第11話
「というわけでコンクールは銅賞に終わったわけだけど」
コンクールの次の日。
吹奏楽部は当然のように朝から練習があった。
九州大会進出が決まった学校は今ごろ次の大会の突破を目指して猛練習しているだろう。
先日の大会を突破できなかった学校がほとんどだが、彼女たちも新たな目標を目指して今日も練習しているはずだ。
「一、二年は来年の大会でさらに良い賞をとれるように練習に励むこと。三年は後輩を立派に育て上げること。それがそれぞれのやるべき事」
部員たちはコンクールの結果に落ち込んでいる様子はない。
結果に納得したのだろうか、それとも諦めがついたのだろうか。表情はそれぞれだ。
「これから小さな本番は多くあるけど、次の大きな本番は十月末の定期演奏会。それを目指して練習していくからね」
ここの吹奏楽部では学校の式典での演奏を含めて年間に十数回の本番がある。そのうち入学式、壮行会、吹奏楽コンクールと三分の一の本番が終了した。次の大きなイベントである定期演奏会までに本番は二、三回といったところだろう。
「というわけで楽譜を配るよ」
藤岡はそれぞれのパートごとにまとめていた楽譜を目の前のクラリネットに配る。その楽譜はフルート、サックスと後ろに回されていく。先に楽譜を受け取った木管群の部員から悲鳴があがった。なにがあったのだろう。疑問に思いながら楠本はサックスパートの後輩から楽譜を受け取る。
楠本は受け取った楽譜を確認する。
曲目は『君が代』『校歌』『得章歌』『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』、シュトラウスの『ホルンの為のロンド』。古いアニメの主題歌にそして人気男性アイドルグループの楽曲。ああ、こういうことか。
自分の分を引き抜いて、隣の蓮見に楽譜を回す。それを受け取った蓮見はあまりの多さに驚いたようだ。
しかし彼女はピアノの経験者。すべての譜面に目を通して曲の流れを確認している。チューバの楽譜はピアノ譜よりも音数が少なくシンプルだ。君が代、得賞歌は有名な曲で演奏時間も短い。校歌の課題は下第四線のFを出せるかどうかだろう。
シンフォニエッタは旋律があるため、蓮見が経験した課題曲や自由曲よりも細かい動きが多い。それ以外の伴奏の部分でも音数が多い。それにテンポも速い。オーケストラチックな楽曲であるためイメージのすり合わせも必要だ。
どのように教えようか。楠本は自身が初めてこの楽曲を練習したときのことを思い返して練習方針を考えていた。一番の問題はホルンの為のロンド。クラシック系のこの曲は自由曲に取り組むほど力を入れないといけないだろう。楠本にとっても蓮見にとってもとても労力が必要となるはずの楽曲だ。
「まず九月中旬に体育大会で君が代、校歌、得章歌。それと入場行進でコンクール課題曲のマーチ。十月上旬の文化祭でルパ●三世とジャ●ーズ。十月下旬の定期演奏会で『シンフォニエッタ』を演奏する。『ホルンの為のロンド』は昨日話した栗野先輩との共演。これは今日から隙間時間で練習を始めて。あと数曲追加するからそのつもりでよろしく」
君が代、校歌、得賞歌は問題ない。体育大会では課題曲のマーチも演奏するが今の蓮見のレベルであれば大丈夫だ。その次にある文化祭。アニソンのほうは有名な曲で楠本も知っているが、男性アイドルのほうはグループ名ぐらいは知っているがどんな曲なのかは知らない。家に帰ったら原曲の確認をしなくては。そんなことを考えながら楠本は初めて目にする楽譜に目を通す。お、このジャ●ーズの曲。珍しくチューバに旋律があるじゃないか。
そして最後に控えている毎年の定期演奏会は三部構成。
校歌の演奏で始まる第一部はコンクールの課題曲、自由曲、シンフォニエッタのお堅い吹奏楽曲。今年はプロ奏者の栗野が招待されるが、第二部で外部の演奏団体などを招待して共演。そして第三部でアニソン、J‐POPなどの人気の曲で終演という形になる。
文化祭の本番が終わったあたりで追加の楽譜が配られるだろう。
「定期演奏会まで残り三カ月と少し。『シンフォニエッタ』はこの吹部でもっとも大事な曲目で演奏も難しいからこれも少しずつ合間を見ながら練習するように」
シンフォニエッタを演奏する日。それは楠本たちの最後の日だ。いや、それは二年生、一年生だって三年生になったら最後にこれを演奏して吹奏楽部を去っていく。
さまざまな思いや感情が染み込んだ楽曲。
シンフォニエッタとは赤岩中学校吹奏楽部にとって『別れの歌』であった。
「というわけで今年度最初の初見演奏をしようと思うんだけど、ルパ●三世とジャ●ーズ、どっちがいい?」
熱狂的な一部の女子部員たちから絶叫に近い意見が上がった。それを採用して最初の合奏が始まったが初見演奏のため多くの部員がつまずいたり迷子になったり。当然楠本も蓮見もメロディでこけた。あまりにもひどい演奏に合奏が終わるころには熱狂的な女子部員たちは激怒していた。
「それじゃあ今日はこの曲を徹底的に練習しようか」
「起立、こんにちは!」
コンクールから数日後。部長の号令で部員たちが立ち上がり、指揮者台に立つ人物に挨拶を送る。
前に立っている女子は去年の部長。現役時代はトランペット担当だった。仕事が立て込んでいて遅れる藤岡に代わって合奏前の全体練習を見てくれるということになったのだ。
元部長がハーモニーディレクターで
「チューバ、もっと出して」
今でも結構な音量で吹いているが、楠本は少しだけ頑張った。隣では蓮見がもっと頑張っている。元部長は眉間に皺を寄せた。しかし彼女はそれを口に出すことなく他の部員に指示を出していった。キューはホルン、トロンボーン、トランペットと飛んでいき、パーカッション以外のすべての楽器が音を鳴らしはじめた。
「チューバ、音が聴こえないってば!」
元部長はそう指摘するが、すでに楠本は限界に達していた。これ以上音量を上げるとなると音程と音質のコントロールが効かなくなる。ピッチが悪くバリバリと割れた音を出したってなんの練習にもならない。特に彼の肺活量が極端に少ないというわけではない。他校の吹奏楽部のチューバと比べても音量は平均的だ。
「楠本! もっと強く! もっと速い息を出して!」
さらに指示が飛んだ。しかしそれは楠本が過去に講習会で習った奏法とは異なるものだった。年に一、二回実施される楽器別講習会ではプロの講師に「喉を開けて温かい息をゆったりと出す」と教わった。元部長はトランペット出身だ。トランペットならその奏法が正しいのかもしれないが、それとチューバでは同じ金管楽器でも双方がまったく異なるのだ。
「だからもっと速く!」
このままでは元部長は納得しないだろう。楠本はしかたなく速い息を吹き込んだ。するとチューバの音が濁った。粗野なその音はまるで楽器が屁をしているようだった。
「そうそれ! もっと強く!」
元部長はうんうんと頷く。果たして彼女はこの臭い音のどこがいいのだろうか。
この練習がひと段落すると、全体での八拍ロングトーンの練習に入った。スネアドラムが八分音符を刻み、バスドラムが四分音符を打ち鳴らす。そのリズムに合わせて全員が
「チューバ音小さすぎ」
不機嫌な顔で元部長は指揮者台を降りると一段高くなったステージの上に移動し、黒板に白いチョークで大きな三角形を描いた。
「楠本、これが何か分かる?」
「三角形です」
「バカじゃないの?」
理不尽だ。
吹奏楽部らしくトライアングルとでも答えれば良かったのだろうか。
「これはピラミッド」
彼女は高校でも吹奏楽を続けているそうだが、美術部に入ったほうが良いのではないだろうか。元部長はさらに二本の線を書き込んで三角形を三分割すると、隔てられた上のエリアから高音、中音、低音と書き記していった。
「ピラミッドの一番下って一番大きいでしょ? だから低音が一番大きく吹かなければいけないの」
楠本が三角形と答えたことを根に持っているのか、元部長は手にしたチョークでバンバンと図面を叩いた。上下をスライドして入れ替えることができる上下式黒板は叩かれた衝撃でガタガタと震える。
それは彼女なりに考えだした例え話なのか、それとも吹奏楽の指導者界隈ではよく使われている話なのか。楠本はその概念を初めて耳にした。
しかし先ほど彼女が少しだけ満足した時のあの汚い音は納得できなかった。いくら音量が大きくても音が汚ければ意味がない。楠本がさらに大きい音を出せるようにならなければならないというのは確かだが、それは綺麗な音、正しい音程で演奏できているのが前提のはずだ。
それに加えて音質、音程を捨てて能力を音量に全振りするというのはまるで小柳や荻野と一緒になったようで嫌だった。
元部長がその図面を消したころに顧問がやってきた。
「少年、独りか」
昼休憩の時間に一人で食事をする楠本に突然声を掛けたのは宗太郎だった。
「宗太郎さん、来ていたんですね」
「コンクールも終わったことだし何か差し入れしようと思ってな」
彼が遊びに来るペースは月に一回程度だった。数日前のコンクール直前に来ていたため、こんな短いスパンで再びやってくるなんて思ってもいなかった。
「飯はいつも独りなのか? 他の男は?」
「ハブられているんです」
「そうなのか」
「こういう運命なんですよ」
「運命、か」
ふと楠本の頭の中に「ジャジャジャジャーン」というこの先に暗い未来が待ち受けているかのような旋律が鳴り響いた。彼が入部したばかりの頃は小柳や荻野にそこまで酷い扱いは受けていなかった。しかし数か月もした頃から対応がきつくなっていった。昼食を一人でとるのは既に慣れているが、おそらく引退するまでずっと一人だろう。
「楠本、八月六日と九日が何の日か知っているな?」
「……広島と長崎に原爆が落とされた日ですよね」
唐突な質問だった。
彼がなぜこのような話を切り出したのか楠本は全く理解できなかったが、高校受験を控えた楠本にとっては簡単な問題だった。
「七月三〇日。米海軍重巡洋艦インディアナポリスは日本海軍の伊五八潜水艦が放った魚雷で沈没した。その数日前、インディアナポリスは何をしていたと思うか?」
「……なんですか?」
「テニアン島に原爆を運んでいたんだ。二十六日には輸送任務は完了。伊五八潜は一八日にはすでに出撃していた。もしも数日早く発見撃沈できていたらどうなっていたんだろうな。それは運命の歯車が狂っていたのか、それともそれが運命だったのか」
楠本は授業で原爆実験や投下時の映像を見たこともあったが、その前にそんなすれ違いがあったなんて聞いたことがなかった。
「歴史、詳しいんですね」
「歴史を学ぶことは役に立つ。俺が幼いころに亡くなってしまったが俺の爺ちゃんは大戦中、激戦地のペリリュー島で戦ってそして生還した。小さいときはよく戦場での話を聞かせてもらったものだ」
この日向市にも戦争の跡が残っている。海に面した細島地区には第八回天隊、いわゆる人間魚雷の部隊が置かれていた。さらに富高海軍飛行場という基地もあったという。地域の大きな病院の敷地内に当時の滑走路の一部や爆撃で空いた穴がそのまま残されている。楠本が生まれる前に取り壊されたが、二十年前には航空機を格納していた掩体壕が自動車整備工場として残されていたらしい。ちなみに富高航空隊司令部の建物は隣町の富高中学校の校舎としてそのまま使われている。
「実は俺の祖母の伯父が海軍の戦闘機パイロットだったんです。特攻隊だったみたいで終戦間際の春に宮崎からゼロ戦で出撃して駆逐艦を沈めたそうです」
「春に宮崎からゼロ戦か……」
宗太郎は何かを考えているようだった。
「その特攻隊員は戦闘機乗りじゃなくて爆撃機乗りじゃないか?」
「え?」
「確かにゼロ戦は特攻に使われた。だけど出撃基地はフィリピンだったと思う。ゼロ戦に大型爆弾を搭載できるように改造した爆戦というものもあるけどたしか出撃基地は鹿児島とかだったはず。記録が残っていないだけかもしれないが俺が覚えている限り宮崎から出撃したのは彗星や銀河とかの爆撃機だ。まぁ双発機の銀河は置いておいて単発機のゼロ戦も彗星も詳しくない人が見たら同じようなものか。敵艦に突っ込めば戦闘機も爆撃機もどちらも同じだからな」
「それにしてもどうして体当たりが成功したって分かったんでしょうかね」
特攻が始まった初期には戦果を確認するための航空機も同行していたと聞いている。しかし大戦終盤にもなればそんな余力は残っていなかったはずだ。
「特攻機が突入を開始する前に個別識別符号を送って電信キーを押しっぱなしにするんだ。これを超長音と言って受信している司令部では「ツーーーーーー」と鳴り続ける。これが早くに途切れたら撃墜、長く続いて途切れたら突入成功と判断していたらしい。だけどそれを判断していたのは人間だ。曖昧な信号もあっただろうし情がわいて成功判定したものもあっただろう。戦場において戦果の過大評価は珍しいことじゃないからな」
「というと、もしかしたら特攻は失敗したかもしれないということですか?」
家系をくまなく探せば他にも軍人兵士がいるかもしれない。しかし楠本が唯一知っているのは茂爺ちゃんだけだ。
彼は家系の中でも特別な存在だった。親戚が集まってご先祖様の話になれば必ずといっていいほどその名前が出てきていた。「盃を叩き割って出撃し、見事敵艦に突入し駆逐艦を撃沈した」として。
彼はまるで英雄のような扱いだった。その英雄の伝説の一つが崩れ去ろうとしている。
「どうだろうな。犠牲の割に戦果が少ないという意見もあるのも確かだ。だけど記録が正しければ米損傷艦艇と死傷者の約八割が特攻によるものだったという意見もある。この攻撃で多くの高速空母が貼り付けになり、これがなかったら自由に日本本土の基地や工場を破壊することができたと評価した米海軍中尉がいたのも事実だ」
宗太郎は腕を組み、背中を壁に預けた。
「撃破した艦艇や死傷者ばかりが注目されることが多いが、もっとも大きい成果は心理的なダメージ。米陸軍は九州空爆を切り上げて東京空襲に移ろうとしていたが、海軍のニミッツ提督は「それをやったら沖縄から艦隊を撤退させる」と脅していたそうだ。九州には特攻基地があったから優先的に潰しておきたかったのだろう。それに加え普通では思いつきもしない攻撃方法に多くの兵士がノイローゼに陥った。さらに沖縄作戦中に司令部が交替している。作戦途中に司令部が変わるなんて普通はありえない。それだけ精神的ストレスを与えていたということだ。」
アメリカ政府は特攻による被害を国民に伏せていたという話を楠本は社会科の授業でちらりと聞いたことを覚えていた。それだけ心理的なダメージがあったのだろう。
「こういったこともあり連合国は日本の国体護持という項目を含めた条件付き無条件降伏の方針をとったポツダム宣言を発行した。国が存続するのであればということで日本はそれを受諾。他にもさまざまな要因があるだろうがそれでも特攻というものが大戦の終結を早めたことは確かだ。特攻を考案した大西瀧治郎中将は「特攻を行えば天皇陛下が戦争を止めろとおっしゃるだろう。この犠牲の歴史が日本を再興する」と話していたらしいからな。戦闘に勝つことと戦争に勝つことは一緒じゃない。日本軍は戦闘には負けたが日本を守るという戦争には勝てたんだ」
「それじゃあ俺のご先祖様は……」
「成功したかもしれないし失敗したかもしれない。しかし彼らの犠牲によって世界が変わったことは確かだ。成功したと信じてそっと眠らせておいてやれ」
「……そうですね」
茂爺ちゃんの行動が認められて楠本は嬉しくなった。成功していたとしても失敗していたとしても彼が勇敢に飛んで行ったことには変わりはない。その成否は今となっては今となっては確認することができないのだから。世界を変えた英雄たちの一人としてその犠牲は無駄ではなかったと静かに眠らせること。その犠牲を忘れないことが楠本にできる一番の供養だろう。
「ところで蓮見は順調か?」
「今日から4/4サイズに変わったんです」
「そうか。それはゴージャスになるな」
「俺もまだまだ音量が足りないみたいなんですよね。ほら、低音ってピラミッドの一番下にありますから」
「ピラミッド? もしかしてマクベスのピラミッド型バランスのことを言っているのか?」
「マクベスというのかは分かりませんが、ピラミッドの一番下は大きいから、低音が一番大きく吹かないといけないというアレです」
「マクベスだな。それは誰が言っていた?」
「去年卒業した部長です」
「ああ、トランペットだったあいつか。高校は? 延岡の私立か?」
「すぐそこにある財光寺高校ですよ」
「……そうか」
悪いが俺はアマチュアだ。俺が言うことが全てだとは思わないで聞いてほしいと宗太郎は告げて話を始めた。
「市民楽団に所属している知り合いが何人かいるが悪いけどそのメソッドを使っているやつと会った事はない。偶然周りにそういうやつが集まっただけかもしれないけどな。吹奏楽二十年のベテランにも知らないという人もいた。俺の師匠もこの理論には否定的だった」
「師匠って宗太郎さんの先輩ですか?」
「いや、そいつも師匠といえば師匠だがそれとは違う。若いころはプロのチューバ奏者として活動していたどこにでもいる元高校教師だ」
「そんな人どこにでもいませんよ。すごいエリートじゃないですか」
「楠本は『
「ツゲ……どんな字ですか?」
「木偏と石に植える。オサムが理科の理だ」
「……いえ、分かりません」
「『宮崎県の吹奏楽の女神』と言ったら分かるか?」
「女神……ですか?」
「ああ、とっくの昔に高校教師を定年退職したジジイだが、なぜか『女神』と呼ばれていた」
師匠をジジイ呼ばわりとは宗太郎は肝が据わっているのか、それともただ単に失礼なだけなのか。
「その『女神』って『巨匠』とは違うんですよね?」
楠本は『宮崎県の吹奏楽の女神』は初耳だが、『宮崎県の吹奏楽の巨匠』なら知っていた。
おそらく宮崎県で吹奏楽をやっている人でその『巨匠』を知らない人はいないだろう。赴任した先の吹奏楽部をどんなに弱小だったとしても絶対に九州大会へと連れて行くという、アニメや映画の中でしかありえないような事を現実でやってのけた伝説の教師だ。さらに全国大会出場だって一回や二回といった一桁の話ではない。まさに宮崎県の生きた宝だ。
「『巨匠』って昔、赤岩中を全国大会に連れて行った伝説の顧問のことだろ?」
「はい、あの先生です」
「懐かしいな、あの先生」
「宗太郎さんの時の顧問じゃないですよね?」
その巨匠が赤岩中に赴任していた時期があるが、それは吹奏楽部の黄金時代の頃だ。それとは真逆の暗黒時代出身の宗太郎は一体どこで関わりがあったのだろう。
「コンクール前に『課題曲クリニック』ってイベントがあるだろ? 俺が三年生だった時に演奏する担当だったんだけど、そのときに可愛がられたんだよ」
「可愛がられたって、昔教えていた吹奏楽部だからですか?」
「いや、あまりにも下手くそ過ぎるってな」
せっかく自分が強くした学校が暗黒時代と呼ばれるほどまでに落ちぶれていたら、それはどんな人格者でも怒りを露わにするだろう。
「巨匠がステージに上がって真っ先に何をしたと思う?」
「……指揮棒をぶん投げたとかですか?」
「あの人はそんなことしねぇよ。真っ先に俺のところに来て「お前本当に三年なの? 一年じゃなくて?」って言ったんだ。まぁそれだけ俺のチューバは下手くそだったわけだ」
「………………」
宗太郎は昔の話を笑い飛ばすが、楠本は反応に困った。
もしも楠本がそんなことを言われたら立ち直れないかもしれない。
「それで県北の吹奏楽部では「お前本当に三年なの? 一年じゃなくて?」というセリフが流行したんだ。今も言われているかは知らないがそれを聞いたら俺を思い出してくれ」
「悲しくなるだけじゃないですか」
そのミームの元ネタを知っているからと言って喜べるわけがない。一体どこに大先輩の黒歴史で盛り上がる後輩がいるのだろう。
「話が脱線したが、確かに『巨匠』と『女神』はほぼ同世代だが別人だ。『巨匠』のほうはプロオケ出身だが、俺の師匠は四重奏楽団の出身だ。オケにはトラで乗ったことはあるみたいだが。そもそも『巨匠』と『女神』では担当楽器が違う」
その女神は何という名前だったっけ。確か難しい名前だったと思う。この話がひと段落したら宗太郎にもう一度聞いてみよう。
「そのエリートの女神でさえもマクベスの理論には否定的だった」
「俺も知りませんでしたよ」
「昔ネットでその理論を調べたことがあるんだが全然ヒットしなかった。大昔に流行した理論らしいが情報が少なすぎる」
そんなに重要な音楽理論だったら解説しているサイトが多くあるはずだろ? と彼は楠本に同意を促した。一体、元部長はどこからその理論を拾ってきたのだろう。
「もしその「低音が一番大きく吹かなければならない」という理論が正しいとすれば、一般的な楽器編成は完全に真逆なものだ。例えばオーケストラの十六型の編成だと弦楽器が
言われてみればその通りだ。音の聴こえやすさと人数で劣るコントラバスがヴァイオリンやヴィオラ以上の音量を出せと言われても難しい話だろう。
波長が短い高音域は指向性が高くなり音が遠くへと届く。それにたいして低音域は波長が長いため指向性が緩くなり消えてしまいやすい。確かに楠本が一年生の頃に楽器別講習会で習ったことだ。
「作曲された年代によって人数は変わるが比率自体はどれもほぼ一緒だ。いわば音量バランスの黄金比のようなものだろう。それに作曲家もそれを想定して作曲している。わざわざ楽器の比率を真逆にするような極端な編成は価値がないとまでは言わないが俺はメリットを感じない」
オーケストラの楽器の比率にスタンダードがあるように吹奏楽にも楽器の比率がある。ここの吹奏楽部は部員数約二十五人に対してチューバは二人。他の同規模の楽団を見ても特にチューバが多いということはなければ少ないということもない。これが一般的な編成だと楠本は思っていた。
「その去年の部長とやらはピラミッド理論を勘違いしているんだろうな。学校の吹奏楽部は低音楽器の数が少ない傾向にあるから「大きい音で吹く」という安直な表現になりがちらしい。だけど本来これは音質に注目した理論だ。低音を抜いて合奏すると高音がキンキン鳴ってやかましいが低音が入れば音量がそのままでもバランスが整う。大きい音を出そうとしてオーバーブローしても本末転倒だからな。楠本はオーバーブローって分かるか?」
「吹きすぎの事ですね。直訳だと」
「正解。奏者自身がコントロールできる音量、音程、音質を超えて吹きすぎている状態のことだ。正しい音程、音色で吹奏するにはリラックスした状態で楽器に息を入れなければならない。力任せに吹いても音のセンターがぼやけて逆に音が聞こえなくなってしまう。ゆっくりと温かい息で吹くんだ」
いくら大きい音を出せたとしても質が悪ければ意味がない。それは宗太郎が口を酸っぱくして言っている言葉だった。
この部活で最も音が大きいのは小柳と荻野の二人だろう。しかし彼らは音が大きいばかりで音質はそうでもない。各パート内で音量バランスが整っていなければ全体的にも悪目立ちしている。それに加えて音はいつも割れている。むしろ彼らはバリバリと割れる音が正しいと考えている節があるが。
「たしかに合奏の基礎にあるのが低音だ。だけど今は古代エジプトじゃない。現代に基礎工事が丸見えの建物はあるか? 基礎が注目されることは少ない。しかしたしかにそこにいる。それが低音なんだ」
ヤン車みたいにズンドコズンドコ低音しか聴こえない音楽は趣味じゃない。低音中音高音がうまく融合していて、たまにある見せ場でチューバがチラリと目立つ。そういうのがいいんだ。と宗太郎は美学を語る。
「それに俺には楠本の音がきちんと聴こえているぞ。他の楽器の音によく溶け込めていて音のセンターもちゃんと捉えている。その去年の部長は低音の役割をはき違えていたんだろう。それか楽器を聴き分ける耳を持っていなかったか。音楽系の高校に通っている奴が言っているなら信用できるかもしれないが、それを言っていたのは普通科の高校生だろ? そこらへんの高校生が管弦楽法を勉強しているとは思えない。どの程度合奏指導の知識があるか怪しいものだ」
音楽の専門教育を受けていないのは俺も同じだけどな。俺が習ったのは師匠に少しと残りは独学だけだ。と彼は苦笑いをした。去年の部長が音楽科のある高校に通っているのかどうかを確認するために彼はどこの高校なのかを聞いたのか。たしか宮崎県には日向市の二つ隣の延岡市に一校だけ音楽科のある高校があったな。
「宗太郎さんが聴こえているって言うんでしたらそうなんでしょうね」
「ははは、俺を信じるのか」
「当然ですよ。プロのレッスンを受けていたんですから」
「確かにレッスンを受けていたが俺はアマチュアだ」
宗太郎は笑って謙遜する。しかしそれでも彼にはその意見を裏打ちするだけの経歴と技術がある。たしかにアマチュアかもしれないが、楠本にとっては雲の上の存在だった。
「プロのレッスンを受けたことがあるからといって、間違えても俺のことをセミプロだなんて呼ぶなよ?」
「そんなバカな間違いなんてしませんよ」
セミプロとはその仕事で金を稼げてはいるがそれだけでは不十分で、本業とは別に仕事をして生活費を稼いでいる人々の事をいう。そんなことは中学生でも知っている。チューバで一銭も稼いでいない宗太郎は明らかにアマチュアだ。
「昔ネットの掲示板にいたんだよ。「音大でプロの指導を受けているから俺はセミプロだ」って言い張るバカが」
釣りかもしれないが。と宗太郎は語る。もしそれが釣りでなければとんでもない醜態をさらしたことになる。ネット住人のおもちゃにされることは必至だろう。
「そもそも音量バランスは指揮者の趣味や解釈によって異なる。中学教師とはいえ音楽教育のプロが何も言わないんだ。今の音量でも大丈夫なんじゃないか?」
普通科の高校生と音大を卒業している音楽教師。どちらのほうを信じるかは明白だ。
「そういえばプロといえば宗太郎さん。栗野鳴海って先輩を知っていますか?」
「栗ちゃんか? よく知ってる。今は埼玉フィルでホルンを吹いているやつだ」
「会った事があるんですか?」
「あるもなにも一つ下の後輩だ。死亡フラグをよく立てるやつだった。死神でも憑りついていたんじゃないか?」
ということは栗野の出演の話は宗太郎のコネクションを活用したことで実現したのだろうか。藤岡の音大時代の人脈からたどり着いたのかもしれないが、それだとしたら遠く離れた埼玉のオーケストラのしかも卒業生に繋がるというのは確率的に奇跡に近いものがある。
それにしても独特な評価だった。宗太郎なりの冗談だろうか。
「しかし栗ちゃんのやつ、かなり出世したよなぁ。中学時代は周りが足を引っ張って銅賞だったが高校で二大会連続で全国大会に出場して金賞を受賞。そして音大に進学して在学中にコンクールに入賞。卒業後フリーで活躍したのちに二十代後半にして埼玉フィルのオーディションに合格。まさにエリートだ」
プロのオーケストラに入団するためには高度な演奏技術を持っていることは前提条件だ。それに加えて団員の退団で席が空くことや楽団の空気とマッチングするなどの演奏技術以外の運やセンスなども必要になると言われている。もちろん楽団に所属せずにエキストラや楽器レッスンなどの個人事業主として活動している演奏家もいるらしいが、いずれにせよプロの世界というものは楠本には想像もできないほどに手が届かない世界だった。
「その栗野先輩が今度の定期演奏会に出演してくださるそうなんです」
「本当か!? どこからの情報だ?」
「どこからって言われても顧問からです。コンクールの帰りのバスで教えられました」
「よし、後で詳しいことを聞いてくる」
「これって宗太郎さんの人脈で実現したものじゃないんですか?」
「いや、これに関しては全然タッチしてないぞ。初耳だ」
それでは藤岡のコネクションによってこういう話になったのだろうか。確率は低いが人脈はどこで繋がっているかは分からない。その偶然ともいえる繋がりで今回の定期演奏会での客演がきまったのだろう。
「さて、そろそろ時間だな」
手首の内側に向けて装着している腕時計を確認した宗太郎は、車からチューバを降ろしてくる、と伝えてその場を離れた。
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