第12話

「今日進路面談が入っているやつはちゃんと残れよ? よし、これで終礼は終わり」

「起立」

「ちょっと待った」

 クラスが帰りのムードに切り替わっていた中、日直の号令を葛城が止めた。彼は手元のクリップボードを眺めたのちに口を開いた。

「……そういえば今日面談するやつが一人休んでいたな……よし、今日は楠本も残れ」

「はい」

 今日は音楽室に一番乗りできそうにない。いや、後から追加された生徒ということで面談の順番は最後かもしれない。今回面談を受けるのは楠本を除いて三人。一人に十分を費やしたとして待ち時間は三十分。その間にでも部活に行って基礎練習をこなしておこうか。

「はい、日直号令」

「起立、礼」

 クラス全員による「ありがとうございました」の大合唱。礼から頭を上げると同時に学級内の空気は緩んで一斉に下校ムードだ。一学期までは部活モードの空気が漂ったのが今となってはまだ日は高いのに夕暮れの切なくともホッとしたような浮遊感。こんなシーンにはドヴォルザークの交響曲第九番『新世界より』の第二楽章が似合うのだろう。

「よし、面談を受ける生徒は全員残っているな……楠本を除けば全員部活引退組だな。悪いが楠本はこの後に部活があるから楠本を先に面談してもいいか?」

「大丈夫です」と教室のところどころから声が上がる。

「楠本、空き教室に行くぞ」

「あ、先生。ちょっと待ってください」

 楠本は荻野を探す。彼は教室の前の席で鞄に教科書を詰めているところだった。

「荻野君、俺、今日面談が入ったから部活には遅れるって伝えておいて」

「………………」

 そう伝えるが荻野は返事をしなかった。

「頼んだよ」

「………………」

 再び声を掛けても応答はない。

「荻野、急遽楠本も進路面談をすることになったから部活で伝えておいてくれ」

「分かりました」

 返事を返さなかった荻野にしびれを切らしたのか、葛城がそう伝言を頼んでくれた。その問いかけに彼は普通に返事をした。

 自分のことが嫌いなのかもしれないが部活の業務連絡ぐらいはきちんとしてほしい。仮にも吹奏楽部の副部長なのだから。楠本はそう思ったが葛城からそう言ってくれたのだ。いまさら掘り返すことをするつもりがなければ何かを言ったところで再び無視を決め込むだろう。いくら荻野とはいえ担任からの依頼を無視するとは思えず、楠本は葛城とともに空き教室へと向かった。


「楠本、志望校は変わらずか?」

「はい、家鴨ヶ丘高校の商業科を受けようと思います」

「そうか。楠本の成績ならば今のところ問題はないだろう。ただ勉強はしっかり続けるんだぞ?」

「もちろんです」

 家鴨ヶ丘高校。それは日向市中心部にある日向市駅から東口に出て、日向警察署を通過し国道十号線を渡ったその先。家鴨町にある商業高校だ。

「家鴨ヶ丘って確か吹奏楽部が九州大会に行っただろ?」

「そうですね。今年は全国には行けなかったみたいですけど、かなり強いところです」

「ということは高校でも吹奏楽を続けるのか?」

「いえ、高校では別のことをやってみようかなと」

「そうか、それは残念なのか良いことなのか」

 仮に吹奏楽部に入ったとしても練習に着いていける自信がなかった。これが全国大会の常連校になると入部のためのオーディションが行われているという。志望校がそれをやっているかは知らないが、それがなかったとしても何だか入部を断られそうな気がした。

「高校で別のことに挑戦するのもいいだろう」

 再び空手をやってみようか。

 それとも頭を丸めて甲子園を目指すというのも面白いかもしれない。野球未経験者の楠本が入部できるかどうかはわからないが。

「ところで楠本。最近部活のほうはどうなんだ?」

「前と同じです。ノーサウンドって言われていますし、弁当だっていつも一人です」

「そうか。何か先生にしてほしいことはあるか? もちろん楠本の意思を優先する。現状維持をしたいのであればその通りに先生たちは動く」

 葛城は両腕を組んで机に乗せて唸った。中学生用の机と椅子を使う彼の姿はいつ見ても窮屈そうだ。むしろ担任の身体がデカいだけなのか。

「ありがとうございます。でもこれまで通りで大丈夫です」

「本当に?」

「はい。実は吹奏楽部でやらないといけないことがこの前のコンクールで見つかったので」

「そうか。その「やらないといけないこと」とは?」

「後輩を独り立ちさせないといけないんです。一学期はコンクールを最後に引退するって思っていましたけど、いざ終わってみると後輩を一人にしておけないなって」

 言っていて照れ臭かった。藤岡に話したときは平気だったはずなのに葛城だとなぜか恥ずかしいことを言っている気がした。

「まぁ頑張れや。苦労はいろんな形になって自分の役に立つものだから」

「はい。ありがとうございます」

 楠本は礼を述べると空き教室を退出し、一度教室に戻って荷物を取って音楽室へと向かった。


 音楽室のあるフロアに到着。廊下に荷物を置くとチューバの元へと一直線。途中で音楽室をちらりと除くと蓮見が独りで練習していた。彼女も立派になったものだ。その姿に楠本は嬉しくなるとともに楠本から今にも独り立ちしそうで少し寂しい気もした。

 彼は音楽準備室でチューバを取り出した。まずは楽器をいつもの練習場所に運搬。そして戻ってきて楽譜類とメトロノーム内蔵のチューナーと排水用の雑巾を運ぶという計画だ。一度に運べないこともないが動きづらいし落としたら面倒だ。落下したものが楽譜類ならばまだしもプラスティックでできているチューナーをよりによってベルに落としでもしたら……楽器が凹んでしまうし楠本も凹んでしまう。無理は禁物だ。

「おいノーサウンド!」

 音楽準備室を出たばかりの彼を呼び止めたのはいつものメンツだった。

 小柳が怒鳴り散らす。

「お前部活に来るのが遅せぇんだよ!」

「進路面談で遅れるって荻野君に伝えたんだけど」

「俺はそんなこと聞いていない。それはノーサウンドの妄想だ」

 荻野はにやにやとそう答える。

「葛城先生もそう言っていたよね?」

「知らないなぁ~」

 彼らはゲラゲラと楠本をあざ笑う。

「進路面談なんてただの言い訳だ!」

「終礼終わったらすぐ部活に来いって言ってるだろ!」

 いつも真っ先に楠本が部活を始めていることを彼らは知らないのだろうか。それともそれをなかったことにしたいのだろうか。

「進路に関することって立派な理由じゃないの?」

「ガタガタうぜぇんだよ! このピラミッドの底辺が!」

 楠本が折れないことに痺れを切らしたのだろう。荻野が拳を振りかざして楠本に襲い掛かった。しかし楠本は右手でチューバを抱えている。急激な動作で回避することはできない。彼にできることは楽器がダメージを受けないように体を盾にすることだけ。

 痛みに備えて体をこわばらせる。しかし打撃がやってくる前に突然影が二人の間に割って入ってきた。

「俺がマトモだと思うなよ?」

 宗太郎だった。

 彼が荻野の腕を受け止めると同時に関節技をかけて床に張り倒し、ドスの利いた声で威圧していた。

「人を殴りたいんだったら俺が相手をしてやる」

 彼の声には怒りや殺気はなかった。

 それは気迫がないというわけではない。人間ならば誰もが持っている気配がまるで空気と同化しているかのようだった。

「ほら、楽器の練習をしてこい」

 宗太郎は掴んでいる荻野の腕を引っ張り上げて立たせると荻野に本来の活動に戻るように促す。格闘戦に敗れた荻野は不服そうな表情でその場を去っていった。同じ空間にいた小柳も投げられる前にとそそくさと逃げて行った。

「楠本、楽器は無事か?」

「俺の心配じゃないんですね」

「人間の怪我は治る」

 彼はなかなかに鬼畜だ。

 しかしその考えは同じ楽器を嗜む者として賛同できる。

チューバに限らず楽器は繊細なもの。少しのへこみやゆがみによって吹奏感が変わり、場合によっては正しい音が出なくなる。機関部を損傷するようなことがあれば修理するよりも買いなおしたほうが安いが、長い時間を共にした楽器を手放すというのは演奏者にとってはかなり辛いことだ。

 それに加えて学校の吹奏楽部はどこも予算が限られている。それはトランペットやクラリネットのような花形楽器に優先的に使用される。どうしてもチューバに予算を充てるのは後回しになってしまう。ここの部活にはないが予算がかなり厳しい学校ではベコベコに凹んだ管を放置どころか、穴が開いて息が漏れる箇所をガムテープでぐるぐる巻きにしたチューバをコンクールでも使っているほど。大事な本番でそういう楽器を使わざるを得ないほど切羽詰まっているところに比べると赤岩中はまだ恵まれた方だが、それでもチューバの修理に充てるほどのゆとりはないことは薄々と感じていた。

 チューバの修理代よりも楠本の病院代のほうが安いという経済的な思考もあったが、なによりも中学生とはいえ楠本はアマチュアチューバ奏者の端くれだ。そのプライドもあって楽器を傷つけたくないというのが大きかった。

「宗太郎さん、そこにいるって気づきませんでしたよ」

「俺は背後に忍び寄るプロだからな」

 なにもそんなテクニックをこんな場所で使わなくてもいいのに。

「というか今日も遊びに来ていたんですね」

「俺が忙しいときは国がヤバい時だぞ?」

 日本は今日も平和だ。

「楠本。ヤツはここの小さな世界しか知らないんだから勘弁してやれ。今回は俺に免じて収めてほしい」

「いや、それはいいんですけど」

 荻野に暴力を振るわれるのはいつものことだ。楠本は彼らに対して既に怒りが湧かなくなっていた。何をしても彼らは変わらないと諦めていた。

「宗太郎さんって強いんですね」

「当然だ。俺が倒されたら後ろにいる民間人が大変なことになる。最悪の場合は差し違えるがそれをすると戦力が減ってしまう。何としても生き延びなければならない。自分すら護れないやつに他人なんて護れない」

 彼は腰を落とし軽く曲げた両腕を胸の前に突き出し、いわゆる格闘戦のフォームを構えて見せた。

宗太郎の言葉は自衛官として模範的な回答なのかもしれない。戦闘員は独特の生死観を持っていると言われている。それは精鋭部隊、さらには特殊部隊とレベルが上がるにつれてその考え方は研ぎ澄まされていくらしい。いったいどのような訓練をすればそのような物の見方ができるようになるのだろうか。それは民間人である楠本には理解することができない世界なのだろう。

「俺に勝ちたかったら銃火器を使うことだな。だけど手の届く範囲にいたら意味はないけども」

「さっきのってCQCですか?」

「そうだな。男子中高生ならばその呼び方のほうが分かりやすいだろう」

 日本が世界に誇る戦争ゲームによって有名となった言葉。敵との距離が極めて近く銃器の使用が困難な状況で使用される格闘術の総称だ。

 正式には『Close Quarters Combat』。

 日本語だと『近接格闘術』。

 楠本は動画投稿サイトで自衛隊の格闘展示の動画を見たことが何度かあるが、それを実際に目の前で行われているところを見たことはなかった。

「言っておくがさっきのはかなり手加減したぞ? あれが実戦だったらあんなものじゃ済まない。これでヤツは二度と暴力を振るわないだろう。いきなり倒されるのはかなり怖いからな」

 試しに楠本にもかけてやろうか? と誘われたが全力でお断りした。後ろに倒れるというのは体育の柔道の受け身で経験しているが手加減をされたはずの荻野は結構な速さで押し倒されていた。あの倒し方では頭を打つことはないかもしれないがそれでも自分の意思で後ろに倒れるのと誰かに倒されるのでは全くの別物に違いない。

「まるでゲームの中から主人公が出てきたみたいでしたよ」

伝説の英雄ソリッドスネークか。それも悪くないがあんなクールな英雄がいるのはゲームの中だけだぞ? 現実の英雄なんてみんなウジウジ悩んだり泣き喚いたり決断を後で後悔して自信を持てなかったり。そんな情けないものだ」

「そんなものですかね……」

「現実なんてそんなものだ。英雄なんてみんな情けない」

「………………」

「だからこそ誰もが誰かの英雄になれるんだ。でも誰もそのことに気づいていないだけ」

 楠本にとっての英雄は茂爺ちゃんだった。いや、楠本だけではなく楠本家の誰もがそう答えるだろう。彼も出撃の直前には泣いたり悩んだりしたのだろうか。生前の彼は子孫によって英雄と崇められると気づいていたのだろうか。

「いいことを思いつた。楠本、自衛隊に入れ。英雄になれるぞ」

「俺には無理ですよ」

「大丈夫だ。俺がそうやったみたいに教官助教に何か言われたら「レンジャー!」とだけ言っていればいいんだ」

「いやそれキツいやつ!」

 むしろそれは「レンジャー!」以外の返答が許されていない訓練ではないか。

「というか宗太郎さんってレンジャー資格を持っていたんですね」

 レンジャー資格は陸上自衛隊のなかでたった一割弱ほどの隊員しか取得していない。特殊部隊とはまた違うが宗太郎がその資格を持っているということは、彼には少人数で敵陣に潜入し、数十キロの荷物を背負い数日のあいだ飲まず食わずの不眠不休で作戦を行うための能力があるということを意味している。

「まぁな。教官を務めたこともあるぞ?」

「めっちゃ凄いじゃないですか」

 こんなバケモノに迎撃された荻野がかわいそうに思えてきた。

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