第13話

 二週間前の体育大会はあっという間に終わってしまった。それは吹奏楽部の本番の日であるが、入場退場と表彰式のBGMを演奏するだけだから。脇役を務めるのもたまにはいいけれどもやはり舞台に立つほうが楽しい。

 そして今日は待ちに待った文化祭の日。

「それでは吹奏楽部の皆さん、準備をお願いします」

 司会者のそのアナウンスによって体育館のところどころから部員たちが立ち上がる。部員たちは朝早くに集合して椅子と譜面台を合奏隊形に整えてリハーサルを行い、その後は文化祭の出番がやってくるまで各クラスで行動を共にしていたのだ。

 楠本は舞台脇に掛けられた階段を上って配置についた。しばらくして蓮見も到着した。今回の本番は金管楽器は舞台上、木管楽器とパーカッションは舞台下という形態になっている。

 二人はポケットからマウスピースを取り出してチューバに装着した。楽器は温度によってピッチが変化する。リハーサルから本番までどうしてもコンクール以上に待ち時間がある今回は楽器が冷えるのは仕方ないが、せめてマウスピースは冷えないように人肌で温めていたのだ。

「それじゃあ音出しを始めて」という藤岡の号令で各楽器が音出しを始めた。本番が始まるのが約二分後。それまでに可能な限り楽器を温めて自身のウォーミングアップも済ます。残り時間が少なくなったころにチューニングを開始。そして藤岡の指示により全体でのチューニング。それも完了。

楽器の音は止み、藤岡は観客たちへと振り返った。

 事前にマイクを渡されていた小柳がその場に起立し、部長として演奏前のスピーチをする。

「吹奏楽部です。八月に行われた宮崎県吹奏楽コンクールは銅賞に終わってしまいました。その反省を次に活かし、十月の定期演奏会ではさらに素晴らしい演奏ができるように日々練習に励んでいます。今回は皆さんの誰もが知っている曲を二つ演奏します。それではお聴きください」

 小柳はあえて曲目を紹介しなかった。事前に紹介されるのはそれはそれでいいが、今回はサプライズ的な演出をしたかったのだろう。

 藤岡が部員たちに振り返り指揮棒を振り上げた。それによって演奏が始まる。一曲目のルパ●三世では自然と手拍子が巻き起こりサックスのソロには盛大な拍手が送られて、二曲目のジャ●ーズではイントロが終わると同時に女子生徒たちの黄色い悲鳴が空間を切り裂いた。

 今回の本番は観客たちからそこそこの好評を貰えたと楠本は感じた。前回の壮行会で大きな失敗を披露した二か月後に今回の普段通りの演奏。コンクールで金賞を獲るような強いところには到底及ばないが、元から期待値が下がっていた吹奏楽部が普通の演奏をしたら誰だって上達したと感じるだろう。本当は上達したのではなく普段に戻っただけであるけれども。


 秋の暗い曇り空。

 校内にはわずかな倦怠感が漂っている。それは先日の文化祭が終わった安堵によるものなのか、それとも雨が降り出しそうな今日の天気によるものなのか。

 その倦怠感に混ざった浮ついた空気。それは昨日の文化祭の名残だろう。文化祭が終了したからといってすぐに気持ちを切り替えられないのは人間の性だ。今回の行事のために各学級、各部活動に課された課題を達成し、何かがひとつ成長できた。それで彼らの心は満たされている。時にその浮ついた心は慢心を引き起こすが、今日ぐらいはその余韻に浸ってもよいだろう。それに加え今日は金曜日。休みを目前にして浮足立つのは仕方がない。

 校内の変化に気づきながらも楠本は職員室で鍵を借りて音楽室に一番乗りしていた。文化祭という本番が終わったが、一か月後には定期演奏会が控えている。会場も披露する楽曲数も比べ物にならないほど大きな本番だ。

「今日は金曜だから蓮見さんは休みだな」

 廊下の定位置に荷物を置いた楠本はそう呟きながら音楽準備室の鍵を開けた。慣れた手つきでチューバケースを倒して中身を取り出す。パートの棚からクリアファイルとスケッチブックを取り出して音楽室の定位置に向かった。

 今日は金曜日だ。明日の練習に備えて帰りには机をすべて廊下に出して椅子を一か所にまとめて合奏隊形を作らなければならない。それはこれまでに何十回と繰り返してきた作業だ。しかし楠本が引退するまでにこの作業は数回しかできない。入部したてで初めてこれを指示されたときは戸惑いながら運んだんだっけ。ただの肉体労働でしかないが、彼にとってそれは金曜日の練習の風物詩とも思えた。

 音楽室のステージのいつもの場所に一人分の椅子と譜面台を設置する。そして黒板に「欠席」「遅刻」「早退」のカードを張り、「欠席」のカードの下に「蓮見 習い事」と書いておいた。この作業も彼女が入部してから何回も繰り返してきたものだ。

 ロングトーンやインターバルが終わり基礎練習も中盤に差し掛かると周囲から他の楽器の音が聴こえてきた。他の部員たちが到着して彼女たちも練習を始めたのだ。文化祭で本番が終わったとはいえすぐ後に定期演奏会が控えている。練習をおろそかにするわけにはいかないのだ。

 スケールが終わり『アルルの女』の『ファランドール』や『動物の謝肉祭』の『象』といった短い練習曲。最後に再びロングトーンでピッチの練習をしようとしたところでなぜか集合がかかった。いつもは部長である小柳がその号令をかけるところを今日はなぜか荻野が集合をかけていた。

 先日の文化祭の反省会でもするのだろうか。楠本は疑問に思いながらもチューバをピアノの側板に当てていつものミーティングの定位置についた。隣の被服室からも部員たちが基礎練習を中断してぞろぞろと入室してくる。全員が席についたところで荻野が口を開いた。

「昨日の文化祭はお疲れ様でした」

 お疲れ様でーす。と部員たちがまばらに返事する。

「せっかく昨日本番が一つ終わったので今日は休息日にしたいと思います」

 音楽室がざわめく。いったい荻野は何を考えているのだ。確かに昨日で一つの本番が終わったがすぐ後に定期演奏会が控えている。その演奏会の準備にどれだけの労力が必要になるのか、三年生である二人は知っているはずだ。

 今日の部活を休みにするという意見に楠本は断固反対だった。もしこのまま休みになったとしても彼は残って自主練習をするつもりだった。それほどまでチューバを吹いていたい。

「部長権限、副部長権限で今日は休みにするので、このあとすぐに楽器を片付けて帰ってください」

「あ、でもノーサウンドは残れよ。お前が一番下手くそなんだから」

「いや、あいつも帰らせて二度と部活に来させなければいいんじゃね? いないほうがいいんだから」

 小柳と荻野は壇上でゲラゲラと下品に笑う。彼らは後輩たち全員に見られていても楠本に対する接し方を変えないようだ。その徹底ぶりには何かの意思を感じるが、それを見ている後輩たちは気分が良いものではないだろう。数人が不快な顔をしていた。

「ごめーん! 終礼長引いて遅れたー!」

 蒲生が教室に飛び込んできた。彼女が被服室の前を通った時にそこが無人だったことで何かのミーティングが行われていると考えて慌てたのだろう。

「昨日の反省会?」

「違う。今日の部活は休みにするって話をしてた」

「はあ!?」

 彼女は驚いた。

 これまでの経験上、部活が急遽休みになるということはなかったから。藤岡が急な出張に出たとしても普段部活に顔を見せない副顧問が責任者を務めて続行していたからだ。

「それって顧問が言ってたの?」

「いや、俺と小柳で考えた」

 荻野が得意げな顔でそう答える。

「部活を休みにするなんて自分たちで考えて良い事じゃないじゃん!」

「書記が部活をするって言っても部長副部長が休みにするって言っているんだから多数決で休みだぞ?」

「こういうことって顧問が決めることでしょ!」

「部活って生徒の自主性で決めるものだろ?」

 小柳がそう得意げに答える。

 確かに生徒の自主性は求められるが、この問題はそういったレベルを超えている。高校生たちがそういう判断をするのであれば分かるが、楠本たちはまだ義務教育中の中学生だ。行動に責任をとれる年ではないと楠本は思う。彼らは部員たちのために部活を休みにするのではなく二人が休みたいから部活自体を休みにしようとしているのではないだろうか。

「もう知らない! 私は残るから!」

 蒲生は怒って音楽室を出て、隣の音楽準備室にホルンを取りに行った。

 それを尻尾を巻いて逃げたと捉えたのか、小柳と荻野は今日の部活を休みにすることを勝ち誇ったように宣言してこの集会をお開きにした。

 さて、練習の続きだ。楠本はいつもの定位置に戻ってチューバを膝に乗せる。部活が休みになろうが彼には関係なかった。彼らの判断を支持しない。そう言った意味もあった。

 さっきの集会で楽器が冷えてしまった。もう一度温めるためにロングトーンをするが蒲生の事が気がかりで集中ができなかった。楠本は楽器を置いて隣の音楽準備室へと向かった。

「蒲生さん大丈夫?」

 彼女はそこでホルンを吹いていた。

「楠本は残るの?」

「もちろん。次は定期演奏会が待っているから」

「そうよね」

 ぱっと彼女の表情が明るくなった。

「ホルンパートのみんなは?」

「今日は帰した。私の争いに巻き込みたくないし、後輩があいつらと揉めても困るから」

 パートリーダー権限を使っちゃった。と彼女はイタズラな笑みをこぼした。その権限行使は後輩たちを守るためのものであり良い使い方だ。

「いい判断だと思うよ」

「楠本のところは?」

「蓮見さんは今日はピアノ教室があるから来てないよ」

「そういえばそうだったね」

 もし楠本が蒲生と同じ状況であれば彼女と同じ判断をしたと思うが、それでも蓮見は帰らなかっただろう。なんだか彼女ならそんな行動をすると思う。

「じゃあ俺は練習に戻るよ」

「分かった。あとで合同練習でそっちに行くから」

 楠本は音楽準備室を出てチューバの元へ向かった。


「今日は少ないね」

 楠本の背後で突然声がした。

 そこにいたのは普段平日の部活では顔を見せない藤岡だった。彼女は手にしていた総譜をグランドピアノの屋根に置きながら楠本に問いかけた。

「みんな用事あるの?」

「いえ、小柳と荻野が部活を休みにしたんです」

「はい~!?」

 藤岡は多少おどけてみせた。さすがに部員のほとんどが一斉に休むようなことはあり得ないと踏んでいたようだ。

「部長権限だそうです」

「そんな権限初めて聞いたよ」

 藤岡は呆れていた

 いくら部活の部長副部長であれ、中学生であることには変わりない。教師であり活動に関してすべての責任を負う顧問がすべての決定をするべきだ。

 緊急事態でもない状況で「天気が悪いから今日の部活は休み」と部長クラスが決定したことはこの吹奏楽部が始まって初めてのことかもしれない。

「こんなに部員が帰っているんだったら今日はもう休みにする……というのもなぁ。本番だって近いし、せっかく何人かは練習しているからなぁ」

 このまま休みにしたら小柳たちの言いなりみたいで嫌でしょ? と藤岡は楠本に問うてみた。楠本はチューバが吹きたかったから今日の部活にも参加しただけだが、もし藤岡が小柳たちの指示を追認して休みになったらそれこそ小柳たちの言いなりになっているみたいで嫌だった。

 藤岡はドアから体を乗り出し「集合~!」と声をかけた。やがて被服準備室で練習していた木管楽器群がやってきた。

 音楽室に集まったのは顧問の藤岡を筆頭にチューバの楠本、ホルンの蒲生。それとフルートとクラリネットが一人ずつ。全員が三年生。これが今日の活動メンバーだった。

「これじゃあ合奏もできないな」

 藤岡は両腕を組んで悩む。

「まずは大変だろうけど机を全部廊下に出して合奏隊形を作って」

 楠本はすっかり忘れていた。

 今日は金曜日だ。ということは明日の土曜は合奏練習がある。いつもは金曜の終わりのミーティング前に全部員二十五人で机と椅子を移動して準備をするのだが、今日は顧問を含めた五人でその作業をしないといけないのか。

 五分の一の労働力でそれをしないといけないと部員たちはうんざりしたが、それでも今日残った五人は全員がまじめな部員たちだった。誰もが文句を口にすることなく作業に取り掛かった。楠本もチューバが倒れないようにグランドピアノの側板に当てて作業に参加した。

 ほぼ全ての机を廊下に並べ、椅子を人数分配置し余ったものはステージの脇に。譜面台をそれぞれの椅子の前に置いて傾斜を調節する。頃合いを見て楠本は準備室からハーモニーディレクターとアンプを持ってきて指揮台の隣の机に置いてケーブルを接続した。いつもならばこの作業時間中にパーカッション類も準備するのだが、今日は誰もパーカッション担当が来ていない。楠本たちは打楽器の取り扱い方を知らなければどのような順番で並べるのかも分からない。下手に触って文句を言われるのは面倒だ。藤岡は明日の朝に担当者に準備させるように指示を出した。

 作業は二十分弱で完了。人数が少ないとはいえ中学生だ。元気が有り余っている。

「それじゃあ練習するか。全員楽器を置いてクラリネットの座席に集まって」

 何をするんだろう。楠本はチューバをグランドピアノに当てたまま指定された場所に向かった。蒲生とフルート担当者は自分たちの座席に、クラリネット担当は後ろのフルートの座席に楽器を置いて全員が集まった。

 椅子を少しずらして譜面台を伸ばして。立ったまま見やすいように。と藤岡は指示を出した。

「さて、歌いましょう」

「……ソルフェージュですか?」

「正解」

 ソルフェージュとは西洋音楽の基礎訓練だ。楽譜を見てそれを歌うという練習法。これを練習することによって正確な音を出す能力やその出した音が合っているかを聴き取る能力が向上する。楠本は一年生の頃の楽器別講習会でこれをやった覚えがあるが、練習するのはそれ以来だった。強豪校では常にやっているらしいが、ここの吹奏楽部ではやっていない。それにもいろいろ事情があるのだろう。

 藤岡は隣のハーモニーディレクターのスイッチをポチポチといじる。鍵盤をぽんぽんと叩くとB♭ベーの音がそれに合わせて鳴った。合奏や合唱の練習に特化した電子キーボードがこのハーモニーディレクターである。普通のキーボードであれば音程の調節はできないが、これであればそれができる。それによって綺麗な和音を作り出すことができるのだ。ここの赤岩中ではなぜか『ハモゲ』と略している。どこから『ゲ』が来たのだろう。楠本の長年の疑問だ。

「それじゃあまずB♭ベーDurデュアから」

 楠本にキューが飛んだ。彼はハモゲの音に合わせて歌う。その声を聞いて藤岡が親指を上げたり下げたりして調節する。

 一人ずつキューが飛んでいき、一巡すると次の音。一巡して次の音と進んでいった。やがて音階は終わり、次は和音の練習。

 そういえば入部したばかりの頃、菱川がピアノを使いながらマウスピースの吹き方を教えてくれたな。楠本はまだまだ未熟だった時のことを思い出していた。


 部活が終わったころには暗くなっていた空から雨が降り出していた。

「そういえば私、傘を持ってきていないのよね」

「今朝は晴れていたからね」

「親はまだ仕事だし……楠本はどうするの?」

「俺は折り畳み傘があるからね」

「そういえば私も鞄に入れていたかも」

 蒲生は昇降口の床にスクールバッグを降ろし、中身の物色を始めた。ガサゴソと中身を漁るが、目的の物は見つからなかったみたいだ。

「あ~、そういえば前に使ったときに家に置きっぱなしにしてたんだった」

 彼女はしっかりしているように見えるが、意外とずぼらなのかもしれない。

「俺の傘を使う?」

「そしたら楠本はどうするのよ」

「俺は濡れて帰るよ」

 楠本はバッグから黒い折り畳み傘を取り出し、蒲生へと差し出した。

 制服をずぶ濡れにして帰ったら祖母に怒られるかもしれないが、明日使う制服は予備がある。それに楠本の家には迎えに来てくれる人がいない。それ以外に帰る方法はないだろう。

「それは楠本の傘なんだから楠本が使うべきよ」

「別にいいから」

 彼は笑って傘を蒲生に押し付けると、彼女から逃げるように雨のなかに飛び込んだ。クスノキが植えられた坂道を下り校門を抜け、青々とした稲が生い茂る水田の中央に通された道を楠本は雨に濡れながら帰っていく。夕暮れの黒く湿った空は彼に覆いかぶさり、等間隔に並べられた送電塔が堂々とそびえたっていた。


「今日からこれに手を付けよう」

 合奏隊形が整えられた音楽室に入ってきた藤岡は昨日の練習参加率にチクリと小言を言った後、手にした総譜を譜面台に広げながら呟いた。

「いよいよこの時期が来たね。全員『シンフォニエッタ』を開いて」

 この楽曲の練習が始まるということは定期演奏会が近づいているという証拠。それは三年生の引退が近いということも意味していた。

 楠本はオレンジ色のスケッチブックに貼られたその楽譜を開いた。譜面には音符とともにさまざまな書き込みがされている。先日新たに配られたものではなく去年の演奏会で使ったものだ。シンフォニエッタの楽譜は手書きされているためところどころに書き間違いが存在している。二分音符の白抜きの符頭たまと八分音符の符尾はたが合体していたり、一小節に二分音符が二つしか入ることができないところに三つ入っていたり。それに加えて鉛筆書きの楽譜をコピーしているため全体的に掠れているのだ。

 そういえば蓮見にそのことを言っていなかったな。楠本はそれを思い出し、念のために足元に置いておいたスケッチブックを手に取り、シンフォニエッタのページを開いて彼女の譜面台に乗せた。彼が一年生のときに使ったものだ。今日は概要をつかむだけで細かい指示は出ないはずだ。今日の練習が終わったら楠本の譜面を見ながら自分の譜面を修正するように蓮見に伝えておこう。

「二、三年生にとってはお馴染みだね。その前にファーストトランペット。ファーストでもセカンドでもいいから主題を吹いて」

 指名を受けた荻野がトランペットに口をつけて意気揚々と演奏する。音の動きと高さからしておそらくファーストの譜面だ。

「一年生でこのメロディに聞き覚えがある人」

 荻野の演奏が終わると同時に藤岡は挙手を求めた。それに応えて一年生全員の手を挙げた。ここの部員は練習合間の空き時間や練習のウォーミングアップなどで無意識のうちにこの主題を吹いている。ここの部員にとっては音階を吹くようなものだ。おそらくそれで聞き覚えがあるのだろう。楠本も蓮見が見学に来た初日にこれを吹いてみせた。自主練習の時間で気分転換がてら吹いていたこともあった。

「この曲はここの吹奏楽部でもっとも大事なものだ。ここの部活の歴史と言っても問題ない。廊下に歴代の集合写真が飾ってあるけど、そこに写っている先輩たちは全員がこれを演奏している」

 コンクールの途中や終了後に撮影された記念写真。部活の創設時の写真は既に収納されているが、飾られているもので最も古い年代は一九九八年。ここの赤岩中吹奏楽部が初めて全国大会に出場し金賞を獲得した年だ。今は解体されてしまった吹奏楽の聖地、普門館のステージで演奏している大先輩たちが写真に収められている。茶色く変色したその写真を楠本は何度も眺めていた。

 吹奏楽の為のシンフォニエッタはその年に作曲された。つまり最盛期の大先輩たちから演奏が続いているのだ。廊下には楠本が写った今年のコンクールの写真も飾られている。その写真が茶色く変色する頃もきっとこのシンフォニエッタの演奏は続いているのだろう。

「シンフォニエッタのテーマは『先輩と後輩の繋がり』。中学校を卒業してそれぞれの道に進んだ先輩たちが定期演奏会に里帰りしてこれを演奏する」

 それは楠本たちの伝統であり自慢でありアイデンティティだった。楠本は他の中学校の定期演奏会を観に行ったこともあるがどこの学校も里帰り演奏というものはやっていなかった。日向市から外の世界を探してみれば似たようなものがある学校があるかもしれないが少なくとも日向市でこれをやっているのは赤岩中学校だけだった。

「いま使っている楽器のほとんどは先輩たちが使っていた楽器。そのまた先輩、さらにそのまた先輩も同じ楽器を使ってきた。今の吹奏楽部はここにいるメンバーだけで作ったんじゃない。これまでの歴代の先輩たちが築いてきたものの上に建っている。その伝統を認識して感謝して、そして次の世代に繋いでいくために毎年このシンフォニエッタを演奏している」

 藤岡が口にした『伝統』『感謝』『次の世代に繋いでいく』という単語。それはこの曲が演奏される直前のアナウンスに必ず入っている言葉だった。

「と、ここまで話したのはテンプレート。先輩から何を引き継いだか、後輩に何を残したいかはそれぞれ思いが異なるだろう。その解釈を演奏で表現してほしい」

 楠本は菱川に何を教わっただろうか。

 チューバの演奏技術。それだけじゃない。言葉で説明することはできないが、楽器の扱い方以上に大事なものを確かに教わった。それを蓮見にも伝えたい。言葉にすることができないから口で説明することはできないけれども、菱川が楠本に教えたように、楠本も蓮見に伝えることができるはずだ。

「三年生は半年、一年生だってあと二年半で中学校を卒業する。このシンフォニエッタに招待される立場になるんだ。もちろん必ず戻ってこいとは言わない。吹きたくなかったら参加しなくてもいい。だけど戻りたいと思ったらいつでも帰ってきていいんだ。ここはみんなの故郷なんだから」

「それじゃあやるか、今年一発目のシンフォニエッタ」

 藤岡が指揮棒を掲げ、終わりの日までのカウントダウンが始まった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る