流行しつつある感染症の注意喚起からはじまった。去年の楠本はそのインフルエンザに感染していた。痛みで動かない体を無理やり動かしてタクシーに乗り込み、病院の待合室でも意識を朦朧とさせながらも椅子に座ってじっと順番を待っていた。
あの経験を今年も繰り返すのはごめんだ。祖母が薬局で買ってくれたスポーツドリンクは美味しかったが、それを味わうがために再びあの苦痛を受けるのであれば全然割に合わない。それに去年は不幸中の幸いにして定期演奏会が終わった後に感染したが、今回もその幸運がやってくるとは思えない。ラストステージである今年の定期演奏会をインフルエンザで落とすことになったら目も当てられない。
「ひと昔前の世界的パンデミックほどじゃないけどインフルも馬鹿にできないからね。家に帰ったら手洗いうがい、それとマスクの着用。定期演奏会が近いから体調管理は徹底してね。本番に出られなくて病気で苦しむなんてダブルパンチで辛いよ」
三年生でなくても定期演奏会を落とすのは辛いことだろう。いや定期演奏会ほど大きいステージでなくても本番に出られないというのは苦しいものだ。年に数回しかない自分たちの大事な晴れ舞台なのだから。
「今日はいつも通り午前中は個人練習とパート練習。午後からは第三部の曲を中心に練習していくから」
それじゃあ練習を始めて。と藤岡が朝礼の終わりを告げると小柳が「起立、ありがとうございました」と号令をかけた。
朝礼が終わり、木管群は練習場所へ向かうためにがたがたと席を立つ。
「あ、それと」
言い忘れていたことを思い出して藤岡は全員を教室にとどめた。
「三年生は全員この後すぐに理科室に集まって」
なにかあったのだろうか、と一年生たちは不安を顔にあらわす。しかし二、三年生たちはこの集合の意味が分かっている。
とうとう来てしまった。シンフォニエッタに並ぶ別れの曲が。
「言わなくても分かるよね?」
二階にある理科室。集められた三年生たちは教室の前に置かれている教師用の大きな机の周りに木製の椅子を持ってきて座っていた。目の前にはそれぞれコンデンススコアのコピーが置かれている。国内の大手楽譜出版社が大昔に発売したクラシックのメドレーだ。
「それじゃあ決めていこうか。最後のソロを」
ここの吹奏楽部員は定期演奏会の最後の最後にソロを演奏して部活を去ってゆく。演奏会にはアンコールが用意されてはいるが、アナウンス上はこのクラシックメドレー集が最後の演奏曲となる。普段はメロディばかりのトランペットにもメロディがほとんどないチューバにも、全員が最後にソロを演奏して舞台を降りるのだ。
「イントロはパッフェルベルの『カノン』。いつも通りここはソロってほどじゃないから飛ばしてっと」
藤岡は黒板にチョークを走らせる。
冒頭のカノンはほとんどの楽器が二部音符のいわゆるカノン進行で動き、木管群が「ツッテッテッテッ」と八分音符で刻んでいるだけ。メドレー集の曲想を表すにふさわしいロマンチックな部分だが、ソロが全て二分音符というのは最後のソロとしては寂しすぎる。
「まずは一発目、バッハの『G線上のアリア』を演奏したい人」
荻野が手を挙げた。
最初のソロであるこの部分は毎年トランペットが担当していた。
「次はアイネク。『アイネクライネナハトムジーク』の第二楽章。これはモーツァルトだね。やりたい人は?」
二人いるクラリネットのうちの片方が挙手。
「ベートーヴェンの『悲愴』第二楽章は?」
フルート奏者の部員が手を挙げた。彼女の名前が黒板に記入される。
「チャイコの『舟歌』」
次は蒲生だった。
暗く悲しい曲想。金管楽器と木管楽器の中間ともいえるホルンの音色はこの小舟を漕ぐかのようなゆったりとした雰囲気にマッチするだろう。たしか去年のホルン奏者もソロはこれを吹いていた。
「それじゃあボロディンの『
誰も手を上げない。
ならばチャンスだ。楠本は勇気をもって名乗り出た。
「え、楠本これがやりたいの?」
周りの三年生たちが騒めいた。一番驚いていたのは藤岡だった。
「これって
「本番で使ったのは高くてFでしたけど、普段のロングトーンではハイ
「じゃあやってみよう。最後にもう一歩前進だ」
藤岡は楠本の決意を支持した。彼女はあくまで中学校の吹奏楽部顧問だ。よりよい演奏ができるように指導するのはもちろんだが、それよりも部員の成長を促すのが使命。難易度が低い他の曲を楠本に勧めるのではなく、一つだけ上のステージにレベルアップさせるという判断をした。今の楠本ならばそれができる。彼を信じる気持ちの表れだったのかもしれない。
その後はサクサクと話が進んでいき全員のソロが決定した。全体で見ても十五分もかからなかった。去年、一昨年と先輩たちの演奏を見てきたためそれぞれが楽曲の構成を把握していたからだ。
「楽譜の書き換えかたが分からない人はいる? ト音記号だとここが
藤岡は黒板にフリーハンドで白い五線譜を書き、その下に赤いチョークで短い線を足して丸を書きこんだ。いわゆる『ド』の音だ。あとは調号に注意しながら一つずつ数えていこう。
楠本の目の前に真っ白な五線譜の用紙が配られた。これに書き込めということだ。
「午後の合奏でこれをやるから、それぞれ練習しておいて」
それでミーティングは終わった。椅子を元の場所に戻し、配られたスコアと五線譜用紙を持った部員たちは片付けの確認と戸締りが残っている藤岡を残して理科室を出て行った。
「楠本、やるじゃないの」
「ははは、実は韃靼人の踊りって婆ちゃんの思い出の曲なんだ」
ドイツのバンベルク交響楽団がやってくるということで、当時のまだ若かった祖母は夫婦で一緒に宮崎市にまで聴きに行った。そしてその数か月後に楠本が産まれた。そういう話を結構前に祖母から聞いた。
「それじゃあそのお婆ちゃんのために演奏するのね」
「まぁそんな感じだね」
楠本は照れ臭かったがそれを認めた。彼は婆ちゃんっ子でありほとんど祖母に育てられたようなものだった。部活の本番のときは毎回タクシーで送り迎えしてくれたし、殴られて鼻血を流したときだって今後部活を続けることを心配してくれた。コンクールが終わった日の夜、定期演奏会まで部活を続けたいと話した時だってなんだかんだ言いながらそれを認めてくれた。それらの感謝の意味や俺は大丈夫だったという意味を込めて、祖母の思い出の曲を祖母に演奏して見せたかったのだ。それに楠本は高校では吹奏楽を続けない予定だ。チューバを吹いている最後の雄姿を見て欲しいという思いもあった。
「じゃあ私は誰のために演奏しようかな?」
「実は俺、これまで誰かのために演奏しようって考えたことはなかったんだよね」
蓮見のためにチューバを吹いていたがそれとは意味合いが少し違う。同じ奏者のためではなく観客のために演奏するということを考えたことは今までになかった。それは照れ臭いから無意識に逸らしていたのだろうか。この韃靼人の踊りのソロは祖母に贈る最初で最後の演奏だ。
客席で感動している祖母を想像しながら、感傷的な気分で蒲生と共に階段を上がる。それを背後から小柳と荻野がいつものように煽ってくる。
「ノーサウンドのやつ、韃靼人を吹くってよ」
「常識的に考えて無理だろ」
「あ~あ、今年のフックトオンロマンスは台無しだな」
台無しなのは今の楠本の気分だった。
「ちょっとアンタら!」
「蒲生さん。いいからいいから」
照れ臭い話をしながら足を勧めていた蒲生が振り返って彼らに言い返そうとした。それを楠本は静止する。彼のために言い返そうとしてくれたことはありがたかったが、これが原因で揉めるというのを避けたかったのだ。小柳と荻野は部長と副部長であり、蒲生は書記。その役員たちの間に上下関係というものはなかったが、幹部同士が揉めるとその影響は部活全体に広がってしまうものなのだ。
「だって!」
「いつものことだから気にしなくていいから」
「でも……」
蒲生ははらわたが煮えくり返って収まらない様子だったが、それでも楠本の意思を優先してくれた。その後も後ろの二人による煽りは続いたが、彼女はぐっとこらえてくれた。自分のためにここまで怒ってくれることに楠本は嬉しかった。
「俺のためにありがとうね」
先に音楽室へと入っていった蒲生の背中にそう囁き、楠本は逃げるように廊下を直進し、用もないのに音楽準備室へと入った。これほど照れ臭い会話をしたのは今日が初めてだ。
普段と何も変わらない平日の放課後。
チューバパートはいつも通りに一段高くなった音楽室のステージの定位置でクラシックメドレーの練習をしていた。蓮見は曲を一通り通しながら怪しいところを見つけてそこを潰していく。隣の楠本は先日決まった韃靼人の踊りのソロの部分だけ。二人は同じ曲を練習しながらも全く別の部分を攻略しようとしていた。
先日の合奏練習のときより楠本は上達していた。空振りしまくっていた
「『韃靼人の踊り』か。楠本だな」
宗太郎がいつものようにチューバとファイルを抱えてふらりと登場した。今回の彼は漆黒のダブルスーツを着ている。声もいつもよりも沈んでいるような気がした。
「宗太郎さん、葬式の帰りですか? なにもそんな時に遊びに来なくても」
「いや、知り合いの結婚式の帰りだ」
「黒ネクタイを締めてですか?」
彼はネクタイを外し忘れていることに今気づいたようだった。
「どうりで受付の学校事務員が驚いたわけだ」
楠本はまだ中学生だがさすがに結婚式で黒ネクタイを使わない事は知っていた。それを使うのは葬式や法事のときだ。祖母に口酸っぱく教え込まれた。
宗太郎はいつもの要領で自分の座席を設営すると首を締めていたネクタイを外し、譜面台に引っ掛けた。
「墓参りの帰りだ。わざわざ葬式の帰りに遊びには来ねぇよ」
「宗太郎さんって喪服で墓参りに行くんですね」
「葬式と法事以外で喪服着るやつはなかなかいないだろうな」
失礼ながら少しちゃらんぽらんしている彼がそんなにかしこまった服装をするとは思えなかった。まじめな楠本でさえ墓参りは私服だった。中学校入学の報告だって制服は着ていかなかった。
「俺なりの追悼の儀式だ。大事な人の墓参りだからな」
「大事な人、ですか」
「そうだな……チューバを持てなくなった俺にもう一度チューバを持たせてくれた英雄だ」
「チューバを持てなくなったって……」
「引退したあとにそういう時期があったんだよ」
それは意外だった。
自前のチューバを持っているほどにのめり込んでいる宗太郎が、チューバを吹けなくなった時期があったとは想像すらしていなかった。
「……すごい人だったんですね」
宗太郎の師匠である元プロチューバ奏者の元高校教師のことだろうか。
「ああ、確かにすごい人だった」
楽器を嗜む人間が楽器を辞めるとき、かなりの覚悟が必要となる。
部活を引退して楽器が身近にある環境ではなくなったから、進学や就職で楽器に触れる時間がなくなったから、引っ越しで音を出せる環境ではなくなったから。そういったやむを得ない事情があるのならば心の中で折り合いをつけることができるかもしれない。しかし宗太郎の話ぶりからして彼が楽器を置いたのは精神的な問題によるものだろう。
楽器を持てなくなるほどに追い込まれた彼を再び楽器を持てるほどに回復させた人物。その人はとてもすごい人物に違いない。
「だけどその人が俺の英雄だと気づいたとき、すでにその英雄はこの世にはいなかった」
「………………」
「ただ単に俺が気付けなかっただけなのか、それとも死がそいつを英雄にしたのか」
どっちなんだろうな? と上岡に問われるが楠本は答えることができなかった。
「そいつも自分が俺の英雄だなんて思わなかっただろう。それを知らずに逝ってしまった。自分の英雄が誰なのか、自分は誰の英雄なのか。相手が同じ世界にいるときは気づけないものなのかもしれない。知ることができるのは相手が別の世界の人間となった後なんだろうな」
「……どうなんでしょうね」
英雄、死、この世界。
楠本が想像もできないほど規模の大きな話だった。
「なにも『この世界』というのは現世のことだけじゃない。ここの吹奏楽部だって一つの小さな世界だ」
ヤツはここの小さな世界しか知らない。宗太郎が楠本を守って、殴りかかる荻野をCQCで迎撃した後に彼はそういうことを言っていた。楠本は特に気に留めなかったがたしかに部活というものは一つの小さな世界だ。一年生が新入部員として入ってきて、三年生は定期演奏会を最後に部活を去っていく。その人間の流れは誰かが産まれると同時に別の誰かが死んでいくこの世界とまるで同じだ。違いはその新陳代謝のサイクルが長いか短いかということだけ。
「稲葉先輩が引退したとき俺は悲しかった。平気だと思っていたのに定期演奏会が終わったとたんに涙が込み上げてきた。それまで先輩が隣にいるのが当たり前だと思っていたんだ。彼女が引退して初めてその存在感を実感した。あの日ほど先輩をありがたいと思ったことはない。時間が巻き戻ってほしいとすら思った」
絶対に本人には言うなよ?
楠本は釘を刺されたが、それが宗太郎の照れ隠しというのは容易に察することができた。
しかし宗太郎が感じたその感情は楠本も経験している。菱川の引退の日、楠本は涙を流さなかったもののこれからもずっと隣にいて欲しいと思った。これからは一人だけで楽団を支えていかないといけないと思うと何とも心細かった。しかし菱川が卒業の日まで部活を続けることはできないということも理解していた。高校の推薦入試や一般入試が控えていたからだ。それを知っていた楠本は菱川に泣いてすがるなんてことはできなかった。
「楠本が引退したとき、蓮見も同じことを考えるんだろうなぁ」
「そう思ってくれるといいんですけどね」
「そうに決まっている。そうだろ蓮見?」
楠本を挟んだ反対側で突然話題にのぼった蓮見がはにかんだ。そしてすぐにチューバに向き直った。彼女はやや引いたような性格だ。彼女が何かに食いついたのは初めて音楽室に見学に来たとき以来見ていない。果たして楠本の引退を悲しんでくれるだろうか。
「湿った話はここまでだ。さて楠本、それと蓮見。問題だ」
練習に戻っていた蓮見がきょとんとした顔でチューバから口を離した。
「楠本が練習していた『韃靼人の踊り』。韃靼人とは誰のことだ?」
「モンゴル系遊牧民の総称ですよね」
祖母に韃靼人とはどこの国の人のことなのかと質問をされた後、楠本はしっかりと調べていたのだ。
「まぁ正解。この『韃靼人の踊り』は正式には『ポロヴェッツ人の踊り』と言う。日本語に訳すときに分かりやすい韃靼人と翻訳したらしい。そしてこのポロヴェッツ人というのはトルコ系遊牧民のこと。その後モンゴル人の支配となってトルコ人もモンゴル人と一括りに。つまり韃靼人となったわけ。話は飛ぶがこの韃靼人の踊りを作曲したボロディンはすごい人だ。最終学歴はサンクトペテルブルク大学医学部。医者でもあり化学者でもあった」
「すごいですね」
「経歴がハイスペックすぎる音楽家がたまにいるんだよな。二十一世紀の初めに亡くなったが最近だとジュゼッペ・シノーポリとか。マジンガーで有名な指揮者の」
「マジンガーってアニメのですか?」
「そんなわけないだろ。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、略してマジンガー。某動画投稿サイトで検索すると一番上にシノーポリが出てくるんだ」
普通マジンガーと言われたら大昔のロボットアニメを想像するだろう。しかし楠本はその言葉をぐっとこらえた。
「『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『ワルキューレの騎行』『ローマの噴水』。この三つは大人になってもチューバを吹くんだったら避けては通れない曲だ」
楠本は大人になってもチューバを続けるだろうか。ここの部活でこんな目にあっているんだ。これが影響してチューバを吹くのはこれっきりになるだろう。
「話が逸れたな。それでこのボロディンはロシア五人組のうちの一人。十九世紀ロシアで民族的な曲をのこした集団で、バラキエフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキーコルサコフ。この五人をまとめてロシア五人組と言う。一般常識ではないが音楽をやるのであれば覚えていて損はない」
楠本は後ろの三人の名前は知っていたが、最初の二人の名前は聞いたことがなかった。
「ムソルグスキーなら蓮見も知っているだろ?」
「え?」
驚いた蓮見を見て宗太郎はチューバを構えて演奏を始めた。四分の五拍子と四分の六拍子が組み合わさった変拍子ながらもどこか安らいだ感覚を覚える。それを隣で聴いていた蓮見は表情が明るくなった。
「ムソルグスキー作曲、組曲『展覧会の絵』の『第一プロムナード』。この展覧会はもともとピアノ曲だ」
「それなら昔弾いたことがあります」
「画家だった友人の遺作展で見た絵を音楽で表現したものがこの組曲だ」
「ヴィクトル・ハルトマンですよね、その画家って」
いつもはおとなしいはずの蓮見がやや興奮している。彼女はこの楽曲を演奏するにあたり楽曲研究を行ったのだろう。当時小学生だった彼女はそこまでのことをやっていたのか。楠本は感服した。
「とある同人ゲームのBGMに『ハルトマンの妖怪少女』という変拍子が使われているものがある。これは八分の七拍子だけど人によっては十六分の十五拍子に聞こえる不思議な曲なんだが、その曲はこの展覧会の絵が元ネタの一つという説がある。展覧会の二曲目に『グノーム』という曲があるがこれはロシアの伝説にある地底に住む小人妖怪のことらしい。精霊とする説もあるけどな」
「ハルトマンって、地底に住む無意識の妖怪の女の子のテーマですよね」
「ああそうだ」
宗太郎は再びチューバに口をつけて演奏を始めた。おそらくこれが『ハルトマンの妖怪少女』なのだろう。楠本は初めて聴く曲だが、なんだか切なくて悲しくてそして少し明るい曲だった。
隣では蓮見が満面の笑みになっている。それはこれまでに見たことがない表情だった。彼女にこんな趣味があったのか。そこそこ長い時間を共にしてきたが、引退を目前にしてまた一つ彼女のことを深く知れた気がした。
「ほう、蓮見はこれが好きなのか。それならばこれをやろう」
宗太郎は譜面台に乗せていたファイルから数枚の紙を取り出した。それは二段構成にされた『ハルトマンの妖怪少女』のチューバ二重奏の楽譜だった。「蓮見に回してくれ」と楠本が受け取ったときにちらりと中身を確認してみた。うげぇ。シャープがたくさんついている。これを蓮見が演奏できるようになる頃にはきっと彼女のレベルは格段に上がっているだろう。韃靼人の踊りの演奏も楽勝なほどに。それに加えてこれに付き合わされるであろう蓮見の後輩は大変だろう。
「ありがとうございます!」
楠本が言われたことがないとても元気なお礼だった。
「別にいいさ。コピーがある。いつかそれが吹けるようになったら一緒に演奏しよう」
「はい!」
それが実現するのは来年だろうか再来年だろうか。楠本はチューバによる、しかもコントラバスチューバ二重奏というものに大変興味があった。定期演奏会にOBとして里帰りしたときにでも聴かせてもらおう。
「それにしても結構話が飛んだな」
「飛びすぎですよ」
「韃靼人の話からロシア五人組だったか。まぁ俺はロシア五人組よりもタコが好きだけどな。特にタコの五番」
「………………」
楠本は沈黙した。
楽譜を貰ってホクホクと大喜びしていたはずの蓮見でさえ無表情になっていた。
なぜ作曲家から魚介類に話が飛ぶのだろうか。彼の頭の中身を覗いてみたかった。もしかしたら普通の人間とは作りが違うのかもしれない。
「……ショスタコーヴィチ。ロシアの作曲家だ。それの交響曲第五番、革命」
音楽に関わる人間というものはどうしてこんなにも略語を使いたがるのだろう。そういえば先日のソロ決めのときも藤岡が『アイネクライネナハトムジーク』のことを『アイネク』と言っていたな。
「おしゃべりはここまでにして練習するか。どうやら高音に悩んでいるようだな」
練習方法を教えてやるからその前にチューニング
「なかなか出るじゃないか。常用音域はFといったところか」
「そうです」
「次は蓮見」
彼女もチューニング
「分かった。常用は
たしか一年の時の楠本も音域は似たようなものだった。彼女の音域が特に狭いというわけではないだろう。
「楠本、高音はどういう練習で出るようになった?」
「ロングトーンを無理やりやっていたら出るようになりました」
「ほう、中学時代の俺と同じだ」
宗太郎はチューバに口を当ててスタッカートでハイB♭まで上がって見せた。その音は楠本も出せるには出せるが、宗太郎はいかにも軽々と的確に音を当てていた。
「人によって効果は異なると思うが俺は高音域の練習をインターバルで練習している。蓮見はインターバルって分かるか?」
「離れた音を交互に吹くやつですよね」
「その通り。そのインターバルで上に上がっていくんだ。俺の真似をしてくれ。まずはリップスラーで真ん中のFとチューニング
宗太郎はチューバを膝に乗せると、F
「次はスタッカートで同じ」
F、
楠本と蓮見も順番に吹く。
「次はもう一度リップスラー」
三人の吹奏が終わって一周した。
「それじゃあ上がって
さっきと同じようにリップスラー、スタッカート、リップスラーのフレーズを交互に演奏していく。そしてさらに音が上がり
「いいぞその調子だ。今はまだ音質は考えなくて大丈夫だ」
一つ上がり蓮見は脱落。さらに二つ上がったところで楠本が脱落。一人になった宗太郎はハイ
「この練習は音がギリギリ出ないところまで上がるだけでいい。そのうち音が出るようになるからそうなったらまた一つレベルを上げる。これを繰り返していれば音もよくなっていくだろう。リップスラーとスタッカートと織り交ぜるのがミソだからな。それがどういう効果があるのかは忘れたが、俺はそう習った」
楠本の目先の目標は音域を増やすというよりも今度使う
「低音域を拡張する方法はまた違う。蓮見にはまた今度教えてやろう」
楠本たちは朝早くからトラックに楽器を積み込み、日向市文化交流センターへと来ていた。大型免許を持っている宗太郎がトラックを運転し、送迎がなかった楠本は助手席に乗せてもらった。彼がトラックに乗るのは初めてのことだった。運転席が高ければハンドルも乗用車とは比べ物にならないほど大きい。運転手が左手でガコガコ動かしているレバーも初めて見た。タクシーみたいな鼻がないため車の先端に縛り付けられているようだった。ハンドルが切られるたびにぐわんぐわんと体が振り回される。宗太郎の話ではこの車は4トン車だが10トン車になるともっと視点が高くなるという。
アトラクションはあっという間に終わった。開場前に到着し駐車場で待機。ホールの営業が九時に始まると同時にステージ脇の扉から楽器を搬入。鏡張りのリハーサル室に楽器を置くとステージに椅子と譜面台を設営する。それも終わってやっと楽器のケースを開いた。
今日は定期演奏会前のリハーサル練習。
本来、ホールを借りて練習というのはコンクール前に一回ある程度だ。しかし今年の夏には予約が取れずに予算が余ってしまった。来年の練習に繰り越す案も出たが、引退する三年生のためにもどこかでホール練習する機会を作りたいという保護者たちの厚意によって演奏会前にホールを借りることができたのだ。
舞台ではそれぞれが音出しを始めそしてチューニングが完了。時間は既に九時半だった。そこから校歌の演奏と同時に緞帳を開くタイミングを合わせる練習。そしてコンクールで演奏した課題曲と自由曲の合奏。もちろん去年の卒業生が担当するアナウンスの練習も行われた。
十時半からOBOGがやってきてシンフォニエッタの練習が始まった。今日集まることができたのは本番に参加する卒業生のうち三分の二ほど。残りのメンバーはぶっつけ本番ということになる。もちろんそれまでに音楽室での練習はあるが大規模な全体練習は今日だけだ。
それぞれ自前のチューバを抱えてやってきた宗太郎と稲葉。そして前線を退いていた古いピストンチューバを手にして入ってきた菱川に対して楠本と菱川は起立して挨拶をする。全員の座席を一列に並べることはできない。現役組の後ろに三人分の座席をあらかじめ設けてあった。
「今年の低音パートはすごいなぁ。チューバが五人もいるよ」
圧倒的な存在感に指揮者台で藤岡が感心する。規模が大きい強豪校であればいつもの光景かもしれないが、現役部員が二十五人程度の小規模吹奏楽部としては異例なほどの人数だ。今回シンフォニエッタに参加する人員は現役と卒業生を合わせて約四十人。その八分の一にあたる五人がチューバ。高音中音と低音の比率が七対一というのは普通の編成ではありえないほど低音が多い。通常ならば全体が六十人でもチューバは二人といったところだろう。
宗太郎は毎年のことで慣れた様子だが、稲葉は「わぁ~、文化ホールってこんな感じだったよね~」と懐かしんでいる。彼女の所属は二つ隣の延岡市の社会人楽団だ。当然定期演奏会も延岡市のホールを使って実施する。ここ数年間日向市のホールとは縁がなかったのだろう。
「去年卒業した卒業生はいろいろ思い出すこともあるだろうから、まずは一年ぶりの感覚を楽しんでみよう」
藤岡のその提案によって最初の合奏は軽く通すことになった。しかし卒業生たちもこの楽曲に対しての思い入れは強い。全員が全力での合奏だった。中には去年のラストステージを思い出して涙を流している卒業生や先輩との別れの記憶がよみがえって号泣している現役部員たちもいた。楠本の背後で菱川が嗚咽している気配がした。それがうつったかのように楠本も鼻をすする。二年前の菱川との別れを思い出し、そしてすぐそこに迫った蓮見との別れを実感していた。
「練習の前に全員練習番号一番から。チューバパート、特に宗太郎先輩は一切遠慮せずに全力で吹いてみて」
「了解」
練習番号一番は金管群が静かに入ってくる部分だ。宗太郎の声はにやりとしていた。おそらく藤岡は金管楽器、特にチューバを使って何かをしたいのだろう。
藤岡が指揮棒を振り合奏が始まった。ピアノの弱さで始まったアンサンブルであるが低音域が明らかに突出していた。楠本は少しでもそのバランスを整えようと考えたが事前に藤岡が遠慮をしないように言っていたことを思い出した。彼はつり合いのことは一切考えずにいつものピアノの音量で演奏した。練習番号一番も終盤。クレッシェンドでフォルテへと強さがあがって練習番号二番に突入。藤岡はまだ指揮を止めない。チューバが出すぎていて普段なら目立つはずのティンパニーの音が波に飲まれた。さらにクレッシェンドがかかりフォルテッシモの練習番号三番。背後には芯がドンと出た稲葉の
もはやアンサンブルのバランスというものは崩壊していた。トランペットもトロンボーンも木管楽器もすべてチューバの音に埋もれていた。手加減をしていない五本のチューバを三十五人だけの高音中音楽器で相手をするのは限界があった。もういいだろう。練習番号四番一拍目の金管楽器がポンっと跳ねたところで藤岡は合奏を止めた。
「巷には音楽はピラミッドのように一番下にある低音が一番大きな音で吹かないといけないという話があるけど、本当にそれをやるとこんな風に滅茶苦茶になるわけ。これまでにこんなにチューバを集めることができなかったから実験できなかったんだけど」
きっと楠本の後ろではあらかじめこの試みを知っていたと思われる宗太郎がニヤニヤしているのだろう。いや、もしかしたら藤岡と宗太郎の二人でこの実験を計画したのかもしれない。
「チューバが聞こえないとかだから居なくていいとかいう部員がいるけどさ、普段の編成が普通なんだよ。そういうことを言う人はチューバの音を聴き分けることができていないだけ。他の楽器に溶け込んでいるだけ楠本の音も蓮見の音もちゃんと聞こえてる。聞こえないように見えてちゃんと聞こえてる」
藤岡は興奮していた。彼女がここまで感情を露わにしたのは楠本の三年間の部活動生活で初めてのことだった。
「それを踏まえてここからが本番。まずチューバパート。今回は人数が多いからちょっと手加減して」
各楽器の音量の調節から始まりハーモニー練習。本格的にシンフォニエッタの楽譜を使った練習が始まる頃には予定されている練習時間の半分が経過していた。現役部員に対する演奏指導はいつもの練習で基本的なところは終わっている。練習の主役は卒業生だった。彼女たちの半分近くが中学を卒業して吹奏楽を離れていた。吹奏楽を離れなかったとしても楽器が変わっていた者もいる。そんな彼女たちがブランクを埋めて現役時代の勘を取り戻すのが練習の目的だった。
シンフォニエッタの練習が終わって昼休憩もそろそろ終了。これから第三部の練習だ。
楠本たちは本番と同様の服装。赤岩中吹奏楽部のイメージカラーでもある赤色のブレザーを着てステージに向かった。客席ではすでに宗太郎がスタンバイしていた。早々に支給された弁当を食べ終えてどこかに行ったと思ったらここにいたのか。
全員の集合が終わった頃、藤岡と今回定期演奏会に協力してくれる担任の葛城がやってきた。女子部員の黄色い歓声があがる。せっかく協力してくれているのに悪いが葛城がイケメンだからというわけではない。藤岡が紺色のワイシャツに黄色いネクタイを締め、白いスラックスに部員とおそろいの赤いブレザー。つまり某大怪盗のコスプレで登場してきたからだ。ちなみに葛城も同じ格好をしている。
「それじゃあやろっか」
小柳が起立の号令をかけ、挨拶をして午後のリハーサルが始まった。
本番当日にも舞台装置を操作してくれるホールのスタッフが舞台脇でブザーを鳴らし、緞帳が開く。
「とっつあ~ん、伝説の指揮棒は頂いたぜぇ~」
舞台
あらかじめシナリオを知らされているとはいえ、初めて聞く葛城のひょうきんな声に部員たちは頬が吊り上がるのを抑えることで一杯だった。。
「おやぁ? こんなところに楽団がいるぜぇ~。ちょっくら振ってくかぁ~」
大げさな動作で葛城は指揮者台へとあがると手にした指揮棒をブンブンと振り回した。それに合わせて部員たちは打ち合わせ通りに滅茶苦茶に演奏する。無理がある展開に楠本は笑いをこらえながら自身の常用音域を超過したヒョロヒョロのハイ
「待て! そこまでだ!」
ゆっくりと藤岡が登場。
「お、お前は……! 本物のルパ●三世!」
「違う。私は、音楽怪盗ショパ~ン三世!」
驚きの声をあげる葛城に向けて藤岡はブレザーの内側から取り出したピストルを向け、「パーン!」と口で発砲音を言いながら銃を大きく振り上げて反動を表現する。葛城は舞台
音楽怪盗、いや音楽家にピストルか。これ以上ないミスマッチだ。一体だれがこのシナリオを考えたのだろう。
偽物を追い払った藤岡は指揮棒を取り、そこから演奏開始。この曲ではスタンドプレイが行われる。タイミングよく下手半分、上手半分と立ち上がり、パパン、パパンと合わせて左、右、下。そして最後に上へと楽器を振り回す。チューバの裏に配管されている第三、第四抜き差し管の下の部分を持つと立っても吹きやすいと蓮見に教えていたが、それでも彼女がこけないか心配していた。楠本は去年のスタンドプレイで、しかも本番中に後ろによろけたことがある。それがトラウマになってモーションがほんの少しだけ控えめになった。ちらりと横目で彼女を見るといかにも苦しそうだった。体が小さい蓮見がチューバにかかる遠心力に対抗するのは楠本よりも大変だろう。後で少し控えめでも大丈夫と伝えておこう。
この曲で最も大変なのは序盤のスタンドプレイだった。あとはずっと座奏であり、アドリブが入るアルトサックスがスポットライトを浴びながら立って演奏するだけ。
特にミスをすることなく一曲目の演奏が終わった。
舞台
まだまだ修正するべき部分はあるが、最初に比べたら随分と進歩したものだ。
「宗太郎先輩、どうでした?」
藤岡は客席の最前列に座って見学していた宗太郎に話を振った。
「先生、拳銃の撃ちかたを間違えていますよ」
「え?」
意外な指摘事項だった。
「片手での射撃は演出もありますから問題ないでしょう。状況によっては実戦でも使う撃ち方です。だけどそこじゃない」
彼は立ち上がると舞台中央に掛けられた階段を登り始めた。
「ほとんどのオートマティック拳銃はショートリコイルといって反動を利用して排莢給弾の
宗太郎は藤岡の手からピストルを受け取った。
「P38。ガスブローバックか」
弾倉を引き抜き、カチャカチャとあらゆる部品を操作する。
「自動拳銃にダブルアクションを搭載。USPにMk23にM9、今では採用しているものも多いが当時は画期的だった。一九三〇年までの拳銃の動作はシングルアクションで
宗太郎は拳銃を見てテンションがあがったのだろうか。それとも専門家の血が騒いだのだろうか。敬語を使うのをすっかりと忘れている。
「もしかして宗太郎先輩もオタクかい?」
彼が垂れ流すマニアックな知識を藤岡は呆れるどころか感心した様子で聞いていた。声は楠本のところまで届いていたが、専門用語が多すぎて話の半分も理解できなかった。それでも宗太郎が物事にのめり込む性格だというのは分かった。彼の知識の多さはチューバだけにはとどまらないようだ。
彼は拳銃を両手で持ち両肘を軽く曲げて誰もいない客席を照準した。
「自衛隊って的の隣に隊員を立たせて射撃訓練をしているってネットで聞いたことがあるんだけど、あれって本当にやっているの?」
「それは言えないなぁ」
静まったステージにパチンと音が響いた。その構えかたは動画投稿サイトで見た記憶がある。何の動画だったかは忘れたけれども。
「さすがプロだね」
「できれば戦場では使いたくない銃ですけどね。威嚇射撃八発、必中投擲一発」
宗太郎は拳銃を藤岡の手に握らせて、呟きながらステージを降りていった。
つくづく変わった男だ。
彼は何がしたかったのだろう。
練習はさらに進み、男性アイドルグループの楽曲。演奏が始まりイントロが終わるとステージの両脇からアイドルのジャンパーを着た部員たちが歌いながら登場してきた。ルパ●三世とこの曲の間に部員によるMCが入る。その間に担当の部員たちは舞台袖にはけて、赤いジャケットを脱いでジャンパーに着替えるのだ。赤、水色、緑と色違いのフライトジャンパーを着た彼女たちはノリノリで歌っている。
合奏に歌が入るというのは楠本にとって初めての経験だった。これまで学校での合奏で何度か練習はしていたが、ボーカルがマイクを使って歌う後ろで演奏するというのは何とも不思議な感じだ。
あっという間に中低音が輝く部分に到達した。トランペットからメロディを受け継ぐとチューバとトロンボーンは旋律の演奏を始めた。この二種類の楽器が同じ動きをするというのはよくある事。ユーフォニアムに人員を割く余裕のある学校であればその楽器も入ってくるらしいが、赤岩中では余裕がなくここ三年間でユーフォがステージに上ったことはない。
この場所は原曲では間奏にあたる部分だ。その半分が過ぎたところでメロディをホルンへと引き渡し、チューバは伴奏へと戻った。吹奏楽用に編曲されたこの曲は原曲と異なる部分があるらしい。藤岡がコンデンススコアを見ながら当てなおした歌詞通りに歌唱隊が歌を再開する。その頃には楽曲も終盤だった。Bメロとサビを通過。ささやくようなセクシーなフレーズでこの演奏は終了した。
「宗太郎先輩、次は後輩たちに何かアドバイスを」
藤岡が振り返って宗太郎に促す。彼は苦笑いをして座席から立ち上がった。
たしかに演奏に対する感想を聞かれて拳銃の撃ち方の指摘をした彼の思考回路は普通ではない。装備に命を預けている彼には見逃せない事項だったのかもしれないが、それを中学生の定期演奏会に持ち込むとは何とも大人げなかった。
「ボーカルも伴奏もお互いを潰さないようなバランスが取れているな。よく周りを聴けているし指揮者の指示もよく見えている。いい演奏だった」
宗太郎は人の話を聞くのがうまければ人を褒めるのも上手だ。さすがは幹部自衛官。部下を持ったことでその能力が身に付いたのか、それとも防衛大で教え込まれたのだろうか。
「ボーカルがあるということは歌詞によるメッセージがあるということだ。この曲の歌詞について理解を深めておくと演奏に役立つだろう」
この楽譜が配られた日、楠本は自宅に帰ってすぐにネットで調べてみた。大人の男性による官能的な片思い。バラードのような切ない曲であったが、それだけではなく何とも言えない明るさがあった。
「そうだな……。この部員の中にアイドルグループのファンがいるだろう。ボーカル担当とかな。特に赤いフライトジャンパーを着たヤツ。学校に帰ったらミーティングの時に時間を作って彼女たちの解釈を共有しておいたほうがいい」
こうやって堂々と自分の趣味を語れる場面なんてなかなか無いぞ。という宗太郎の言葉によってファンの部員たちは黄色い歓声をあげた。彼女たちの熱意だとその解釈共有はミーティングの時間内に収まらないかもしれない。部活終了直前の集会ではなく活動時間内にその機会を準備したほうが良いだろう。
餅は餅屋とも言う。自分で調べるだけではなく、その事について詳しい人の意見や解釈を聞くのも重要だ。
「ただ俺なりの解釈を説明するならば……そこの赤いヤツ、キレるなよ?」
「はい」
忠告するということは何か彼女を怒らせかねない事を言うのだろうか。
「この曲は男が男に送るラブソングだ」
宗太郎の断言にステージのところどころから腐った吐息が漏れた。この曲の練習だけで部員たちの様々な趣味が暴露されていく。
「この曲は映画が元ネタとなっていると俺は思う。ネットで見たブログの受け売りだがそれが一番しっくりきた。昔は成人指定がかかっていた映画らしいからタイトルを言うのは控えるが、ヒントはジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマン。この映画と曲はタイトルが似ている。それが男同士の物語なんだ。帰ったらネットで調べてみるといい」
帰ったら検索してみよう。
何という俳優だったかな。どうも楠本は人名を覚えるのが苦手らしい。その俳優たちが外国人ということもあるかもしれないが。
練習はそのあとも続き、定期演奏会の終盤に演奏する『フックトオンロマンス』。三年生が全員が最後のソロを吹くクラシックメドレーだ。
流れ星を思わせるかのようなウインドチャイムのグリッサンドでパッフェルベルの『カノン』が始まった。リピートして八小節が終わって次はバッハの『G線上のアリア』。あらかじめ指揮者台の隣でスタンバイしていた荻野が朗々とトランペットを吹奏する。
奏者が立ち代わり、『アイネクライネナハトムジーク』、『悲愴』と続いていく。ソロが終わるたびに宗太郎が拍手を送る。そして蒲生のホルンによるチャイコフスキーの『舟歌』。この次が楠本の『韃靼人の踊り』だ。彼は彼女のソロが始まったと同時に席を立った。
指揮者台の隣に向かう道すがら彼は左側に座っていた蓮見と目があった。そういえば楠本が一年生だった時の定期演奏会の本番のとき、ソロのために席を立った菱川と目があった。あれからもう二年。あっというまに後輩として先輩を送り出す側から先輩として後輩に送り出される側になったのか。彼は感傷にひたり蓮見に微笑むと目的の場所へと足を進めた。
指揮者台の隣。これまで何度もステージに立ってきたがこの位置に立つのは初めてだ。
蒲生のソロが終わると同時に藤岡は楠本にキューを出した。その合図を受けると彼は演奏を始め客席へと視線を移した。視線の向こうには宗太郎が座っている。視界を遮るものがなにもないここならば客席がよく見える。最後に見る景色は観客でぎっしりと埋まった客席。それは彼が最初にみる光景でもあった。
ソロが始まりさっそく出てきたハイトーン。楠本はその
リピートしてもう一度同じ旋律。演奏は進み終盤の二番括弧へと入った頃には宗太郎が大きい動きで拍手を送っていた。練習とはいえ初めての長いソロを終えた楠本は練習という意味だけではなく、高音域の練習方法を教えてくれた宗太郎への感謝の意味も込めて彼に一礼した。
楠本はいつもの定位置へと戻る。その道中に再び蓮見と視線が交わった。「やりましたね」とでも言いたげな表情だった。楠本は彼女に微笑み返す。しかしこの表情ができるのは今回だけだ。定期演奏会本番の日はきっと別れを惜しむ悲しさでそんな顔はできない。楠本がそうやって菱川を送り出したから分かるのだ。
ソロは『夢のあとに』『白鳥』と続いていき、三年生全員のソロが終了。最後、一年生から三年生全員の見せ場であるショパンの『別れの曲』。去年はこの部分にもソロが入っていたが今年は人数が少ないためソロはない。まるで送る側も送られる側も全員が別れを惜しんでいるかのようだった。そして曲の最後に再びパッフェルベルの『カノン』。ゆったりとした速度でなおかつ音価の長い音、つまり長く伸ばす音というものは無意識のうちにその演奏スピードが速くなってしまう。いわゆる「走る」という状態に陥りやすい。音程のズレなどのボロが目立ってしまう状況なのだ。「世界で最も難しい曲は日本の『君が代』だ」と、よく藤岡が言っていた。
美しい和音でこの曲は終了し、ホールに豊かな残響が残った。
「宗太郎先輩、良かったでしょう」
「そうですね。非常に良かった」
「それでは恒例の後輩たちに一言」
宗太郎は大きな動作で拍手を送りながら立ち上がった。
「三年生たちのソロは上手かった。俺からは何も言うことはない。それ以外の部分についてまずはチューバ」
「はい」
「楠本はソロが上手くなったな。蓮見も立派だ」
「ありがとうございます」
「だけどどっちだか分からんが
「はい」
「韃靼人の踊りの部分の蓮見は楠本が抜ける分だけ大きく吹くこと。大音量で吹くコツは前に教えたな? 強くて速い息を吹き込むんじゃなくて温かい豊かな息をゆったりと入れるんだ。それとその部分は短く切るんじゃなくて
「はい」
「
「はい」
「それとどのポジションだか知らんが
「はい」
トランペットとトロンボーンの部員たちが返事をするが、その合唱が一部欠けていた。おそらく小柳と荻野のいつものコンビだろう。彼らは低音楽器を見下している節がある。その考えは大先輩である宗太郎に対しても変わらないようだ。
藤岡は彼らを一瞥するが特に何かを言うことなく宗太郎へと視線を戻した。
「俺が気づいたのはそのくらいだ。さっき言ったことは他の管楽器にも通じるな。悪いが
「はい、宗太郎先輩ありがとう」
藤岡は指揮棒の先端をいじりながら部員たちへと向き直した。
「じゃあさっき言われた事に気を付けてもう一度最初から」
「はい」
「それと蓮見は韃靼人の部分をピッツィカートっぽく吹いてみよう。「ぽーん」って感じでね」
「はい」
両手を使って藤岡はコントラバスのピッツィカート奏法を表現してみせた。
これまでの練習でその楽器のその奏法がどのような音を出すのかを口頭で説明したことはあるが実物に触らせたことや聞かせたことはなかった。来年の部活動見学期間で新入生に楽器を説明する必要もあるだろう。学校に帰ったら蓮見にコントラバスを触らせておこう。
その後も練習は続いていき、プログラム上最後の曲、アンコールの曲を二つとそれぞれの合奏が終了。そして最後に第三部の通し練習が行われ、それが終わったころにはちょうど撤収時間になっていた。十八時を超えれば追加料金が発生してしまう。部員たちは藤岡に急かされながら素早く楽器を片付けてトラックに積み込み、座席や譜面台を片付けて日向市民文化交流センターを後にした。次にここに来るのはちょうど来週の日曜日だ。
終礼が終了し、楠本は自分のロッカーから事前にまとめていた荷物をひったくって職員室に一番乗りした。入り口でいつもの文言を唱え、近くに座っていた教頭先生に入室の許可をもらって職員室の中へと入った。こうして鍵を貰いに来るのも今週で最後だ。
用事があった藤岡の元へと行くと彼女は電話で誰かと話をしていた。どうやら深刻な話らしいがその内容を探るのは悪い気がして意識を遠ざけた。もしもその話題が生徒個人に関することならばいろいろと問題になる。
楠本の接近に気づいた藤岡は机の脇に置いてあった鍵の束を手にし、アイコンタクトを取って彼に手渡した。お互いに身動きで意思を伝える。この無言でのやり取りもこれが初めてのことではない。
ここでの用事は終わった。楠本は足早に出口へと向かう。
「いよいよ楠本君も引退だねぇ」
楠本に話しかけてきたのは教頭先生だった。彼と会話するのはこれまで職員室入室時のやり取りぐらい。初めての突然の世間話に楠本は戸惑った。
「中学校見学会で藤岡先生がスカウトしたんだってね。いろいろあったけど三年間はどうだったかな?」
「それなりに充実していたと思います」
楠本が殴られて鼻血を流したとき、応援に駆けつけて事態の収拾をしてくれたのが教頭先生だった。次の日の壮行会でこっそりと楠本がいない演奏を聞いた時も、藤岡や葛城から事前に話を聞いていたはずだ。教頭として楠本のことを気にかけていたのだろう。
「先生も定期演奏会は必ず観に行くからね」
「ありがとうございます」
突然の応援に楠本は頬が緩んだ。
アマチュアの演奏家というものはなんだかんだ言っていても自分の演奏を聴いてもらえるというのは嬉しいことだ。
楠本はにやけ面のまま職員室を出て行った。すれ違った女子生徒に怪しまれたが、彼は全く気にならなかった。
練習を始めて楽器が温まったころ、蓮見が到着した。そして書記の蒲生がやってきた。彼女は手にしたメモ帳と名簿を見ながら黒板に貼られた『欠席』と書かれたカードの下に部員の名前を数人書き込んでいく。休みの理由は全員同じ。『学級閉鎖』。そういえば今朝の朝礼で一年と二年のそれぞれ一クラスがインフルエンザの流行で学級閉鎖になったと葛城から聞かされた。黒板に書き込まれた数人はそのおかげで学校に来ることができなくなったのだ。
定期演奏会まで残り一週間。それまでに学級閉鎖は解除されるだろうか。楠本が一年の時はたしか三日ほどで解除となった。今回も前例に倣うとしても残りの活動時間は土曜日を入れて三日間しかない。休まざるを得なくなった部員たちも演奏会直前の空白期間が心配だろう。
「ねぇ楠本、聞いた?」
「何を?」
自身の仕事を一通り終えた蒲生が楠本に話しかけてきた。
「あ、まだ他の部員には言わないでね。それと蓮見さんも」
釘を刺すということはなにかとんでもないニュースなのだろうか。楠本も蓮見も頷いて続きを促した。
「来週の定期演奏会、延期だって」
「本当?」
「さっき職員室に寄ったときに藤岡先生に教えられたんだけど、学級閉鎖になったクラスがあったじゃん。それの影響で延期しようって話になったらしい」
楠本が職員室に寄ったときに藤岡は深刻そうな電話をしていた。おそらく演奏会を予定通り実施するか延期するかを決める電話だったのだろう。
「ミーティングの時に藤岡先生が詳しく説明するらしいから、それまで誰にも言わないでね」
「分かった」
「本当に?」
蒲生はさらに念を押して釘を刺すがそれは無駄な心配というもの。そこそこ広い音楽室で練習しているのは金管楽器だが、他のパートは教室の後ろで活動しているのに対して低音パートは一段高くなったステージの上。同じ教室内でもこれだけ離れているのだ。わざわざ因縁を付けにくる小柳と荻野を除けば練習中に低音パートのところに来る部員はいない。
「楠本のことだもんね」
「なんか蔑まれているような気がするんだけど?」
蒲生のその言葉には何か裏があるような感じがした。
先ほどの口外しない理由に一つ付け加えるとするならば、楠本が会話するといえば蓮見と蒲生ぐらいのものだ。蓮見以外の後輩とは挨拶は交わすが世間話のようなおしゃべりはあまりしたことがない。きっと蒲生はそれを言いたかったのだろう。
「それじゃあまた後で」と言い残し、彼女はホルンを取り出すために音楽準備室へと向かっていった。
「そういえば蓮見さんのクラスってインフル大丈夫?」
「今は三人ぐらいです。感染者は」
「俺のところもそのくらいだよ」
確か学級閉鎖の条件はクラス内の感染者が二割に達したときだったと思う。赤岩中学校の生徒数は一クラスあたり三十人ほどだ。つまり六人が感染した時点で学級閉鎖ということになる。ということはあと二人までは大丈夫ということか。いや、流行病というものはどこから感染するか分からない。すでに感染しているクラスの三人を責めるわけではないが、追加で二人感染するというのは勘弁してほしい。
ミーティングの時間となった。
役員たちは黒板の前に集まって準備をしている。楠本と蓮見はチューバを椅子に当ててバランスを整え、それぞれのミーティング時の座席に着席した。
「それじゃあ始めようか」
この時間が来るよりも早く音楽室に来ていた藤岡が集会の開始を促した。いつもは集会の時間ちょうどに顔を出す藤岡がいつもより早くやってきたのだ。定期演奏会に向けて顧問も力が入っているのかなという空気がトランペットやトロンボーンパート、パーカッションパートに漂った。事前に事情を知らされている楠本と蓮見は「あの件の話だろうな」と察していたがそれを口にはしなかった。蒲生によって口止めされているというのもあるが他の部員との交流がない楠本は周りに情報を流す義理はなかった。
「集合~」
小柳が窓から身を乗り出して号令をかける。しばらくしたところで隣の被服室やその準備室から木管群がやってきた。部長、副部長、書記と今日の練習について総まとめをする。定期演奏会が延期になったことを知らない小柳と荻野は次の日曜日に予定通り実施されることを前提に話していた。そんな彼らが「インフルエンザが流行っているから対策をするように」と言いつつマスクを装着していない姿は何とも皮肉が効いていた。自らの行動で部活を率先してまとめるはずの三人の役員でマスクを着けていたのは蒲生だけだった。もっとも、彼女はインフルエンザとは関係なく一年中マスクを着用しているイメージがあるが。
順番は顧問の番に回ってきた。
「結論を先に言うけど、来週の定期演奏会は延期になりました」
教室がざわめいた。それに動揺しなかったのは事前にその情報を入手していた低音パートとホルンパートだけだった。おそらくホルンのメンバーにはきちんと緘口令を敷いたうえで蒲生が話をしたのだろう。口の軽いやつめ。
「理由は校内でインフルエンザが流行っているから。今日は一年と二年が一クラスずつ学級閉鎖になったでしょ?」
楠本や蓮見の学級はあと二人ぐらいは大丈夫だが、他の学級では既にリーチがかかっているところもあるという。多くの生徒たちは学校が休みになることを期待している節があるが、大事な演奏会を控えている吹奏楽部員にとっては気が気ではなかった。
「定期演奏会っていうのは吹奏楽部を応援してくれる人たちへの恩返しみたいなものだから。自分たちのために演奏するんじゃなくてお客さんのために演奏するの。お客さんが来られないのに演奏会を開いても意味はないからね」
インフルエンザで寝込んでいる生徒たちの中にも本当は定期演奏会に行きたいという人もいるだろう。それが一人や二人だけであれば「今年は残念だったね」で済むかもしれないが、感染者が大量発生しているときにわざわざ実施するというのは心苦しい。
それに加えてインフルエンザが流行しているこの時期にわざわざ外出して人が密集している会場に来てもらうというのも申し訳ない。さすがに赤岩中学校のような弱小吹奏楽部の定期演奏会で千六百人を収容することができる日向市文化交流センターが満員になるということはないがそれでも観客は客席の前のほうに集中する。満員とはいかなくても不特定多数の人間と接触する機会を減らしたほうが良いのは間違いない。
「というわけで定期演奏会は一か月延期ね。ホールのレンタルは来月に空きがあって日程をずらしてもらうことができたから予定通り文化センターで実施。栗野先輩には予定を確認してもらっているんだけど恐らく大丈夫だって。だから日程が変わるだけで本番のプログラムとかはほとんど変わらないから」
ホールを借りる日程を十月下旬に移動できたのは奇跡にも近い。全国共通だと思うが吹奏楽部の定期演奏会は秋から冬にかけて実施されることが多い。ここの日向市には中学校と高校で合わせて六つの吹奏楽部がある。赤岩中学校に始まり、富高中学校、大公谷中学校、塩見中学校。それに財光寺高校に家鴨ヶ丘高校。そのすべての吹奏楽部がこの時期に日向市文化交流センターで定期演奏会を実施するのだ。リハーサルも行う必要があるためホールは一日貸し切りとなる。そんな予定が詰まっているこの時期に日程をずらすことができたのはたまたま空いている日があったことに加え、藤岡による延期の決定とそれについて動きだすのが早かったのが幸いしたのだろう。
「それじゃあ今日の活動は終わり。定期演奏会まで三週間ほど伸びたわけだから本来やるはずだった一週間後の本番よりもよりよい演奏ができるように練習に励むこと。中止になったわけじゃないし内容もあんまり変わらないんだから落ち込まないで」
その総まとめを最後にミーティングが終了した。時計は普段よりも少し押してはいるがそれでも一、二分の差だ。今日も韃靼人の踊りを少し練習してから片付けをしよう。
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