第16話

 日程が変更になった定期演奏会まで残り一週間。

 学級での終礼が終わった楠本は職員室で藤岡に鍵を借りて、音楽室に一番乗りしていた。定位置に荷物を置き、自分と蓮見のぶんの譜面台と椅子を用意し、隣の音楽準備室に楽器を取りに向かった。

 ドアをくぐり、楠本は驚いた。

 入り口のそばに立てられているはずのチューバがなかった。二台置かれているはずの楽器が一台しかない。残されていたのはケースのハンドルが破損している蓮見のチューバだった。

 楠本は不思議に思った。楽器が部室からなくなるというのは楽器店に修理に出されるときだ。しかし修理に出すという予定は入っていない。それに急遽修理に出すことになったら鍵を受け取りに行ったときに藤岡に言われるはずだ。そもそもいつも使っているチューバはどこも調子は悪くなかった。定期点検だとしても本番直前のこの時期に実施するだろうか。

 もしかして蓮見が間違えて持って帰ったか?

 いや、それもないだろう。チューバなんて簡単に家に持って帰られるようなものではないし、持って帰ったところで自宅に防音室でもない限り夜中には吹けない。そもそも昨日は楠本より先に蓮見が帰った。下校したあとにチューバを取りに戻るとは考えられなかった。

 ドアからは死角になっているパーカッション類の裏側も確認する。しかしそこにもチューバは置かれていなかった。

 楠本は音楽準備室とは反対側の被服準備室へと向かう。被服準備室はフルートパートの練習室でありながら、前線を退いた昔のチューバやコントラバスといった大型の楽器を収納している部屋だ。なんらかの手違いでその部屋に移動されたのかもしれない。

鍵は音楽室のものとまとめられているため、わざわざ職員室に取りに行く必要はない。開錠してドアを開けた。そこにはチューバが置かれていたが、それは普段楠本が使っているものではなかった。こちらの部屋でも死角になっている場所や荷物のあいだなどを探すが、それでも見つからない。チューバなんて図体の大きなものが隠れられる場所なんて限られている。

「どういうことなんだ。ここにも無いとなると手違いじゃないぞ」

 音楽の授業で藤岡が楽器を持ち出すことはあるが、それが使われるのは音楽室でのこと。それに当然、授業が終われば元の場所に戻される。まさか家庭科室や理科室で使われるとは考えられなかった。

「……隠されたか?」

楽器を隠されたと楠本が考えてもおかしくはなかった。

 手違いでないとなると考えられるのはそれしか残らない。普通の吹奏楽部であれば人の楽器を隠すなんてことはしないだろう。商売道具である楽器は奏者の相棒でもある。入部したときに楽器を丁寧に扱うように先輩に指導されるし、人の楽器に手を出そうなんて考えはしない。しかしこの学校の吹奏楽部は違う。先日はチューニング管が抜き取られ、それがゴミ箱に捨てられていた。犯人は前回と同じと考えてよいだろう。

「まずは顧問に報告か」

 楠本は低音パートのパートリーダーとはいえ一部員にすぎない。責任者である藤岡の耳に入れておく必要がある。それに本当に手違いならば藤岡が知っているかもしれない。部長と副部長には言わなくていいだろう。そもそも彼らはこの事件の容疑者だ。だが書記の蒲生には伝えておこう。彼女は部活の幹部のなかで唯一マトモな人物。そして楠本が心を許している同級生だった。

 報告へ向かうために楠本は被服準備室を出た。その前に音楽室と音楽準備室の鍵を閉めなければならない。高価な楽器を格納した楽器庫を開けっ放しにしたままその場を離れるなんて不用心だ。それこそ他の楽器まで無くなったらシャレにならない。部員が入れ違いになったら面倒とか言っていられない。

 楠本は戸締りを終えると階段を降り始めた。職員室はこの棟の一階に入っている。二階まで降りるとしたから男子生徒の話声が聞こえてきた。放課後にこの棟の上の階に用事がある生徒は吹奏楽部員か美術部員だけだ。

その話声の主は小柳と荻野だった。

「おい楠本、油売ってないで学校が終わったらすぐに部活を始めろよ」

 そう言ったのは楠本と同じクラスの荻野だった。終礼が終わったらすぐに音楽室に向かった楠本に対し、荻野は小柳のクラスの終礼が終わるのを待っていた。いったい油を売っていたのはどちらだと言い返したかったが、それをするのは無駄ということを楠本はよく理解していた。

「楽器を無くしたんじゃねぇの?」

「あんなバカでかいやつを無くすなんて、ノーサウンドはバカだな」

「これじゃあ高校は無理だ。お前、中卒で働けよ」

「就職も無理じゃね?」

 三人以外に誰もいない静まった廊下に下品な笑い声が轟いた。

「おいノーサウンド。ボロいやつがあるだろ。お前なんてそれで充分だ」

 楠本は何も言い返すことなく、目的の職員室へと向かって階段を降りていった。


「はあ?」

 藤岡が上げた素っ頓狂な声は思いのほか職員室に響いた。

「今なんて?」

「チューバがなくなりました」

 藤岡は手に持っていたマグカップを机の上に置いた。これからこれ以上に驚きの情報が出てきても大丈夫なように。驚いて熱いコーヒーをぶちまけたら最悪だ。

「昨日の部活のときはあったよね?」

「はい。俺も楽器を最後に見たのは昨日の部活の時です。音楽の授業で使ったとかはないですよね?」

「ないよ。今日、授業があったのは二年生だったから」

 クラシック音楽などの授業は一年次から行われるが、実際に楽器を持ち出して授業をするというのは毎年三年生に対して行っているものだ。楠本の経験上、一、二年のときに授業で実際の楽器が出てきたということはなかった。

 ということは昨日の部活から今までのおよそ二十二時間のあいだに楽器は無くなった。いや隠されたと表現したほうがいいだろう。時間としては十分にゆとりがあるが実際にチューバを隠すとなると困難だ。昨日、音楽室を最後に施錠したのは楠本であり、今日も開錠したのは楠本だった。彼が帰った後や来る前に隠すためには鍵を藤岡に借りる必要があり怪しまれるだろう。

 となると昼休みの自主練習のときの犯行だろうか。今日の昼休みは午後一番に体育の授業があったため、楠本は練習を早めに切り上げた。音楽室には容疑者である小柳と荻野がいた。楠本が教室に帰ったあとに犯行するというのは十分に考えられる。

 しかし、チューバなんて大きな楽器を校内で移動させれば非常に目立ってしまう。ケースに入れた状態とはいえ、あのサイズの荷物なんてなかなか見ることがない。彼らは目撃されるのを覚悟のうえでチューバを隠したのだろうか。

「先生、去年のチューニング管の事件なんですけど」

 藤岡は腕を組み、キャスターがついた椅子の座面を左右にひねりながら唸る。

 去年は金管楽器の最重要部品と言ってもよいチューニング管が抜き取られ、それがゴミ箱に捨てられていた。チューニング管は楽器本体の管に刺さっている部品だ。少しでも歪めば楽器本体に入らなくなる。さらに管に限ったことではないが、金管楽器というものはわずかなへこみで音程が狂ったり吹奏感が変わったりする繊細なものなのだ。

 楠本のチューバに異常は認められなかったがそれでも楠本は悲しかった。小柳も荻野も金管楽器だ。当然、金管楽器は繊細な取り扱いが必要であることも知っているはずだ。それなのに楠本のチューバにはこの扱い。チューバは学校の備品であるが、それでも楠本の相棒に変わりはない。誰よりも愛情をこめて楽器を取り扱っている楠本は悲しかった。

 そんな吹奏楽部にあるまじき事件が起きて反省会を開いたにも関わらず、最上級生となり引退を目前にしたこの時期にこの事件である。

「今日の事件も例のグループの仕業だとは思うんです」

「そうでしょう。楠本がそう考えたっておかしくはない」

 例のグループ――それで藤岡も理解した。

 藤岡は顧問として当然に部員の人間関係を知っていた。楠本は蒲生に心を許している。そして小柳と荻野から乱暴な扱いを受けている。彼らの普段の言動を考えれば今回の事件は彼らによる犯行だと考えるのは普通のことだった。

「困ったねぇ!」

 藤岡は少し大げさにおどけて見せる。それは悲しい思いをしている楠本を少しでも励まそうとする彼女なりの優しさだった。

 しかし悲しい思いをしているのは藤岡も同じだった。楠本が逆恨みされないように細心の注意を払いながら小柳と荻野には指導をしてきた。しかしそれの効果は表れていないどころか、日がたつにつれて悪化していっているように感じる。本番を意図的に失敗させるだけでは意味がなかったのだろうか。

 おどけてみせた藤岡だったがそれでも内心は本当に困っていた。隠されたチューバは新品価格で八十万ほどする。その金額は地方公務員である藤岡でも簡単にポンっと出せるような金額ではない。楽器を大切に扱ううんぬんの前に、そのような高価なものをなぜ平気で隠すことができるのだろうか。それに加え、部活動生活の集大成とも言える定期演奏会の直前になぜこのようなことができるのか。これまでの部活動はなんだったのかと問いたくもなる。

 藤岡は机の端に追いやられた冊子類の一番上に置かれた、黒い革張りのスケジュール帳を開く。

「このあとどうしても外せない来客があるんだよなぁ」

 本当はすぐにでも音楽室にあがって緊急ミーティングを開きたかった。これまで吹奏楽の顧問を務めてきた藤岡が見た中でこの一年間は最悪のものだった。部員をなんだと思っているのか。楽器をなんだと思っているのか。それを聞きたかった。これからはどうするのか――返答によっては最悪の場合、定期演奏会の中止もあるだろう。まじめに活動してきた大多数の部員には申し訳ないが、今の状態で本番に臨んだところで良い演奏はできない。

「用事が終わったらすぐに行くから、音楽室で待っていて」


 音楽室で待機するように言われた楠本であったが、自分の愛機がどこかに隠された状況で待っていられるはずがなかった。職員室を後にした楠本は音楽室へつながる階段を上らずに、隣の棟へと向かった。この棟には一階に昇降口や柔道場。その上の階には二、三年生の教室が入っている。しかし奴らはこの棟のどこかに隠すだろうか。昇降口は放課後になれば人通りも多くなり簡単に発見される。柔道場には鍵がかかっているし、もし空いていたとしてもすぐに葛城に知られて大目玉だろう。上階の教室には隠しようがないし、そもそもチューバを運んでいたら生徒に注目される。それならば楠本が目撃していたかもしれない。

 しかし探し回る価値はあるだろう。楠本は昇降口へと足を運んだ。もしここに隠されていた――いや放置されていたとしても、ここを通る生徒は下校したら何をするかで頭がいっぱいのはずだ。片隅に置かれているチューバケースを気に掛けるとは思えない。もし気が付いたとしてもそれを先生に報告に行っていたら帰る時間が遅くなってしまうため、気が付かなかったふりをして帰るだろう。

 楠本は下足室を一年生のところから三年生のところまで確認して回ったが、残念ながらチューバは見つからなかった。同じ廊下にある特別教室を確認するが、どの教室も施錠されており、窓から覗いてもどこにも見当たらなかった。

 一体やつらはどこに隠したのだろう。それを知るもっとも確実なのは容疑者に吐かせることだ。しかし楠本が彼らを問い詰めたところで相手にされないだろう。いや、自分たちの犯行を棚に上げて楠本を責めるだろう。

 楠本はさらに隣の棟を探そうと渡り廊下へ向かった。しかしその棟も一年生の教室とパソコン室のような特別教室しか入っていない。どこかに隠せるような場所があるとは思えなかった。

「楠本、どうしたの?」

 階段を降りてきた蒲生に声を掛けられた。彼女の教室はこの棟の三階だが音楽室に向かうには一階まで降りて渡り廊下を渡らなければならないのだ。

「ちょっと楽器が隠されてね」

「はぁ!?」

 怒りが混じった蒲生の声に周囲の視線が一斉に集まる。

「誰がそんなことを!」

「推測だけど小柳と荻野じゃないかな」

「……それもそうね」

 蒲生は納得した。

 小柳と荻野を除けば、吹奏楽部内には人の楽器を隠すような部員はいないと彼女は信じていた。それに彼らの楠本に対する言動を普段から見ている。彼女が納得するのは当然だった。

「先生には言った?」

「さっき報告してきたよ。それで音楽室で待ってろって言われたんだけど、待っていられなくて」

「私も探すから!」

「いいの?」

「だって私は書記だもん。役員が困っている部員を手伝わなくてどうするの?」

 その言葉は部長と副部長をやっている小柳と荻野にも聞かせてやりたかった。どうして役員の三人でもこんなにも言動が異なるだろう。

 きっと蒲生が部長を務めていたら、吹奏楽部はもっと楽しくなっていただろうな。わずかに照れる蒲生の表情を楠本は見逃さなかった。


 廊下にいた生徒がざわついた。この棟に入っているのはすべて一年生の教室だ。その一年生の聖域ともいえる廊下に三年生が現れたのだから、みんな何事かと驚いている。廊下をずんずんと歩いていく蒲生に一部の生徒は怯えている。

 荷物をまとめて教室から出てきた吹奏楽部員と遭遇した。彼女より先にと楠本があいさつをする。どこの部活動でも一緒だが、吹奏楽部でも先輩よりも先に後輩があいさつをするように言われている。しかし先輩ともいえどもたった二つ違いだ。後輩でも自分からあいさつをするというのが楠本のポリシーだった。

 後輩からのあいさつが返ってくるよりも先に蒲生が飛びついた。

「菊間さん!」

「す、すみません! すぐに部活に行きます!」

「違う違う。帰りの会が遅くなっただけでしょ?」

 頭ごなしに怒らない。

 相手の事情を考える。

 それが蒲生の魅力であり、後輩から信頼されている理由だった。

「今日の休み時間、小柳とか荻野とかがチューバを移動させているところを見なかった?」

「あ~、今日は見てないです。何かあったんですか?」

「う~ん、ちょっとね」

 チューバが隠されたという不祥事をまだこの段階で一年生に話してはまずいと蒲生は考えたのだろうか。彼女は質問をはぐらかした。言わなかったとしても今日の部活は緊急ミーティングになるが、それでもまだ言うべきではない。言ってしまえばそれは周りの一年生や二年生たちに話が広がり、余計な動揺をさせてしまう。

「ちょっと私たちは用事があるから、黒板に遅れるって書いておいて」

「分かりました」

「私も楠本も、漢字が分からなかったら平仮名でいいから」

 そう言って蒲生は後輩を開放した。彼女は音楽室に向かうべく背中を向けるが、伝言を思いついた楠本によって呼び止められる。

「あ、菊間さん。もし蓮見さんが来ていたら俺のことは気にせずに練習しててって伝えて」

 しかし距離が遠かったのか、楠本の声が雑踏の声にかき消されたのか。後輩が振り返ることはなかった。

「楠本、大丈夫でしょ。もう蓮見さんは一人前なんだから」

 そうだった。

 指示を受けるまでもなく、蓮見は自分がどのような練習をすれば良いのか、どこを練習すれば良いのかが分かっていた。

 もうそんなに成長したのか。楠本は自分が置かれた状況を忘れ、感慨にふけった。


 一年生の教室が納められた棟を二人で探し回ったが、それでもチューバは見つからなかった。もうこれで主要な場所はすべて探した。残るのは運動場と体育館、それに隣接した運動部の部室棟ぐらいだ。山の斜面に立てられた赤岩中学校は敷地内に高低差がある。運動場や体育館に行くには急で意外と長い階段を使わなければならない。運動場には軟式野球部やソフトボール部の倉庫、体育館にも倉庫といったように隠し場所は存在するが、それでもあの急勾配の階段を使ってチューバを運搬するのは体力を要するだろう。

 面倒と感じるだろうが体力的な話をすれば健康的な男子中学生だったら問題ない。しかしそれでも運動部のテリトリーに隠すだろうか。軟式野球部の顧問は生徒指導部長である教師が担当しているし、体育館は葛城の管轄下。怪しんだ部員が顧問などに報告して速攻で小柳と荻野は生徒指導室行き。彼らはそんなリスクを選んでまでそこにチューバを隠すだろうか。

 しかし僅かでも隠されている可能性があるのであれば探す価値がある。

「蒲生さん、次は体育館を探す?」

 楠本は体育館の捜索を提案した。

 運動場も体育館もここからの距離はほとんど変わらない。しかし運動場に行くためには運動靴に履き替える必要がある。先に体育館を探すほうが手間は少ないだろう。

「待って楠本、この先にごみ集積所がある」

「そういえばそんなのがあったね」

 ごみ集積所はコンクリートで作られた小さな小屋だ。しばらくこの辺りに近づいていなかった楠本はすっかりと失念していた。


 チューバはそこにあった。

 可燃ごみを放り込む部屋の裏側。粗大ごみを集めるその小部屋にチューバがひっそりと置かれていた。

「嘘でしょ……」

 楠本は驚きのあまり、それしか言葉が出てこなかった。

 彼は薄暗い小部屋から日の当たる屋外にケースを引っ張り出した。ここに放り込んだときにできたのだろうか。ケースの下部に見慣れない擦り傷ができている。

 留め具をカチャカチャと外し、ふたを開く。

 太陽の直射日光を浴びてキラキラと輝くチューバ。

「楠本、大丈夫?」

「………………」

 楠本は無言だった。

 自分の楽器が捨てられていたのだ。大丈夫なわけがない。

 なぜここの吹奏楽部はここまでひどいことができるのだろうか。これまでに要らない部員扱いされたり殴られて鼻血を噴いたりしたが、今回のものはそれらとは大違いだ。

多数の人間が集まればいじめという現象が発生する。それは無いにこしたことはないが、人間の悲しいさがなのかもしれない。楠本は小柳や荻野を幼稚なことをする奴だと感じていた。それは諦観だった。そんな彼らによる不要扱いや暴力を楠本は「こんなもんだろう」と諦めていた。

 しかし今回の事件はこれまでのものとは違う。容認されることではないが例え部内にいじめがあったとしても、楽器には危害を加えないという吹奏楽部ならではの暗黙の了解がある。それは楽器を嗜むものとしての自負であり、最低限守るべきルールでもあった。

楽器を捨てるということは普通の吹奏楽部であればありえない。なぜここの吹奏楽部はその普通ではないのだろうか。

別に設立して間もないわけではない。すでに設立されて数十年は経過しており、過去には成績に悩まされた時期もあればそこそこの強豪校だった時期もある。楽器を丁寧に扱ったからといって演奏は上達しないが、楽器を乱暴に扱う人間に演奏の上達は見込めない。毎年の定期演奏会のシンフォニエッタでは、「先輩と後輩の繋がり」や「先輩から受け継がれる伝統」というテーマで演奏している。これまで伝統という名の歴史の糸を代々紡いできた。その糸の中には演奏技術だけではなく楽器の取り扱い方といったものも織り込まれているはずだ。

その糸は一体どこで切れたのだろうか。

 楠本がまだ一年生だった頃はここまで酷くはなかった。小柳や荻野からは相変わらず仲間外れにされていたが、それでも部活動生活で困ることはなかった。

 思い返せば二個上の先輩が部活を引退したころから少しずつ小柳たちが激しくなっていった。最上級生の目がなくなったことが要因だろう。この頃にノーサウンドという単語が生まれた。

そして一個上の先輩たちが秋に引退して小柳たちが実質的な最上級生となった頃には最早歯止めが効かなくなっていた。楠本に暴力を振るうのは当たり前で差別も日常の事となった。後輩が見ているから自重する――という考えは彼らにはなかった。むしろ楠本を見せしめにすることで部活動内部に恐怖政治を敷いているようにも見えた。周りの同級生はそれを止めることはできず、後輩たちは中学校から始まった上下関係という概念に縛られて身動きは取れなかったのだろう。

 伝統の糸は切れたんじゃない。

 異物が混ざりこんだんだ。

 小柳や荻野といった異物。

 彼らの暴走を止められなかった楠本や蒲生も同じ異物だった。楠本たちは小柳たちの暴走を止める義務があった。後輩には任せることができない、同級生であるからこそ止める義務だった。

 自分たちが異物であるということに気づかないまま、伝統の糸を紡いでしまった。

「楠本、とりあえず音楽室に帰ろう?」

「………………」

 活動場所には戻りたくはなかった。音楽室には犯人である小柳と荻野がいる。

 できればどこかの空き教室で一人のんびりとチューバを吹いていたかった。そういえば一年生の頃のコンクール直前、学校中の教室に分かれて個人練習をするという試みがあったっけ。そういえば楠本が割り振られた教室はこの近くだった。あの時の練習をもう一度できないだろうか。

「ほら、蓮見さんも待ってるから」

「……わかった」

 とはいえ今の楠本は先輩としての立場があった。すでに蓮見に教えることはなかったが、それでもパート練習はしなければならない。いくら自身が後輩だった時代を懐古してもあの頃には戻れない。

 ケースを閉じて留め具をとめて、楠本は立ち上がった。


 職員室に用事があった蒲生と別れ、楠本はチューバを抱えて三階まで昇った。これまで演奏会のたびに楽器運搬で何度も楽器を抱えて階段の昇り降りをしたが、これをするのも次の定期演奏会で最後だ。最初のころは足を踏み外さないかヒヤヒヤしていたが今となっては体力がついたのか取り回しに慣れたのか、昔ほど苦労はしなくなった。もっとも楽器を抱えている状態で階段を踏み外せば怪我は免れることができず楽器の機関部にも不具合が発生する可能性もある。楽器運搬は今でも気を抜くことができない作業ではあるが、そんな演奏とは直接関係のないことでさえ今となっては懐かしく感じる。

 三階が近づくにつれて楽器の音が大きくなっていく。楠本はいつも一番に来ていたため、ここから吹奏楽部の音を聴いたことはほとんどなかった。クラリネットやサックスの音色。それに紛れてなぜかチューバの音が聴こえていた。

 楠本は経験したことはないが、野球の内野ゴロとヒットでは打撃音が異なる。バットの芯でボールをとらえるとカンッっと爽快な金属音が響くのだ。聞こえてきたその音は爽快感あふれる図太い芯があった。野球部がボールをバットの芯で捉える練習をしているように、吹奏楽部も最も響く芯を捉える練習をしている。しかし聴こえてくるその音は蓮見にはできない、いや引退目前の楠本でさえ奏でることができない響きだった。

 階段を昇り終え廊下に顔を出したことで、その音の正体が分かった。

 宗太郎が廊下を歩きながらロングトーンをしていた。

 二十キロ弱の重量がある楽器が納められたチューバケースを床に置いた。ケースには車輪がついているためここからは押して持っていける。その床に置いた音で気づいたのだろう。宗太郎は楠本のほうに振り返った。

「どうした少年」

「……いえ、なんでも」

「……分かった。ちょっと準備室で話そう」

 宗太郎は楠本を連れて歩き出した。

 廊下で練習している部員や歯を磨いて準備をしている部員たちがチラチラと見てくる。ただでさえOBの中では有名な宗太郎だ。それにくわえて歩きながらのロングトーンで彼は事前に注目を集めていた。そんな彼がチューバケースを抱えた楠本を連れて歩いているということでなおさら部員たちから視線が向けられる。まるで悪いことをして連行されているようだ。楠本は胃が痛かった。

 道すがら宗太郎はチューバを廊下に置いておいたケースに収納した。基本的に短時間だけ場所を離れるときは楽器を安定した壁などに当てておくのが普通であり、わざわざケースに戻すのは長時間場所を離れるときだ。きっと宗太郎との話は長い時間になるのだろう。

 音楽準備室に入ると音楽室直通の木製のドアを宗太郎が閉鎖した。楠本は低音パートの棚の前にケースを置く。パーカッションがすべて出払った室内はがらりとしていた。

「練習はしなくていいんですか?」

「大丈夫だ。何か言われたら俺の指示だと言え」

 大先輩の宗太郎が言ったことならば現役部員たちは何も口を挟むことはできないだろう。年齢差や上下関係だけでなく彼には一般人にはない独特な雰囲気がある。彼に異言を唱えることはなかなかに勇気がいるはずだ。それに顧問の藤岡は宗太郎とツーカーの仲。きっと彼の判断を支持するはずだ。

「ちょっと待て」

 宗太郎は気配を殺して音楽室直通の扉に忍び寄り、勢いよくドアを開けた。耳をつけてこちらの会話を盗み聞きしようとしていたのだろう、小柳がつんのめって部屋へと入ってきた。

「おい、練習はどうした?」

「楠本が心配で……」

「おまえは今までに楠本を心配したことがあるか?」

「ヤツは遅刻してきたので、部長として指導しないと」

「部長、か。そうやって権限を振りかざすのは楽しいだろうな」

「………………」

「率先垂範って知っているか?」

 宗太郎は鼻で笑った。

 彼は以前少佐クラスと言っていた。その後楠本が調べたが少佐とは陸上自衛隊では3等陸佐と呼ばれているそうだ。そして任務は二百人ほどで構成される中隊の隊長。隊員二百人の命を預かる中隊長の任務や覚悟はただの中学校の部活の部長とは比べ物にならないだろう。

「人にとやかく言う前に自分の行いを反省しろ」

「………………」

「先輩命令だ、練習に戻れ」

 宗太郎はそうきっぱり言って扉を閉めて施錠する。

 その背中は何かの鬼教官のように見えた。彼が「先輩命令」という単語を使ったところを楠本はこれまでに一度も見たことはなかった。

 彼は扉を閉じるとその場でじっとしていた。数秒経過した後に楠本へと振り返る。扉の向こうから小柳が立ち去るのを待っていたのだろう。

「楠本、苦しいだろ。お前がやっているのは音楽じゃない。音が苦だ」

 宗太郎はいいことを言ったという顔をしているが、全然そんなことはなかった。

「音が苦って……」

「文句ならアニメ監督に言えよ。俺のオリジナルじゃない」

 彼には悪いが楠本はその言葉の意味が理解できなかった。おそらく何かのアニメの引用だろうけれどもアニメに明るくない楠本はその元ネタが分からない。それにこれ以上突っ込んではいけないようにも感じた。誰かが埼玉県秩父市の山奥のトンネルに生き埋めにされるかもしれない。

 隣の音楽室で蒲生の怒鳴り声が聞こえてきた。用事が終わって到着したのだろう。彼女は楽器を取り出すより先に今回の事件に対して怒った。それに反抗して小柳が言い返す。その応酬に荻野が加勢する。しかし男子二人組に対しても蒲生の怒りは静まることはない。

 周りの後輩たちがぎょっとしたのだろう。楽器の音が途切れた。しかし蒲生の「私たちのことは気にしないで練習してて」という指示で練習が再開された。彼女は怒っていても決してそれを第三者に向けることはない。

 その怒号に宗太郎は耳を傾け、そして意思を整えた。

「楠本、悪いが俺は『シンフォニエッタ』には参加しない。いや、もう二度と一緒に演奏したくない」

 それは宗太郎の完全な引退宣言ではない。この吹奏楽部との絶縁宣言だった。

「演奏会では「先輩から受け継がれる伝統」とか「先輩との繋がり」とか銘打っているが、俺たちが伝えたかった事は全然伝わってない。仲間を仲間として思っていない。それどころか邪魔者扱いだ。しかも楽器に危害を加える。こんな楽団なんて他にないぞ。なにが「先輩との繋がり」だ。そんなものクソ食らえだ。正直感じているだろう? この楽団はもう終わっているんだ」

「終わってるだなんて……」

「これまでにいじめられたときに何か言い返したか?」

「いえ……」

「この楽団が終わっているって無意識のうちに理解しているから言い返さなかったんだ」

「………………」

「別に楠本が悪いってわけじゃない。楠本が何か言ったところで連中は逆ギレするだけだろう。それは無駄な戦闘だ。戦力を消耗するだけでなんの利益もない」

 図星だった。楠本が小柳や荻野に何か言ったところで彼らは激高するだけだ。彼らは楠本を見下している。格下と思っている相手の話を聞く人間なんていないだろう。

 楠本は別に彼らに劣っているとは思っていなかった。しかし魚心あれば水心だ。自分をないがしろにする連中を相手にするほど無駄なことはなかった。

「楠本、おまえは十分に頑張った。それは認める。しかしこれ以上続けたら音楽が嫌いになってしまう」

「………………」

「自衛隊の特別な訓練では見込みのない訓練生を脱落させるために「お前の頑張りは認めるがこれ以上続けたら命が危ない」って助言することがある。訓練生はこれを受け入れたら素質はないと判断される。そもそも本当に命の危険があったら教官助教じゃなくて医官や衛生隊員がストップをかけるけどな。俺も似たような訓練で教官を務めたこともある。素質のない訓練生を脱落させるためにそういう事を言ったこともある。だけどさっき楠本に言ったことはそういう意味じゃない」

 宗太郎は楠本の両肩をがしりと掴んだ。

「俺はおまえの教官でもなければ助教でもない。俺は楠本の先輩だ」

 それは当たり前すぎてすっかり意識から忘れていた事実だった。楠本にとって宗太郎は先輩というよりも「よく部活に遊びに来てくれる人」という認識だった。いつもは「宗太郎さん」と呼んでいて、これまでに「宗太郎先輩」と呼んだことは記憶にない。

「楠本の先輩として伝える。おまえは十分に頑張った。認めているのは俺だけじゃない。蓮見だって顧問だってそうだ。他のパートの連中だってみんな認めている」

 楠本の努力は一部を除いてみんなが知っている。

 部室に来たころにはすでに楠本が基礎練習を始めていた。それは土日の部活でも変わらなかった。全体練習が終わって部員が帰る準備をしているときも、楠本は最後まで練習していた。

 壮行会の悲劇だってみんな覚えている。あれだけ「いないほうが良い演奏ができる」と言われ続けていた楠本が欠けて演奏が破綻した。いくら弱小校とはいえこれまでに本番で演奏が止まったことはなかった。楠本がいなければ演奏は成り立たなかった。

「だけどな楠本、これ以上この楽団で音楽を続けると音楽が嫌いになってしまう。チューバだって嫌いになってしまうだろう。今に固執するんじゃない。チューバは大人になっても吹けるんだ」

 楠本は大人になってもチューバを続けるという考えはなかった。チューバが嫌いというわけではない。宗太郎のように社会人になってもチューバを続けている人もいるが、彼が使っているのは自前の楽器だ。部活動ならば学校に楽器が用意されているが、社会人ならば自分で準備しなければならない。チューバなんて到底自分には買えないようなものだと思っていた。

「たしかにチューバは高価な楽器だ。しかし買えないものじゃない。ドイツ製のものを狙えば二百万なんてザラだ。だけど日本製は百万もあれば買える。安いだろ?」

「それでも高いですよ」

「中学生にとってはな。だけど社会人になって仕事を始めればよっぽどのことがない限り百万なんてすぐに貯まる」

 といわれても未成年どころか義務教育の最中の楠本にそれは想像できなかった。しかし宗太郎がそう言うのならばその通りだろう。それでも数十万、数百万と貯めるのは大変なことには違いないのかもしれないけれど。

 だけど今の問題は未来の資産形成の事ではない。楠本は辞めるかどうかの問題で後輩の事が気がかかりだった。

「でも俺が辞めたら蓮見さんが……」

「さっき俺は今後『シンフォニエッタ』に参加しないと言ったな。ここから俺はもう先輩じゃない。一介の国家公務員として教えてやる」

 宗太郎の眼の色が変わった。さっきまでの優しそうな表情はもう残っていない。その茶色に変色した瞳は国家公務員。いや、戦闘員の目つきだった。これまで幾多の試練を乗り越えてきたベテラン戦闘員のような表情だ。

「作戦の成否は損害数だけでは決まらない。当初の目的を達成できたかどうかで決まる。極端な話、部隊が全滅しようが壊滅しようが本来の目的を達成できていればその作戦は成功したものと言える。楠本、おまえの目的はなんだ。何のため、誰のために部活を続けてきた」

 せっかく吹奏楽部に入ったから?

 楽器を吹けるようになったから?

 途中で部活を辞めたら高校入試に響くから?

 違う。そんなちっぽけなものじゃない。

 宮崎県吹奏楽コンクール。楠本にとってそれがラストステージのはずだった。それが終われば吹奏楽部なんて辞めるつもりだった。

 だけどあの時、決意が揺らいだ。

 もう少しチューバを吹いていたい。そう思った。

 菱川が様子を見に来てくれるから。

 宗太郎がチューバを抱えて遊びに来てくれるから。

 それだけじゃない。

 蓮見がいてくれたからだ。

 この楽団は仲間をこき下ろし、その割に自分たちはあまり練習しない。ごく一部だがそんな腐ったやつが支配しているろくでもない世界だった。だけど蓮見がいてくれたから、もう少し続けてみたいと思えた。彼女の成長をもう少しだけ見ていたと思えた。

 蓮見がいなければとっくに辞めていただろう。彼女がいたからこそ今まで続けることができたのだ。

「楠本はやるべき事をやり遂げた。違うか?」

 蓮見は既に立派なチューバ奏者になっていた。一人でだって十分楽団を支えられるだけの力量を持っている。全国大会に出場しているチューバ奏者から見たらまだまだかもしれないが、そもそもこの吹奏楽部は全国大会を目指せるようなレベルではない。

 全国大会には全国大会の世界があるように、県大会銅賞には銅賞の世界がある。全国常連校じゃないと観られない世界があるように、赤岩中学校吹奏楽部にもここでないと観ることができない世界がある。

隣の音楽室からは、蓮見がチューバで奏でる『ファランドール』が聴こえてくる。初めて蓮見と出会った日、最初に吹いてみせたあの『ファランドール』だ。

「引退まであと少し。最後までやり遂げてもいいだろう。だけど最後までやらなければならないというわけでもない。もう任務は達成しているんだ」

 楠本が育て上げた、自慢の後輩。

 菱川が楠本を育てたように、楠本も蓮見を育てた。

 先輩から受け継いだ技術を、後輩へと伝えることができた。

 何代目かも分からない赤岩中学校吹奏楽部のチューバ奏者として、やるべき事はもう終わっていた。

「いいことを教えてやろう。『兵は拙速を尊ぶ』という言葉がある。いくら時間をかけて決断しても戦場では何の役にも立たない。それどころか決断する頃には状況は悪化している。最善じゃなくていい。限られた状況で得られる情報、短時間で考えられる選択肢から最適なものを選択するんだ」

 今年の三月頃には部活を辞めようか考えていた。例え話を使ってそれとなく藤岡に相談していた。藤岡には「もう少し考えたほうがいい」と言われたが、あの時から数えてもう七か月以上は経過している。

 楠本はこれまでに決断を下さなかった。時間はずるずると経過し、蓮見をチューバに迎え入れた。コンクールで最後にすると言いながら、もう少し蓮見の成長を見守りたいと思った。

 考える時間は終わった。

 今は決断を下すときだった。

「限界は意外と目の前に迫っているものだぞ。それを超えるのは俺の仕事だ。楠本がやるべき事じゃない。今ならまだ間に合う、離脱するんだ」

 宗太郎の言う通り、楠本は限界だった。

 楠本は絶対に泣かないと決意していた。泣くのは定期演奏会が終わった時だと決めていた。しかしその決意に反して、涙がぼろぼろとあふれてくる。

「泣け泣け。泣けるということはまだ引き返せるということだ」

 楠本は声を出して泣いた。

 こうなってしまっては歯止めが効かなかった。

 隣が吹奏楽部の活動場所で都合がよかった。蒲生が練習再開を指示したことも運がよかった。楽器の音が楠本の慟哭をかき消してくれた。

「……藤岡先生、入ってきていいですよ」

「……気づいていたか」

「国家公務員ですから」

 気まずそうに廊下のドアを開けた藤岡に、宗太郎は意味の分からない答えを返した。あまりにもとんちんかんな返答に、楠本は泣きながらも笑った。

「宗太郎先輩が言っている通り、先生も楠本の努力は認めている。」

 楠本の努力を最も知っているのは顧問であり指揮者でもある藤岡だった。

「学校が終わると誰よりも早く音楽室の鍵を取りに来ていたね。返しに来るのだっていつも楠本だった。部長たちが勝手に部活を休みにしたときだって、楠本は真面目に部活に取り組んでいたね。今の一年生が入部してくる前は低音楽器一人だったじゃないか。楠本がいなければこの部活はとっくに破綻していた。いつでも使えるように予備のチューバやユーフォを整備していることだって知っているよ」

 音楽室の鍵はいつも藤岡が管理している。鍵の借用返却に来るのがほとんど楠本だということを当然知っていた。低音楽器というのはチューバだけではなくコントラバスやバスクラリネットと他にもあるがその担当者は去年卒業してしまった。蓮見が入部するまで唯一の低音楽器でありたった一人で楽団を支えている楠本を藤岡は指揮台からいつも見ていた。

「吹奏楽は中学だけじゃない。高校で新しいメンバーに囲まれて再挑戦したっていい。それに大人になって社会人吹奏楽団で長く続けるという選択肢だってある。オーケストラに転向したっていいし、宗太郎先輩みたいにひとりで楽しむこともできる」

 藤岡と宗太郎が視線を合わせる。

「中学校の部活だけで楽器を辞めるだなんてもったいない。チューバじゃなくてもいいから先生は宗太郎先輩みたいに今後も長く音楽を続けて欲しい」

 それは吹奏楽部の顧問でもあり中学校の音楽教師でもある藤岡の信念だった。これまで楽器の上達に悩んだ部員や歌が苦手な生徒と多く接してきた。藤岡は教育者として彼らの音楽指導に当たってきたが、技術の向上だけではなくそれ以上に心の成長を重視していた。藤岡は部員や生徒を教育しているのであってプロの音楽家を養成しているわけではない。

「六十歳まで音楽をするとして音楽人生は残り約四十五年。そう考えたら中学校での三年間なんて一割にも満たないしまだまだ序盤だ。その最初の三年間のせいで六十歳までの時間を音楽から離れるなんて先生はしてほしくない」

 人間はさまざまな経験を積むことで一年を短く感じるようになり、昔のことは徐々に記憶から薄れてくる。六十歳から見れば十五歳なんてまだまだ若造であり人生の序盤でしかない。そんな序盤でのつまずきで今後の数十年を諦めてほしくはなかった。

 しかし楠本はまだ十五年しか生きていない。十五歳にとって三年間というものはこれまでの人生の二割を占める。学校や部活といったコミュニティしか知らない人生経験の浅い楠本にとって今の問題は大きなことだった。それに加えていじめは現在起こっている問題。過去の事と水に流すことはできなかった。

「でもこの状態のまま定期演奏会を迎えてしまうと「中学校の吹奏楽部はひどいものだった」って記憶が残ってしまう。今後高校生や社会人になって楽器をもう一度始めるとき、その記憶を思い出してもう一歩を踏み出せないかもしれない」

 つらい過去を思い出した時、それを乗り越えていけるか回避しようとするかはその人の思考と人生経験による。藤岡はこれまで多くの部員の卒部を見てきた。進学した高校でも吹奏楽を続けた元部員もいれば地域の吹奏楽団やオーケストラに入団した元部員もいる。そして演奏技術に伸び悩んだり人間関係に悩んだりして中学校だけで楽器を辞めた元部員も知っている。その中には藤岡の力が及ばずにいじめを受けたまま卒部した部員だっていた。

 楠本のチューバが捨てられていた事件を藤岡は蒲生から聞いていた。藤岡がこれまでに見てきた吹奏楽部でここまで酷い事件が起きたのは初めてだ。殴られて鼻血を噴いた事件もこれまでに見たことがない事件だったが、楽器を嗜む人間にとって楽器に危害を加えられるというものは自身を傷つけられる以上につらいものだ。楠本が人一倍楽器を大切にしてきたことを知っている藤岡は彼がとても傷ついていることを容易に想像できた。

 ラストステージとは記憶に残るものだ。藤岡も中学三年生の時のラストステージを覚えている。顧問が世紀の大怪盗が好きすぎて青のワイシャツに赤いジャケットで登場した。毎年ゲスト出演していた男子バレー部顧問の数学教師は灰色の着ぐるみで傘をさして舞台に現れ、最後には海賊の恰好をして再登場した。その姿はゴム人間の少年というより、どう見ても裸の大将だったが。

 中学校を卒業して長い時間が経過している藤岡でも覚えているのだ。楠本が迎える定期演奏会というラストステージはきっと彼の記憶に刻まれるだろう。しかし楽器を捨てられるという史上最悪の事件が発生するような今の状態でラストステージを迎えると、彼の中で忘れたくても忘れることができない最悪の記憶となってしまう。それは楠本が今後楽器を始める際の障害となってしまう。二度と楽器に関わることができなくなってしまうかもしれない。

「だから先生は」

 藤岡は一呼吸置いた。

 その余白は彼女自身が決意するためのものだった。

「楠本には部活を辞めてほしい。これからも音楽を続けるためにも」

 顧問として最も言いたくなかった言葉だった。これまでに面倒を見てきた部員の中に学校の成績が低迷し、親や担任に部活を辞めて勉学に集中することを勧められて退部届を提出した者もいる。本人がそういう決断をせざるを得ない状況として藤岡は書類を受け取っていたが、それでも吹奏楽部の顧問として何とか部活を続けながら勉強と両立できないかと相談に乗っていた。勉強のほうにも力を入れるようにも言っていたが、「勉強ができないんだったら部活を辞めてほしい」とは言ったことがなかった。

 学業が低迷している部員に辞めるように促すのだったら気が楽だっただろう。しかし楠本は成績は悪いほうでなければ日常生活にも問題はない。そんな彼に部活を辞めて欲しいというのはつらかった。藤岡にとって楠本は初めて積極的にスカウトした部員だった。きっと入部してくれると信じて彼が中学校に入学する前からチューバを任せることを決めていたほどだ。そんな彼に退部を促すのはなおさらつらかった。

 しかしそれでも藤岡は楠本にそれを伝えなければなかった。藤岡は彼を部員にしたかったが、それ以上にチューバ奏者としての未来を見出していた。中学教師とはいえ音楽家の端くれだ。その血が騒いだのだろう。今後彼がチューバを吹くためにも、彼を今の吹奏楽部から辞めさせなければならなかった。悪い記憶が刻まれる前に彼をこの呪縛から解き放たなくてはならなかった。

「定期演奏会の前に辞めたからといって除け者になんてしない。コンクールに一緒に参加した部員じゃないか。来年の定期演奏会にはOBとしての参加を打診しよう。もちろん嫌だったら断ってもいい。その次の年も打診する。またいつかこの楽団で演奏したくなったらいつだって戻ってきていいんだ。ここは楠本の故郷なんだから」

「………………」

 音楽準備室に一瞬の静寂が訪れる。

 決意を整える時間だった。

十秒にも満たない静寂。その沈黙を破ったのは大先輩だった。

「楠本。帰ろう、帰ればまた来られるから」

 宗太郎はそう言い残し、楠本の背中をぽんと叩いて部屋を出て行った。一瞬だけ見えた宗太郎の横顔は戦闘員の顔をしてはいなかった。

 音楽準備室を去っていった上岡宗太郎。

 九世代前のチューバ担当。

 卒業してもなお楽器を続けるアマチュアチューバ奏者。

 彼はこの赤岩中学校吹奏楽部を去っていった。しかし楠本の目には彼が見切りをつけたようには見えなかった。

 慣れ親しんだ世界を後にするというのは怖いものだ。しかし楠本も立ち去らなければならない。もう一度この音楽の世界に戻ってくるためには。大人になってもチューバを続けるためには。

「先生、俺は……」

 本当は続けたかった。

 このまま定期演奏会を迎え、先輩や後輩たちと共にシンフォニエッタを演奏し、集大成として韃靼人の踊りのソロを成功させたかった。祖母に最後の雄姿を見てほしかった。

 しかし今のこの吹奏楽部では華々しい引退ができないことは悟っていた。最後のステージを控えた今となっても小柳や荻野は他人の楽器に危害を加えるという幼稚ないじめをしているのだ。きっと定期演奏会当日も似たようなことをされるに違いない。このままでは最悪な記憶が残るというのは彼も理解していた。

 それでも楠本は悩んだ。

 藤岡が勧める通りにこのまま退部して後になってから後悔しないかという意味ではない。定期演奏会を控えたこの時期に突然楠本がいなくなって、残された蓮見が戸惑わないかという心配だった。楠本が菱川と共に演奏していたとき、明日からは完全に独り立ちしなければならないとはいえそれでも定期演奏会で隣には先輩がいるというのは心強かった。

定期演奏会は吹奏楽コンクールと同じかそれ以上に意気込むものだ。楠本は初めての定期演奏会を迎える前に体育大会や文化祭といった小さな舞台に立っていた。その前にはコンクールという大舞台にも立っていた。それらの舞台で味わった緊張感や達成感が経験値として積み重なり、楠本は経験相応の自信を持っていた。

 しかしそれらの成功体験は校歌の吹奏で定期演奏会の緞帳どんちょうが開くと同時に打ち砕かれた。幕の向こうに突然現れた大勢の観客、拍手。それはまるでコンクールで舞台配置が終わり照明が灯され、会場に課題曲と自由曲がアナウンスされたときの感覚。いやそれとは全く異なる感覚であり楠本が予想していたようなものではなかった。

 想定外の感覚に楠本は急激に緊張しもはや恐怖を覚えていた。それでも演奏は進んでいく。恐怖で硬直した楠本の身体はうまくチューバを操ることができなくなっていた。そして当時の楠本が苦戦していた小節が出現し、彼は下第四線のFを空振りした。楽譜にはまだそのFが続いている。いくらチューバに息を吹き込んでも音を響かせてくれることはなかった。

 それでも楠本はパニックに陥ることなく校歌が終わる頃には立て直していた。それは菱川のおかげだと思っている。彼女は隣で豊かな下第四線のFを少し大きめに響かせながら、横眼でちらりと楠本を見ていた。その視線は彼を咎めるようなものではなかった。

第一部の盛り上がりを見せるシンフォニエッタ。下第二線Cと下第四線Fの上昇下降を繰り返す練習番号十六番。それを迎えるときも菱川は楠本に視線を送っていた。第三部のクラシックメドレーの三年生による独奏。席を立った菱川は一時的に独りとなる楠本に頷いてソリストの位置へと向かっていった。

 最初の定期演奏会は記憶に残るものだ。あの緊張、恐怖、硬直。そして菱川の視線。彼女のあの視線をなんと形容すればよいのだろうか。心配、気がかり、応援、励まし、後ろ押し……どの単語を組み合わせてもそれを適切に表現することはできなかった。

 楠本は蓮見という後輩ができたことで視線を受ける側から送る側へとまわった。立場が変わってもあの視線を言葉にすることはできなかった。しかしあの時菱川がどのような気持ちで楠本に視線を送ったのかなんとなく分かるようになった。

 菱川と楠本、楠本と蓮見。それらの二者間の結びつきはただの先輩後輩というものではなかった。友人関係にあったわけでもなければ恋人関係でもない。師弟関係という単語も適切ではない。約七カ月間という短い付き合いだが、それでも二人でさまざまな舞台に立ってきた。舞台ではさまざまな想定外のことが発生する。突然ロータリーが故障して動かなくなったこともあれば指揮者が演奏している小節を見失い、奏者全員が迷ったこともあった。

ステージの上は戦場だ。命を落としはしないが観客の注目という弾丸が飛び交っている。トラブルで少しでも演奏が乱れれば奏者は集中砲火を浴びせられる。

 楠本も演奏を失敗し観客の視線を集めたこともあった。しかし隣にいた菱川が身を挺して守ってくれた。彼女が演奏するチューバはまるで砲火を集める観客に応戦する大砲のようだった。音符という砲弾を撃ち返しているように見えた。

壮行会で蓮見が失敗したとき、楠本は彼女のそばに駆け寄りたかった。隣に寄り添い、身を挺して注ぎ込まれる視線を遮りたかった。蓮見の実力はこんなものじゃないとチューバで撃ち返したかった。

 菱川と楠本。

 楠本と蓮見。

 それらの二者間の関係は先輩後輩の関係や師弟関係といったものを超越していた。約七カ月間という短いつきあいだが、まるで十数年間共に戦場で暮らしてきた感覚すら覚える。戦友といえるものだろうか。いやそんなありきたりな単語では完全に表現することができない。もしも楠本が小説家になったとしてもこの関係を言葉で表現することができないのかもしれない。

 楠本たちだけではない。

 菱川とその先輩。

 その先輩とそのまた先輩。

 彼女たちも同じようか感覚を覚えたのだろう。宗太郎だって似たような感覚を経験しているのだろう。それはシンフォニエッタが作曲された頃から、いや、この日向市立赤岩中学校吹奏楽部が設立されたころから伝わってきたものだろう。それを形にしたものがシンフォニエッタなのかもしれない。

「先生、俺は部活を辞めます」

 本当は続けたいだなんて言う必要はない。それは藤岡も分かっていることだから。

 菱川が楠本に送った視線。それには後を託す気持ちが込められていたのだろう。それでも表現するには不十分だがそれしか思いつかない。

 人は自分で満点をつけたときに成長は止まる。あの時の楠本は満点ではなかった。事実として序盤の校歌で空振りしていた。その失敗に菱川は呆れたのではなく後を任せる心が決まったのだろう。本番のステージ上で楠本はこれからの課題を見つけた。それは彼に成長できる余白が残っているということだった。これからは一人だけでやっていける。アシストするのはこれで最後。彼女はそう思っていたはずだ。

 楠本は蓮見を信頼している。彼女ならばもう楠本がいなくても大丈夫だ。現に楠本が彼女に教えられることは残っていなければ、ステージに立つメンタル面ではとっくに楠本を超えていた。いま楠本が辞めたら残された蓮見が不安になるだなんて、それは楠本の独りよがりでしかない。彼がいまできることはこの世界にすがることではない。蓮見を信頼し、彼女にチューバを託すことだった。

 ならばやるべきことは一つ。

 自らの意思で部活を去る。

 それは楠本なりの特攻だった。

 命と引き換えに国家を救おうとした英霊と比べたら部活を辞めるかどうかなんてちっぽけな問題だ。比較するのもおこがましい。

 背負ったものも引き換えにするものも比べ物にならないが、彼らが日本を守るために命を差し出したように、楠本も吹奏楽部を守るために自らを差し出す。彼らの特攻によって世界が衝撃を受けて変わったように、定期演奏会を目前にして三年生が自ら辞めるという事態を受けて残された後輩たちも何かが変わるはずだ。

それ以外にこの吹奏楽部を救う方法はない。元の吹奏楽部に戻るまで何世代かかるか分からない。それでも楠本はその先導となる。日向市立赤岩中学校吹奏楽部の生まれ変わりに先駆けて散る。まさに本望じゃないか。

楠本は決意が決まっていた。まるで茂爺ちゃんの魂が乗り移ったかのように。弟の曾孫を応援するために彼がこの世に戻ってきたかのようだった。

 シンフォニエッタの練習の最初に藤岡は「先輩から何を引き継いだか、後輩に何を残したいか。その解釈を演奏で表現してほしい」と言っていた。楠本はただ単に演奏技術を次の世代へと繋いでいくものだと捉えていたが、そのように単純なものではないと気づいた。

 部活動生活は永遠ではない。思い通りの日々でもなかった。それでも菱川と過ごした七カ月、蓮見と過ごした七カ月はかけがえのないものだった。楠本が菱川から教えられたものは言葉に表せない。しいて言うならば後輩を思いやる心、信じて後を任せる心といったものだ。それを蓮見にも託したい。彼女に後輩ができたときにそれを伝えてほしい。別に後輩が入ってすぐに実践してほしいというわけではない。時間をかけてゆっくりと気づいてくれればいいのだ。楠本だってやっと今になって気づくことができたのだから。

 これまで先代が繋いできた糸はこれからも紡がれていく。蓮見の次の世代、さらに次の世代へと。数世代先の後輩は笑って楽器を吹けているだろうか。チューバだけじゃない。他の楽器の後輩たちも笑えているだろうか。

楠本は顔も知らない数世代先の後輩たちの笑顔を守るのだ。そのために定期演奏会を待たずに自らの意思で辞める。未来を変えるために。

 これが楠本のシンフォニエッタだ。

「先生はいじめを止めようとしていた。だけどそれは間違いだったのかな? 環境を変えるんじゃなくて、一刻も早く楠本をここから逃がさないといけなかったのかもしれない。それに気づけなくてごめんよ」

「いえ、そんなことはありません」

 この小さな世界を変えるのは藤岡の仕事ではない。

 その役目は楠本のもの。

 彼に課せられた最後の任務。

 自分自身で見つけ出した彼のミッションだ。

「先生には感謝しています。先生のおかげで音楽に目覚めることができたんですから」

 小学校のイベントの中学校見学。楠本は空手部を見学したかったが、じゃんけんに負けて吹奏楽部に回された。イベント当日、周りの見学者が少しずつ帰っていくなか楠本は帰るタイミングを逃し最後にひとりだけ残った。そして藤岡の目に留まった。

 すべて運命的だった。

「ちっとも先生を恨んではいませんよ」

 未来は何がきっかけで変わるかは分からない。とある十一歳の少年は誕生日にライフルをねだったが代わりにギターを与えられた。それがきっかけで『キング・オブ・ロックンロール』と称されるミュージシャンとなった。とあるピアニスト志望の少年はラグビーで怪我をしたことがきっかけで日本が誇る世界的な指揮者となった。

 何がきっかけで人生は変わるかは分からない。楠本は藤岡のスカウトがきっかけで人生が変わった。じゃんけんに勝っていたら今はなかっただろう。周りの流れに合わせて帰っていても今はなかっただろう。もちろんそれらの選択肢を選んだ先にも世界はあった。しかしそこには音楽は存在していただろうか。今の世界を知った楠本に、音楽のない世界なんて想像できなかった。

「そう、ありがとう」

 運命の歯車が狂ったのか、それともそれが運命だったのか。

 それはすべてが終わったあとにしか分からない。

 一瞬だけ静まった室内にノックの音が響いた。

 恐る恐る開かれたドアに顔を覗かせたのは蓮見だった。

「先生に呼ばれてるって宗太郎さんに言われて来たんですけど……」

「蓮見、ちょうどいいところに来たね。中にはいって」

「失礼します……先輩?」

 彼女は赤く泣き腫らした楠本の顔を見て戸惑った。

 この状況で楠本から話を切り出すのはなんだか恥ずかしかった。彼だって先輩であり何よりも男だ。「いじめられているので部活を辞めます」なんて、そんな情けないところを後輩であり女子でもある蓮見に見せたくなかった。

 それを察して藤岡が割って入る。

「実は楠本先輩は病気なの」

「え……」

「もう楽器を吹ける状態じゃないんだって。本当に残念だけど楠本先輩は今日で退部することになったから」

 驚愕、呆然、混乱、不安。

 さまざまな感情が混ざった視線が彼に向けられた。

「今まで黙っていてごめん」

「楠本先輩……」

 その蓮見のつぶやきに、楠本は頬を緩めた。

「初めて名前で呼んでくれたね」

 彼は気にもとめたことがなかったが、これまで蓮見に名前を呼ばれたことがなかった。

 部活を辞める直前になって名前を呼ばれる。それは楠本が先輩として認められたかのようだった。楠本先輩、いい響きじゃないか。

 降りやんでいた涙が楠本の頬を伝っていた。

 本当はここで終わりにしたくはない。せっかくここまできたんだ。あと少しで定期演奏会なんだ。もう少しだけ続けたっていいじゃないか。これまで彼はつらい思いをしながらも吹奏楽部に貢献してきた。そのくらいのわがままは許されたっていいじゃないか。

 だけども楠本はここで辞めなければならない。この吹奏楽部内に漂うギスギスした雰囲気を彼は特攻によってこの世代で断ち切らなければならない。

 後に続く後輩たちのため。

 そして誰よりも蓮見のために。

 二年後の蓮見が悪い空気の中で引退を迎えないためにも。

 未来の蓮見が笑っていられるのであれば、楠本はなんだってできる。

「蓮見さん、実は俺、病気なんだ」

「楠本先輩、そんなの聞いてませんよ!」

「ごめん。知られたくなかった」

「何考えてるんですか!」

 蓮見は怒りを露わにした。

 今にも楠本に食いつきそうな勢いだ。やや引いたようにはにかむ普段の彼女の面影はない。病気というのは一連の事件を誤魔化すために藤岡がついてくれた嘘であるが、それを信じている彼女は自分が楠本に隠し事をされたと思い怒っているのだろう。せめてそれとなく相談してくれても良かったのにと思っているのだろう。楠本だって逆の立場だったらそう考える。自分は裏切られたんだ、と。

「いきなり一人で演奏しろって言うんですか!」

「蓮見、落ち着いて」

 いまにも楠本に飛び掛かかりそうな蓮見に藤岡が二人の間に割って入った。

「音楽は中学校の部活だけでしかできないわけじゃない。小さいころからピアノを習っている蓮見なら分かるでしょ?」

「嫌ですよ、いきなり一人だなんて……」

 しかし彼女の怒りは裏切りに対するものではなかった。

 これから独り立ちしないといけない不安。明日から突然先輩がいなくなるという寂しさ。すぐそこに迫った大舞台にいきなり一人だけで臨まないといけないという動揺。

 蓮見は涙を浮かべた。

「楠本先輩はちゃんと病気を治してもう一度音楽を再開してくれるから。その時はチューバじゃないかもしれない。蓮見の前に姿を見せないかもしれない。だけどきっとどこかでもう一度楽器を吹いているはずだから」

 チューバじゃないかもしれない、か。

 それは難しいだろう。

 二年と数カ月の間で楠本はチューバの虜になっていた。チューバの魔物に憑りつかれた彼はもはやその魅力から逃れることはできない。なによりもこの楽器をやっていたことで蓮見と出会えたんだ。いまさら他の楽器に転向するなんて想像もできない。

「だから先輩を信じて送り出してあげて」

いつの間にか蓮見も涙を流していた。

 蓮見と出会って約七カ月。二人で共にした時間は楠本にとってかけがえのないものになっていた。それは彼女にとっても同じだろう。師弟関係という単語だけでは表せない、それを超越した特別な関係。どんなステージも二人で乗り越えてきたのだから。

 二人はともに涙を流す。

 彼も彼女も互いに依存していたのだ。

「先生、もしも俺がもう一度吹奏楽の世界に戻ってくることができたら、もう一度指揮を振ってくれますか?」

「もちろん。転勤先にも遊びに来てもいい。いつまでも待っている」

「その時は自前のチューバを持っていきます」

 大人になってもいつかはチューバを再開する。それは楠本の決意表明だった。

「そうだ、蓮見さんに最後のプレゼント」

 楠本はそう言って低音パートの棚から自分のファイルを取り出した。

 彼が一年生の時に菱川から貰った青いファイル。数百円しかしない安物だが入部したときから今までずっと共にしてきた大事なものだ。

 ページをパラパラとめくり、そして一枚の楽譜を取り出した。

「これをあげる。俺の形見」

 楠本が手書きした『韃靼人の踊り』のチューバソロの楽譜。最後にもう一歩だけ前進と練習したが、それを披露する機会がなくなった彼の集大成。

 この旋律が聴衆の耳に届くことはない。楠本の最後の雄姿だって誰の目にも映らない。それを知っているのは一緒に練習した部員たちだけ。

 そんな最後の楽譜を蓮見に譲る。

 別に彼女の最後のソロでこれを吹いてほしいというわけではない。

楠本という部員がいたことを彼女だけでも覚えておいて欲しい。この楽譜が彼女の心のどこかに残るのであればそれで充分だ。

 それは彼が先輩として彼女に託す、最後の贈り物。

「蓮見さん、後は頼んだよ」

 その言葉を最後に、楠本は盃を叩き割ってこの世界を去っていった。

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