第14話
シンフォニエッタの本格的な練習が始まり二週間後の土曜日。
いつものように朝八時に朝礼が始まった。今日は前から予定されていたオーケストラに所属するプロのホルン奏者である栗野との初めての合奏の日でもあった。
「午前中は普段通り個人練習とパート練習。午後は一時から四時まで『ホルンの為のロンド』を徹底的に合奏。先週言っていたとおり今日は埼玉から栗野先輩がいらっしゃるからね。今日のために栗野先輩はわざわざ埼玉から来てくださるんだから気を引き締めて合奏に臨むように。それから四時から六時まで先生と栗野先輩は音楽室でホルン独奏曲の練習をするから、その間は他の教室でパート練習。鍵は午後に持ってくるから」
それじゃあ練習を始めて。起立、ありがとうございました。
そのいつものセリフと号令で朝礼は終わり個人練習が始まった。
楠本は朝礼前から練習を始めていたがもう一度最初から基礎練習をやり直す。マウスピースだけで音を出すバズィングから始まり念入りなロングトーン。常用音域を超えて限界の音まで上がり、今度は下がっていき低音域の限界に挑戦する。複数のパターンのアーティキュレーションやインターバルを終えて数曲の短い練習曲。蓮見も同じペースで進んでいき、二人の基礎練習が終わるのはほぼ同時だった。
パート練習では役割を交替しながらコラールのようなハーモニー練習を中心に、特に重要な基礎練習を抜き出して一緒に吹奏する。
「おう、楠本と蓮見。遊びに来たぞ」
「こんにちは」
最後に短い二重奏の練習曲をやっていたら宗太郎が自前のチューバを抱えてやってきた。そして彼に続いてチューバを抱えた女性が入ってきた。初めて見る女性だがどこかで見た記憶がある。彼女は「わぁ~懐かしい~」と昔を回顧していた。
楠本と蓮見は挨拶を返すと上手側に大きく座席を移動して二人分の座席分の空間をあける。宗太郎は自分の家かのように慣れた手つきで二人分の椅子と譜面台を用意した。
「初めまして。稲葉です」
「俺の先輩。偶然再会したから連れてきた。こう見えて三十六歳だ」
稲葉と名乗った女性がしれっと宗太郎の足をかかとで踏みつけたのを楠本は見逃さなかった。
廊下にある集合写真だ。どこかで見たことがあると思ったら廊下に飾ってあるコンクール直後の集合写真だった。まだ幼さが残る宗太郎の隣に移っていた女子部員。そう気づいてみればどこか面影が見える。
「いまは延岡市の社会人楽団で吹いているんだって」
「本当ですか」
「言っておくけど私そんなにすごくないからね? 数年前に再開しただけだし楽団にもっとうまいチューバが二人いるし」
「それでも社会人楽団ってすごいですよ」
社会人楽団といってもアマチュアには変わりないが楠本から見たらプロ同然だった。去年日向市の社会人吹奏楽団がスーパーの駐車場でゲリラ演奏会をした際にゲストとしてここの吹奏楽部が招かれたことがあったが演奏技術の高さに圧倒された。譜読み、表現、音量に音圧。どれをとっても楠本が勝てる要素がなかった。社会人となると学生のように毎日練習することは難しいだろう。一体いつどこでどれだけ練習することでこのようなレベルになるのだろうか。
「さて楠本と蓮見、この楽器を見て何か思うことはあるか?」
宗太郎が稲葉のチューバを示した。
蓮見も違いに気づいたようだ。それを回答したのは蓮見だった。
「ロータリーが五つあります」
「そうだな。この楽器は
楠本がこの機種を生で見るのは初めてだった。そもそも彼は
「この機種はネットで見たことがありましたけど、実物を見るのは初めてです」
「俺もだ。実物は初めてだ」
ぴょこりと飛び出した第五抜差管が特徴的で可愛らしい楽器だ。楠本以上に宗太郎が興奮している。
「この楽器ってルディっぽいっすよね」
「ルディって何?」
稲葉は首を傾げた。
おそらく楽器メーカーのことだろうが楠本はルディなんてものは聞いたことがなかった。彼が知らないだけかもしれないが。
「ドイツのディースペックにあるルド●フマインルっすよ」
「ごめん分からない」
「ほら、ニュルンベルクの近くの」
「……宗太郎君ってすっかり変わったね」
「ルディといえばカイザーに興味があるんっすよね。五十六センチの超デカベルの。だけどあのメーカーの情報が少なくて価格が分からないんすよ。見た限り確実に三百五十万以上は必要になりそうだな。それよりもどちらかといえば同じくドイツのアレキカイザー。四十五センチのエクストララージサイズベル。あれがちょうど鳴らしやすそうだ。アレキならばイエローブラスに五番バルブ増設のラッカー仕上げにしても定価は二百六十万とちょっと。ゴールドブラスもいいがやはりイエローがいいな。二百万もあればニルのベビーが買えてお釣りが返ってくるが俺はロータリーのほうが好きだ」
最初は稲葉に話していたのだろうが途中から完全に独り言となっていた。もはや稲葉も聞く気が失せていた。楠本は宗太郎に聴かれないように彼女にそっと聴いてみた。もっとも今の彼に周りの声は聞こえないかもしれないが。
「稲葉先輩。宗太郎さんって昔もこんな感じだったんですか?」
「う~ん、昔はもっとバカだったと思うんだけど」
「今は自衛隊の幹部らしいですよ? 3等陸佐だそうで」
「あれでよく防衛大に受かったよね。日本は大丈夫かな?」
なかなかの言いようである。
この女性、清楚に見えてけっこうズバズバと物申すタイプなのだろうか。
「でもオタクなのは変わってないかな」
「たしかに凝り性ですよね」
独り言に満足したのだろう。宗太郎の意識は戻ってきたかと思うと自身のチューバを稲葉へと差し出した。
「先輩、俺の
「もちろんいいけど」
「あざっす!」
宗太郎は自分のマウスピースを稲葉のチューバに差し込み、座席に座ってスマホの操作を始めた。
それに感激したのか宗太郎はマウスピースから口を離し、陽気なアメリカ人のように「フゥーーーーーーッ」と奇声をあげた。それに驚いて周りの部員たちがぎょっと振り向く。悲鳴をあげた部員もいた。大先輩が振りまいた迷惑に楠本が申し訳ない気持ちになった。
「ごめん、やっぱり根っこはバカのままだ」
楠本は苦笑いするしかなかった。宗太郎に対する楠本の評価は「ちょっとオタクなところがある普通の三十代男性」であったが、今の彼を前にしてそれを否定するということはできない。苦笑いしているのは蓮見も同じだった。
「楠本、お前も大人になったら自分のチューバが欲しくなると思う。言っておくが日本製ほど高性能な楽器はないぞ。部品が手に入りやすいから整備性が高い。音色もしっかりしているし音程は世界一だ。そして安い。音色はいいが音程がひどい外国製を買うか、それとも音色も音程も最高な日本製を買うか。やはり日本人が使うんだったら日本製だな。日本の楽器は日本一だ」
さっきドイツ製が欲しいと言っていたのはどこのどいつだろうか。さっきの独り言を彼に聞かせてやりたかった。
午前中の練習が終わり、宗太郎は昼飯を買ってくるといって車で近くのコンビニへと向かった。稲葉は蓮見と一緒に弁当を食べている。楠本もいつもの場所で一人弁当を食べて歯磨きを終え、音楽室へと戻ってきた。定期演奏会までの残り時間は長くない。休憩しているより少しでも練習しておきたかった。
多くの部員はちゃんとしたテーブルが置いてある隣の被服準備室で昼食を食べている。この時間帯の音楽室はがらりとしていた。
さて始めるか。楠本は準備室から再び取り出したチューバを構えて基礎練習を始めた。ロングトーンに始まり離れた音を往復するインターバル。そして完全に丸暗記しているアルルの女のファランドール。この短いソロ曲を吹けるのもあと一か月ほどか。
「あら、懐かしいわね。チューバのファランドール」
音楽室に入ってきた女性はベルカットモデルのホルンケースを持っていた。赤くつやつやしたそのケースは独特な形状をしていて、見るからに高そうな代物だった。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
楠本はその女性に見覚えがあった。先月の始めにネットで調べた、黒いワンピースで写真に写っていた人だ。
「もしかして栗野先輩ですか?」
「そうよ。栗野鳴海」
「初めまして。楠本拓海です」
「名前が似てるわね」
栗野は楠本の隣に並べられた座席をちらりと見た。そして音楽室全体を見まわした。座席の配置に疑問を感じたのだ。
「ユーフォ……じゃないよね。今ってこんなにチューバが多いの?」
「いえ、今日は宗太郎さんたちが来てるので」
「あいつも?」
彼女の眉間にぴくりと皺が走った。一瞬見えたその表情は何か宗太郎を拒絶しているかのようだった。デリカシーがない彼のことだ。きっと栗野になにかしたに違いない。宗太郎と違ってデリカシーを持っている楠本はそのことに触れなかった。
「それで宗太郎は?」
「弁当を買いに行ってます」
「ふぅん。それにしてもここのチューバは上手くなったわね」
「そうですか?」
「私たちのころはもっと酷かったわ。一つ上のやつがね」
「それって宗太郎さんのことですよね」
「もちろん」
なかなかの言いようであった。彼の後輩であるはずの栗野にこれほどまで言われるとは一体宗太郎はどれだけ酷いことをやらかしたのだろうか。
「宗太郎ってバカでしょ」
「……まぁノーコメントで」
「ということは肯定だね」
「否定はできません」
どうやら宗太郎の周りの人による評価はすべて一致しているようだ。少し表現を緩くするならば変わった人。弁護するならば彼は特定の分野に精通していて、ただそれ以外の部分が悪目立ちしているだけだ。
「楠本君、って言ったっけ? 部活は楽しい?」
「……チューバは楽しいです」
それは楠本の本心だった。曲の間からちらりと聞こえる地を這う重低音。それこそがチューバの魅力であり楽しさがそれだ。しかし部活が楽しいと答えることはできなかった。ここの部活内での彼の立ち位置、扱い、息苦しさ。その苦痛を楽しいと思えるほど強くはないことを楠本は自覚していた。
栗野はそんな彼を察したのだろう。
「プロじゃないんだから無理に上手くなろうと思わないでいいのよ」
「いいんですか?」
「そう、いいの。まずは音楽を楽しむこと。それさえできていれば技術や評価は後からついてくるから」
音楽を楽しむ。それは楠本が長い間忘れていた感覚だった。いつからだろう。たしか一年生のころはその感情を持っていた。菱川とともにチューバを吹く時間が幸せだった。
しかしそれを指摘されたからといって再び音楽を楽しもうとは思えなかった。楽しめる自信がなかった。はたして自分がそのような感情をもって良いのだろうか。
もうあの頃には戻れない。
「ここの吹奏楽部にだってファンはいるんだから自信をもって」
「それって栗野先輩のことですか」
「後輩たちが可愛くないわけないじゃない」
彼女が今回定期演奏会に客演してくれることになったのは彼女自身が出演したいと思ったからだろうか。自分が愛好する吹奏楽部で後輩たちと共に演奏するために。藤岡から出演を打診したのではなく、栗野のほうから出演させてくれと交渉したのだろうか。
「それに私だけじゃない。地域にもたくさんいるよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。私がいた暗黒時代にもファンはいた。しかもとびっきりの大ファンがね」
コンクールの二日前に藤岡が教えてくれた。吹奏楽部になんの関係もないのにコンクールや定期演奏会の前に寄付金を持ってきてくれる人々がいることを。ファンとはきっとその人たちのことだろう。それだけじゃない。定期演奏会のポスターを貼らせてくれたりパンフレットにお金を出してまで広告を出してくれたりするお店や事業所。楽器の音に苦情を入れずに活動を支持してくれる近所の住民。みんな赤岩中学校吹奏楽部のファンなのだ。
「私は銅賞の演奏だって感動する。どんな演奏にも味があるんだから」
審査員なんて私には務まらないだろうねぇ。と栗野は笑う。
今年の吹奏楽部は壮行会で醜態をさらしてコンクールでも不評で銅賞だった。最初の評価がマイナスだった分、文化祭では多少の盛り上がりをみせたがそれでも楠本は納得できなかった。
こんな弱小吹奏楽部でも、自信のない楠本でも誰かを感動させることができるのだろうか。
「おう、栗ちゃん来たか」
コンビニの袋を提げた宗太郎が相変わらずぐいぐいとやってきた。少し遅れて他のチューバ奏者たちが戻ってきた。
ここにいる全員と面識がある彼がそれぞれの紹介をしてくれる。
「栗ちゃん、この二人が現役部員の楠本と蓮見」
蓮見がぺこりと会釈をする。さっき挨拶をしたばかりだが楠本を再び頭を下げた。
「この人が俺の一つ前のチューバの稲葉先輩。栗ちゃんとは入れ違いだ。だからあと四年で四十歳になる」
パーンと稲葉が宗太郎の尻をひっぱたいた。
「そして先輩、こいつが俺の彼女になることができなかった一つ後輩の栗野です」
「ふざけんな!」
優しかったはずの栗野が叫んだ。
「おいおい、俺のことが好きだっただろ?」
「うぬぼれんなこのバカ!」
「このツンデレさんめ」
宗太郎は栗野の額をつんとつついた。もしそんなことを楠本が蒲生にしたら確実にビンタが飛んでくるだろう。それほど普通の男にはできないような行為だった。どうりで宗太郎の名前を聞いた栗野は眉間にしわを寄せたわけだ。栗野は宗太郎を引っぱたくことはなかったが、ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人はまるで中高生のときに戻っているように見えた。
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