第10話
いよいよコンクール当日。
本番は昼に近い時間だ。普段の部活より一時間早い七時に集合する予定だった。しかし部員たちは六時半ほどには全員集合していた。朝が早くてあくびをかみ殺している者。あまりの緊張に今からソワソワしている者。部員たちは思い思いに時間を潰している。赤岩中学校は住宅地にも面しているためこんな早い時間から楽器の音は出せない。それもあるがいつもとは違う早朝の神秘的な時間をリラックスに使うというのもいいだろう。
「あ、蓮見さん、いた」
彼女を見つけて手招きをする。友達と談笑していた彼女は「なんだろう?」という表情で走り寄ってきた。
「最後の楽器点検をするから手伝って」
「はい」
二人は音楽準備室に入るとチューバのケースを開いた。蓮見は楠本の指示を受けながら楽器の点検をしていく。二人のチューバとも各バルブ、各調整管には異常はない。
「マウスピースは入っているね」
楠本は両方のケースにマウスピースが入っていることを指さし確認し、パートの引き出しを漁る。あったあった。これがいつも使っているやつと同じ型番だ。
「蓮見さん、予備のマウスピースは俺が持っておくから」
その後オイルの小瓶、グリスのスティック、チューナーとそれの予備電池と一式の装備がケースに入っていることを一緒に確認してケースを閉じた。二人とも忘れ物はなかった。
「俺が引退しても出発前には必ずこの作業をするんだよ。後輩ができたら一緒にダブルチェックね」
「はい」
「これで今のうちにしないといけないことは終わったから、友達のところに戻っていいよ」
「ありがとうございます」
蓮見はてててっと友達の元へと戻っていった。
さて楠本も時間までのんびりと過ごすとしよう。
神秘的な時間はあっという間のものですぐに予定時刻となった。藤岡が職員室から上がってきて簡単なミーティングが終わり、楽器の運搬作業が始まった。全員でパーカッションを降ろし、そして各個人の楽器。すぐ近くの外部階段を蓮見はよろよろと下っていく。小さめのチューバだが小柄な彼女にとっては重いものなのだろう。彼女が階段を踏み外したときに備え先行して降りる楠本はところどころで後ろを振り返る。ようやく一階に到着した。
そしてチャーターしたトラックへの積み込みが始まった。チューバの順番が回ってきて楠本と蓮見は楽器をパワーゲートに乗せてドライバーに預けた。今となっては何とも思わないが初めてのコンクールのとき、ゆっくりと荷台の高さに持ち上がるこの装置を見て感動したものだ。
クラリネットやフルートといった小さい楽器を最後に積み込んでこの作業は完了。
「集合」
藤岡の号令の下に部員たちはいつもの場所にパートごとに整列した。音楽室近くの外部階段を下まで降りたすぐそこ。コンクールに限らず外部の本番会場への出発前、帰還後にミーティングをするいつもの場所だ。
「楽譜は持ったね? 全員いま取り出して課題曲、自由曲のページをパートリーダーに見せて」
楠本と蓮見は紺色のスクールバッグからオレンジ色のスケッチブックを取り出した。パートリーダーである楠本はその二人分の楽譜を指さし確認。念を入れて蓮見にも確認してもらう。
「お。楠本いいね。指さし確認」
藤岡はそれに感心して「楽譜ヨイカ? ヨシ!」と片足を挙げて謎の指さし確認をする。その姿はまるでひょうきんな猫のようだった。緊張している部員たちに笑いがあふれた。
「大丈夫だね? それじゃあバッグにしまってバスに移動。校門の近くに停まっているから」
脇に植えられたクスノキに見送られて長い坂道を下ると、校門の左手に白と水色の塗装がされた大型バスが止まっていた。部員たちは運転手に挨拶をして奥のほうから詰めて乗り込んでいく。小柳や荻野はいの一番に最後尾に陣取り、蓮見は友達と合流して中盤ほどに席を取った。特に誰かと一緒に座る予定がなかった楠本は他の部員たちが乗り終わった後にステップに足をかけ、ほぼ最先頭の窓側の席に座った。
「楠本、となりいい?」
藤岡はそういいながらも返答を待たずに隣の席に腰を下ろした。楠本の近くには普段顔を出さない副顧問や楽器の搬入搬出などを手伝ってくれる保護者やOBOG会の有志が次々と陣取っていく。
バスの入り口が閉鎖され、「それでは発車します」という運転手のアナウンス。やがてバスはゆっくりと動き出す。宮崎に通じている国道十号線に乗るために田んぼの間に通る舗装された細い道路を進んでいく。
「昨日は休みにしてごめんね?」
「いいんですよ。今の部活にはその時間が必要だったので」
自分たちが楽器に触れることができる今の環境についてそれぞれが考える必要がこの楽団にはあった。二年前に行われていた昼練習もいつの間にかなくなっているし、活動へのとりかかりが遅くなっているようにも感じられる。おとといの藤岡が言っていたようになぜ自分たちが吹奏楽をできるのかを考え直したほうがよかった。もしも昨日の休みのせいで今回のコンクールが思うような結果にならなかったとしても、ここの吹奏楽部は一度痛い目にあったほうがいいだろう。
「楠本もいよいよ今日が最後だね」
今日のコンクール。
それはあらかじめ藤岡に伝えていた、楠本の引退の日。
後輩である蓮見を独り立ちさせる。それが彼の吹奏楽部での最後の任務だった。技術的にはまだ楠本に追いつけていないが今の彼女ならば自分自身で成長していくことができる。楠本の任務は完了したのだ。
「ここでの二年と四カ月、楠本はどうだった?」
「いまそれを聞きますか?」
楠本は笑い飛ばした。
「まだラストステージは終わっていませんよ」
「それもそうだね。じゃあ帰りのバスで聞くとしよう」
「そうしてください」
「それと部員たちへの最後の挨拶なんだけど、それも帰りのバスでする?」
「いいえ。明日の部活の朝礼でやりましょう」
「そっか、分かった」
コンクール終了後の車内というのはどういう結果であったとしても達成感に包まれるものだ。そんなささやかな幸福を邪魔するわけにはいかない。
「今回の本番、きっと楠本の記憶に残るだろうねぇ」
「そうですね。宗太郎さんも言っていました。特に最後の課題曲は印象に残るって。そういえば先生、コロッケマーチって知っていますか?」
「コロッケ? もしかして二〇〇九年の『コミカル☆パレード』のこと?」
「はい、それです」
「覚えてる覚えてる!」
彼女はそう興奮した様子で「コロッケコロッケコロッケ~」と歌う。おそらくその曲は本当にそのように聞こえるのだろう。それか藤岡と宗太郎の両方の耳がおかしいかのどちらかだ。たしか二人とも宮崎県の県北出身だったはずだ。
いつの間にかバスは国道十号線に乗っていた。
バスは国道をグングンと進んでいき、あっという間に宮崎市内へと入った。コンクール会場である宮崎市民文化ホールへの到着時刻は決められている。遅くてもいけないが早すぎてもいけないのだ。バスは宮崎神宮近くの大きな停留所で時間を調整したのち、予定時刻の二十分ほど前に出発した。
藤岡が席を立って後ろを振り返る。
「いよいよこれから会場に入るからね。部長、本番前になにか一言」
拍手で歓迎されて最後尾の小柳が立ち上がった。
「え~今更言うことでもないんですけど、今年の吹奏楽部は去年よりもうまくなっていると思います。一年生も十分にうまくなりました。金賞を獲って次の九州大会を目指して悔いの残らない演奏をしましょう」
わーっとさらに大きな拍手が巻き起こる。
楠本も拍手を送ったが最後の一文には納得できなかった。二日前の宗太郎による大演説で彼は「悔いの残らない演奏はない」と言っていた。同じ楽器をやっているからという依怙贔屓もあるかもしれないが、それを抜きにしたとしても小柳が言う「悔いの残らない演奏」というものには反対だった。
「楠本、なんだか浮かない顔だね」
「ちょっと宗太郎さんの言葉を思い出していまして」
「「悔いの残らない演奏」ね。音楽に限らずどんなものでも同じようなものだよ。いくら悔いの残らないようにやっても後には必ず悔いが残るものだから」
他の部員たちもいつか気づくんだろうねぇ。と藤岡はつぶやく。
きっとこのコンクールを最後に退部した後も、楠本は後悔するのかもしれない。あの時続けていればよかった、最後の定期演奏会まで続けていればよかった、と。それは中学校高校を卒業して大人になってもその後悔は続くのかもしれない。
いや、楠本は決めたんだ。チューバを吹くのはコンクールでこれっきりと。後悔すると分かっていてもその決意は変わらない。
彼は車窓から景色を眺めた。日向市とは大きく違う宮崎市中心部の都会な風景。バスは大きな交差点を右折して細い道路へと入っていく。あと五分もすれば会場だ。緊張がますます大きくなっていく。
会場前の道路は混雑していた。道路に並ぶバスやトラック。横断歩道を渡る中学生。ここがこんなに人であふれるのはこの時期ぐらいだろう。
楠本が乗ったバスは近くの大型車用の駐車場に停車した。藤岡が指示を出して部員たちがしばらく待機したのちに降車する。そして坂道を下り横断歩道を渡って会場に到着。ここから別行動となるパーカッションの部員たちはスタッフに連れられて別のところに移動を始めた。
少し遅れてトラックが到着し、楽器の搬入作業が始まった。積み込んだ順とは逆に小型の楽器から出てくる。やがて中型の楽器が出てきていよいよチューバだ。サイズがここまで大きくなれば流石にパワーゲートを使ったほうが楽で安全だ。昇降装置で降ろされたため楠本も蓮見も特に体力を使うことなく楽器を受け取ることができた。
「おいノーサウンドを見ろよ。緊張してやがるぜ」
「うわっ、ダセェ」
「俺たちは全然緊張してないのにな」
「あいつがザコなだけだろ」
やや離れたところで本人に聞こえるように楠本を煽るのは小柳と荻野だ。
楠本は彼らに何も言い返さず、ただ一瞥しただけだった。
確かに楠本は緊張しているがそれは集中力を保っている適正範囲の緊張だ。宗太郎が言っていた『逆U字理論』とやらの最も良いパフォーマンスを発揮できる状態であり、少なくとも演奏に差し支えるようなものではない。
そもそも彼らはコンクール直前になぜ楽団の仲間を煽るのだろう。楽器の音には奏者の精神状態が現れる。なぜ自分たちが不利になるようなことをするのか楠本には分からなかった。コンクールの結果を犠牲にしてでも楠本を見下すことで自分たちを優位に見せたいのだろうか。彼らには先日の宗太郎の演説は届いていないようだった。
「はーい。それじゃあこの後はホールの中に入ってロビーで楽器の準備ね。そのあと小ホールでチューニングとリハーサル。小ホールの中でしか音を出せないから、ロビーとかで吹かないでね」
「はい」
藤岡に先導されて部員たちはホールへと入る。中は宮崎県内の様々な中学校の制服でごった返していた。ロビーの一部を陣取って楽器を準備する。こういう時は金管楽器だと楽だ。木管楽器はせっせと楽器を組み立てているが、金管楽器だと楽器本体とマウスピースを取り出して接続するだけ。三十秒とかからない。
リハーサルの順番が回ってきて小ホールへと通された。人数分のパイプ椅子が並べられた小ホールは「小さい」とはいえなかなかの広さがあり豪華な造りになっている。扉が閉鎖されたことを確認すると藤岡は音だし開始の指示を出して部員たちはチューニングの準備のため、息を吹き込んで楽器を温めはじめた。
荷物の軽量化のためにチューナーは楠本の物だけを持ってきた。二人ともピックアップマイクを使って順番にチューニングを終わらせると他のパートが終わるのをじっと待つ。そんなに時間はかからなかった。
「みんなチューニングは終わったね。それじゃあ課題曲と自由曲の頭と終わりだけ合奏するよ」
「はい」
藤岡が指揮棒を振ると管楽器たちがパーンと鳴る。リハーサルというものは練習する場所ではない。バス移動で鈍った体を起こし、慣れない環境による緊張から解放されるためのものだ。そもそもリハーサルの時間は十分ほどしか設けられていないためここでの練習は不可能に近いだろう。
ポケットから小さな腕時計を取り出して藤岡は時刻を確認する。
「あと一分半。最後にチューニングを確認して」
楠本は急いでチューナーを手にして本体に巻き付けたピックアップマイクのコードを手早くほどき、ベルに取り付けてチューニングを開始。特に狂っているということはなかった。続いてマイクを蓮見のチューバのベルに取り付ける。楠本は彼女によく見えるようにチューナーを手で持ってあげる。経験が浅いこともあって少し時間がかかったが制限時間内に完了することができた。
運営スタッフによってリハーサル時間の終了が告げられる。
「みんなここから音出したらダメだからね。舞台下手から順番に木管、金管の順についてきて」
「はい」
フルート、クラリネットと順番に小ホールを退出していく。舞台上手に配置されるチューバの移動が始まるまで少し時間があった。楠本はぐるぐるとピックアップマイクのコードをチューナーに巻き付けながら小声で蓮見へと話しかける。
「今日は隣に俺がいるからね」
彼女ははにかんだだけだった。
出口に立った副顧問にチューナーを預け、二人はしんと静まり返った小ホールを後にした。
細い関係者通路を通り、暗い舞台上手袖に到着した。ステージでは前の学校が自由曲を演奏している。舞台袖で聴く前の学校の演奏は上手に聞こえるものだ。それで必要以上に緊張してしまう場合もあるらしい。
楠本はちらりと蓮見の顔色をうかがう。特に極度の緊張状態に陥っているというわけではなさそうだ。さすがは幼少の頃からピアノを習っていただけのことはある。彼女にとって吹奏楽の舞台は初めてだが、それに限らなければ舞台に立つという経験は楠本よりもはるかに多いだろう。
前の学校の演奏が終わり客席から拍手が沸き上がる。舞台横の反響板の端に設けられた小さなドアが開かれ、他校の部員たちが引きあげてきた。その流れがやむと赤岩中の入場が始まる。行列は前のほうから動き出し、最後尾のチューバの移動も始まった。
「大丈夫だからね」
楠本は最後に蓮見へと声をかける。
あたりが暗くてよく見えなかったが、きっと彼女ははにかんでいたのだろう。
舞台に入場すると一目散に自分の座席に向かった。無駄に客席を見て精神状態の平静を崩したくなかった。豪華な椅子に腰を掛けると譜面台の調整。それが完了すると立ったまま楽器を持って客席のほうを向いた。
いよいよだ。
照明が灯されアナウンスが入る。
『プログラム二十一番。日向市立赤岩中学校。課題曲、Ⅱ。自由曲、ジェイムズ・バーンズ作曲、アパラチアン序曲』
藤岡が一礼して指揮者台に登る。それを合図に部員たちは着席して楽器を構える。指揮者が構えた指揮棒が振り下ろされ楠本たちのコンクールが始まった。
課題曲が終了した。
奏者の場所で聴くのと観客の場所で聴くのでは異なるが、それでも壮行会のときよりかははるかに成長した演奏だった。マーチのリズムをしっかりと刻めていて高音域は悪目立ちしていなかった。前回欠けていた楠本が戻って本来のフルメンバーで合奏したからだろう。小柳や荻野からは「ノーサウンドがいないほうが良い演奏ができる」と言われ続けているが、自分がいるだけでここまで合奏がまとまるとは。三分半の短い一曲で自信がついたような気がした。一度自分がいない楽団の演奏を外から聴いてみるという藤岡の企みは見事成功していたということだ。
コンクールの持ち時間は十二分。課題曲が終わった今もカウントは続いている。楽譜をめくる時間を待ち、再び藤岡が指揮棒をあげた。
それが振り下ろされると同時にトランペットのファンファーレで自由曲のアパラチアン序曲が始まった。チューバが加わりティンパニーのロール。旋律が回されてホルンによる主題。やがて曲想はゆったりと流れると、再びモデルとなったカナダ・アメリカの東北部に連なるアパラチア山脈のように雄大な主題へと戻ってきた。
場面が変わり曲想がさらにまったりと流れる。クラリネットが短いメロディを奏で、トライアングルが打ち鳴らされる。そして荻野によるトランペットソロ。
しかし彼は音を外してしまった。
悪いことは続くものでその後の音を空振り。
舞台に怯えた空気が漂う。荻野のそのミスによって部員たちのトラウマが掘り起こされたのだ。壮行会での蓮見の空振りがスネアドラムへと伝染し、やがては楽団全体へと感染していったことを。
混乱。
迷走。
中断。
部員たちが恐怖しているのが肌で感じ取れた。まるで舞台に潜む魔物に狙われたかのようだ。旋律を引き継いだ木管楽器のまとまりがなくなったように聴こえた。しかしまだ持ちこたえている。さらに旋律を引き継ぎフルートソロ。彼女が合奏を立て直そうと頑張り、それにホルンである蒲生が合いの手を入れる。さらにクラリネットが入ってきた。さっきよりも統制が取れている。そのよい流れはさらに楽団全体に伝染していった。
だけれどもどこか合奏が固いように楠本は感じた。アパラチアン序曲の序盤のようなのびのびとした音はどこかに行ってしまっている。先ほどの一瞬のミスやばらつきで合奏に不穏な空気が漂ったことで、魔物の再来を恐れて緊張しているのだ。
演奏が進んでいく。
ホルンからクラリネットに旋律が移った。この次がチューバが最も目立つ場所だ。
楠本は左隣りの蓮見をちらりと見た。
そして体を大きくゆったりと右に振って見せる。俺がそばにいる。大丈夫。壮行会の時のような事になっても俺がカバーする。そういった思いをこめて。
蓮見がちらりと楠本を見た。
藤岡が二人に視線を送る。それを合図に二人はたっぷりと空気を吸い込み、指揮者のキューと同時に温かい息を送り込んだ。チューバから重低音が放たれる。スローテンポな部分でテンポが速くなりがちだ。二人は指揮者とアイコンタクトを取りながら丁寧に演奏し、最後の長い音。やがてスネアドラムの打撃がはじまり、さまざまな金管楽器が参加してくる。この旋律は大成功だった。
再び主題の演奏に入る。部員たちは最初の生き生きとした音を取り戻していた。まるで様々な困難を乗り越えて登山に成功し、山の頂から辺りの青々とした景色を眺めているようだ。
終わりへと向けた伸びやかなトランペットのフレーズ。クラリネットの細かく速いパッセージ。クレッシェンドしてクラッシュシンバルが轟く。テュッティからティンパニが激しく打ち鳴らされ、この雄大な自由曲、アパラチアン序曲は赤岩中吹奏楽部のほぼ最高に近い音でバンっと決まった。
客席から大きな拍手が割れんばかりに贈られる。藤岡は振り返り、それに合わせて部員たちが立ち上がる。指揮者の一礼に合わせて全員が同じ動作をする。照明が落とされてあたりに張り詰めた空気が緩む。安堵、満足、達成感。それらはコンクール終了直後のこの僅かな時間でしか感じられないものだ。それらの気持ちに包まれながら入場したときとは逆の順番でステージを後にする。
「よくやったね」
舞台横の反響板の端に開かれたドアをくぐった楠本は蓮見にささやく。あたりは暗くてよく見えないが、きっと彼女は入場時と同じ表情をしているのだろう。
片手に持っていた楽譜を手伝ってくれている保護者達に預け、次に出番を控えている中学校を脇目に赤岩中は運営スタッフに誘導されて楠本を先頭に舞台裏から離脱する。やってきた時とは別の関係者通路を通ってロビーに到着。集合写真の撮影会場だ。
「はい、じゃあまず一枚目は真面目に撮るよ」
部員たちはパートごとにかたまって中央の藤岡の周りに集まる。彼女の隣には演奏を舞台袖で見守っていた副顧問がいつの間にか合流していた。小型の楽器は雛壇の上段へ、中型の楽器は中段へ上る。大型のチューバは一番下の端っこだった。毎年チューバはこの位置に陣取る。楽器をもって雛壇に登るというのは危険であり苦労する。それにこの位置が最も楽器がよく写るからだ。楠本は一番管を床に当ててベルを持ち、撮影の時まで待機する。隣の蓮見は楽器を抱きかかえている。
「撮りまーす」というカメラマンの声の直後に数回フラッシュが焚かれた。撮影者はファインダーから目を離し、液晶で先ほど撮影した写真を確認する。
「はい。二枚目撮りまーす」
一枚目は問題がなかったようだ。
そして次の二枚目がもっとも盛り上がるものだ。
「みんな、どんなポーズしてもいいからね。だけど中指立てるのはダメだよ」
藤岡は両手で中指を立ててそれを突き出して見せた。彼女のその言動で部員たちが打って変わって満面の笑みになる。そもそもここの部活にそんなファンキーな部員はいないけれども。
みんなはどんなポーズをするのだろう。後ろを振り返ってみると事前にパートで決めていたのだろう。それぞれ個性的なポーズをとっていた。ホルンパートは定番だが蒲生を筆頭に楽器を頭に被っている。
隣の蓮見は控えめにピースをしていた。それに微笑んで楠本はカメラに向き直った。特にポーズを決めたりおちゃらけたりするのは彼の趣味ではない。この自然な立ち姿がもっとも彼の個性を表していた。
「……はい、終わりましたー」
写真撮影が終了した。どのような写真が撮れたのだろう。ここで撮影した写真は出演者の名前や結果が印刷されてそこそこ立派な額縁に入れられて各学校に送られる。それが届いて音楽室前の廊下に飾られるのを楽しみにしておこう。
「これでまずはひと段落ね。この後は楽器をケースにしまってトラックに積み込み。トラックは最初の場所に来てもらうから集団で移動するよ」
「はい」
別の場所から楽器を搬出するパーカッションとは分かれ、管楽器のメンバーはケースを置いていたロビーの一角に移動する。そこには出番を控えている別の学校が楽器を取り出しているところだった。彼女たちとは逆に楽器を収納する。こういう時も金管楽器は楽だ。取り外したマウスピースの内部をハンカチなどで軽く拭ってケースに入れるだけだから。本来ならば機関部などにオイルを注したりするのだが、ごった返しているこの状況でそんな悠長なことはできない。明日の学校で念入りに整備しよう。
木管楽器はさすがにそういうわけにはいかない。管体が木でできており、トーンホールをふさぐためのタンポだってフェルトでできている。楽器内に残った水分や湿気などでダメージを受けるのだ。彼女たちは手早く管内にスワブを通し、タンポに付着した水分を除去してケースに収納する。
全員の片付けが終わったことを藤岡は確認するとスタッフの誘導を受けながら集団でトラックに向けて移動した。ここでも出番を控えた他の学校が楽器を降ろしていた。しばらく待っていると裏口でパーカッションを積み込んだトラックがやってきた。運転手は手早く車体後部のパワーゲートを準備する。積み込みは今朝と同様チューバからだ。楠本は運転手に楽器を預けた。
「ニイちゃん、頑張ったなぁ」
「ありがとうございます」
思ってもいなかった運転手からの労いの言葉に楠本は頬が緩んだ。積み込みが終わった彼は端っこのほうに移動して他の人の作業が終わるのを待つ。積み込みが終わったトラックはこのあとすぐに学校へ移動する。そちらで別動隊の保護者やOBOGの有志が積み下ろして音楽準備室へと戻してくれるのだ。現役部員たちは彼ら彼女らのおかげでこの後は他の学校の演奏を聴くことができる。
あっという間に積み込み作業は完了した。藤岡は運転席に座る運転手と事務連絡と挨拶を交わしたのちにトラックを送り出した。
「これからまずは昼食ね。広場で保護者たちが準備してくださっているからついてきて」
昼食を済ませたのちにトイレ休憩を入れて部員たちは客席に来ていた。宮崎市民文化ホールの大ホールは二段階構造になっている。楠本達はその二階席で他の学校の演奏を視聴していた。演奏が美しいからなのか、それとも本番が終わって疲れが出てきたからなのか。あたりはみんながうとうとしていた。それは楠本だって例外ではない。
「先生、トイレに行ってきます」
「行っトイレ~」
藤岡のつまらないギャグを受け流し、楠本は演奏と演奏の合間のドアが開放されるときを狙って客席を離脱した。睡魔に襲われている時間というものは気持ちの良いひと時であるが、それが起きておかなければならない状況下であれば苦痛でしかない。尿意を催していたからというのもあるが眠気覚ましという意味もある。寝ぼけてその場で漏らしてしまったら最悪だ。
「あ、蒲生さん」
用を足してトイレから出ると、隣の女子トイレからほぼ同時に蒲生がでてきた。
「……覗き?」
「そんなことしないよ」
「他校の生徒なら楠本って分からないものね。それにこれだけ人が多ければ人込みに紛れ込めるし」
「だからそんなことしないって」
「頭いいわぁ~。さすが楠本拓海」
同じタイミングでトイレから出てきたからなのか、それともトイレから出てくるところを見られたからなのか。蒲生は最悪の冗談を飛ばしてくれた。周囲の他校生の怪訝な視線が痛い。本名を晒すのも勘弁してもらいたかった。いつもは苗字だけで呼んでいるのに。
そんなやり取りをしながらも二人は近くのホール入り口へと向かった。しかし会場内は演奏中で客席に入ることはできない。次にドアが開くのはおよそ十分後。それまで近くの壁に体を預けて時間を潰すことにした。
「アパラチアン、やばかったよね」
「荻野のやつ? 責めるつもりはないけどヒヤッとはしたよ」
「壮行会のときみたいになるかと思ったわ」
「今回は完全に事故らなくてよかったよね」
音の空振りは事故といえば事故だが、壮行会の時みたいに完全にバラバラになって演奏が止まるような事故に比べたら可愛いものだ。
「そのあとのチューバソロで立て直したじゃない」
「今回は俺もいたからね」
「言うじゃないの。このこの~」
と楠本の横腹を蒲生がつつくがそれはやめて欲しかった。楠本は年ごろの男子中学生。彼女に惚れてしまいそうだ。それに加えてロビーには同じ部活の後輩たちが数人いて彼女たちはこちらをチラチラと見ている。学校に帰ったら惚れた腫れたの噂が立ってしまうじゃないか。
「でも一番の立役者はフルートのファーストだよ」
「そうそう。コンミスも立て直そうとしていたしね」
「それに蒲生さんもいい合いの手入れていたじゃない」
「凄いでしょ~」
彼女は鼻を高くしている。あの演奏はなかなかに自信があったようだ。たしかにあれは同じ舞台にいた楠本にとっても聴いていて気持ちがよいホルンだった。
それにしてもあの失敗から約三週間。実感はなかったがたったそれだけの短い期間でもここまで成長したのか。ミスを連鎖させるのではなく、その場で断ち切る。それはあの失敗があったからこそ身に付いたことなのかもしれない。
会場のドアがスタッフによって解放された。演奏がひと段落したようだ。
「それじゃあ戻ろうか」
楠本と蒲生の二人は壁から体を起こした。
今年のコンクールも残り二、三校でおしまいだ。
「それでは、プログラム順に各賞を発表してまいります。なお金賞の場合には頭にゴールドとつけて発表させて頂きます」
コンクールに出場するすべての学校の演奏が終わった。審査員の評価の集計も終わりいよいよ表彰式が始まった。舞台には各学校の部長が並んでいる。当然、ここの吹奏楽部の部長である小柳も舞台に立っている。
「プログラム一番。
会場が拍手で盛り上がった。結果がどうであれこのコンクールに賭けた時間や努力に対する称賛の拍手だ。それは同じ音楽を嗜む者としての儀礼でもある。
「二番。
銀賞とは中間にあたる賞だ。
審査員はA、B、Cで演奏を評価。半数がAと評価すれば金賞。C評価が半数で銅賞となる。それのどちらにも属さない評価だった場合に銀賞となるのだ。その銀賞にはあと一票で金賞だった場合もあれば、あと一票であわや銅賞だった場合もある。
果たして彼女たちにとっては無念の銀賞なのか、それとも安堵の銀賞なのか。
「三番。小林市立
その学校は楠本たちのすぐ隣に座っていた。
多くの部員たちがハンカチで顔を押さえていた。それは部外者である楠本も見ていて心が痛む姿だった。
「四番。日向市立大公谷中学校、ゴールド金賞」
最初のゴールド金賞のアナウンスに歓喜の雄叫びがあがる。その声はもはや悲鳴だった。この絶叫こそがコンクールの風物詩であり醍醐味でもある。
喜びの余韻が鳴りやまぬまま、表彰は次の学校へと移っていく。
「五番。宮崎市立
連続でのゴールド金賞だ。
場所が変わり一階席で雄叫びがあがった。吹奏楽部というものは女子部員が多い傾向にあるが、その声は女子から出た声とは思えないほどに迫力がある。
その後も表彰は淡々と進んでいく。アナウンスの間には会場全体が拍手で盛り上がり、ゴールド金賞が読み上げられるたびに空間が悲鳴で切り裂かれる。
そしていよいよ楠本たちの学校の順番が回ってきた。
周囲を見回すとほとんどの部員がハンカチやお守りをぎゅっと握りしめて祈っている。
「二十一番。日向市立赤岩中学校、銅賞」
楠本の隣で蒲生が嗚咽した。
彼女はハンドタオルで顔を抑えたまま嗚咽を漏らす。
ホール全体から労いの拍手が送られるが、彼女にとってはただむなしい雑音に聞こえたのかもしれない。
初めてのコンクールである一年生たちはこの場の空気に戸惑っている。二年生たちは来年があるとはいえ本気で悔しがり二人で体を寄せ合って悲しみを分かち合っている。楠本も蒲生とその気持ちを分かち合えたらと思ったが、彼と彼女は男と女。それをすることはできなかった。
楠本は気持ちを顔に出すようなガラではない。しかしそれでも彼は悔しかった。コンクールは楽団全体の演奏が評価される。それでもチューバ担当としてもっと成長できたのではないか。もっと蓮見を上達させておくことができたのではないか。今になって思う。もっと事前に準備することができたと。
宮崎県吹奏楽連盟の役員による講評も終わり、発表会が終わった。これで今年のコンクールもすべて終了だ。他の学校が続々と会場を退出していく。
「それじゃあこれから帰りのバスに移動するから迷子にならないようについてきて。もし迷子になったら来年迎えに来るから待っていてね」
藤岡の冗談で泣き腫らした部員たちの顔に笑いが戻った。
赤岩中学校のメンバーたちは会場後方にある出口からぞろぞろと退出し階段を使って一階に降りる。正面玄関から外に出るとそこの広場にはまだ多くの学校たちが残っていた。これは迷子になるのは難しいことではない。楠本は人込みをかき分けながら必死に前の部員を追った。来年迎えに来てくれるとしても待ってはいられない。そもそも来年の彼は既に高校生になっている。
広場を抜けて通路に出ると周りの人は疎らになってきた。歩いているのはほとんどが赤岩中学校の部員たち。宮崎市民文化ホールの敷地を出て交差点を渡り、住宅地を右手に見ながら長い坂を歩いてバスの駐車場へと足を進める。この道を歩くのはこれで三回目だ。初めてのコンクールの帰り道、銅賞に終わったが初めての体験をしたことで何とも言えない達成感があった。その感覚を今でも味わっている。
感傷に浸りながら足を進めていると背後から悪趣味ないつもの会話が聞こえてきた。
「なぁ荻野、トランペットソロをミスったのはチューバが変なことしたからだろ」
「ああ、全部ノーサウンドのせいだ」
「ノーサウンドの顔を見てみろよ。全然反省してないぜ」
「お前のせいで俺がミスったんだ。俺に謝れよ」
「銅賞になったのは全部ノーサウンドのせいなんだぞ。みんなに土下座しろよ」
彼らはゲラゲラと下品な笑い声をあげるが、楠本は特に相手をすることはなかった。彼らが言っているトランペットソロの部分どころか課題曲自由曲を合わせて特に目立った失敗はしていない。専門家から見たらまだまだ改善できるような部分もあるが、音を外したりテンポがずれたりといったような他のパートを巻き込む事故は起こしていない。あのトランペットソロのミスは荻野が勝手に自爆しただけだ。そういえば彼は本番前に「俺は全然緊張していない」といっていたな。あの事故は彼の慢心が招いた結果だろう。宗太郎の話を素直に聞いていたらこんなことにはならなかったかもしれないのに。
「何か言えよ!」
相手にされないことに苛立ったのだろう。荻野は楠本に罵声を浴びせ、彼の膝の裏側を思いっきり蹴りつけた。体勢を崩した楠本をあざ笑って彼らは抜き去っていった。
ふと後ろを振り返るとその一部始終を見ていた後輩たち。彼女たちは気まずそうな表情をしていた。別に気にしなくてもいいから、と楠本は軽く手を挙げて再び歩き始めた。罵詈雑言や暴力を振るわれるのはいつもの事。それよりも止めに入った他の人が部活内で居心地が悪くなることを彼は恐れていた。
長い坂道の途中にあるバスが待機している駐車場に到着した。バスの入り口では先に到着していた藤岡がカウンターを使って部員たちを数えていた。楠本は彼女にカウントされたのちに運転手に挨拶をして来たときと同じ座席に着席した。
やがて後続してきた部員たちも乗り込み、最後に藤岡が車内の通路を後方へと移動しながら部員たちを数えていく。最後に各パートリーダーに各パートの人数が揃っているか確認させて報告させた。
「トリプルチェック、ヨシ!」
藤岡は片足をあげるヘンテコなポーズで指をさした。この姿勢はなにかの流行りだろうか。
「まぁトリプルチェックって他の人をアテにするから意味がなかったりもするんだけどね」
なんとも恐ろしいことを呟きながら彼女は楠本の隣に腰を下ろした。本当に蓮見は乗り込んだだろうか。楠本は勢いよく立ち上がって蓮見がいることを再び確認した。
大丈夫だ。彼女は確かに乗っている。
「楠本は心配性だねぇ」
「先生が恐ろしいことを言うからですよ」
「そんなに心配なら先生がダブルチェックしてあげよう」
そう言って彼女は楠本と同じ体勢になり、
「蓮見、ヨシ!」
車内によく通る声で指さし確認を行った。
突然名前があがった蓮見はきょとんとした顔になり、他の部員たちは顧問の突然の奇妙な行動に大笑いしていた。
その笑い声からは先ほどの悔しい気持ちは感じられなかった。心のどこかにその気持ちが残っているだろうが、少なくとも今回の結果を次に繋げようと切り替わっている。いつもの部活の空気が戻ってきたのだ。もっとも藤岡の謎の行動に巻き込まれた蓮見にとってはたまったものではないかもしれないが。
全員揃っている旨の報告を受けてバスの入り口は閉鎖され、車体はゆっくりと動き出した。これから本拠地である日向市に戻るのだ。のっそりと旋回をしてバスは車道へと進入する。
藤岡が携帯を取り出してどこかに電話を掛けだした。通話はすぐに繋がったらしく、結果は銅賞だったこと、今は帰りのバスの中であることを話している。
「はい皆聞いて。宗太郎先輩と電話が繋がっているから」
彼女はワイヤレスのマイクで説明すると携帯のスピーカー部分にそれを近づけた。やたらと親しげだと思ったら相手は宗太郎だったのか。
「もしもーし」
「聞こえているよ」
藤岡が音響の状態を説明すると宗太郎が話し始めた。
「みんな、まずはお疲れ」
「お疲れ様でーす」と部員たちが疎らに返事する。
「いろいろ思うものがあるだろう。だから長々と演説するような野暮なことはしないぞ?」
正直、コンクール直前の練習で行われた彼の演説をもう一度聞けると楠本は期待していた。それが聞けないということで残念な気持ちもあった。しかし今のセンチメンタルな精神状態ではいくら彼が良いことを言ったとしてもそれは楠本の心の中に留まらないだろう。今回の総まとめは個人それぞれで行えという彼なりの思いやりなのだ。
「俺から言えることは一つだけ。銅は「金と同じ」と書く。しかし「どうしよう」とも読める。この評価に満足してここに留まるのもいいだろう。これを機に生まれ変わるのもいいだろう。正解も不正解もない。どちらを選ぶも君たちの自由だ。以上」
その後宗太郎と藤岡は軽い世間話をして通話を切った。いつの間にかバスは宮崎市中心部に入り、国道十号線に乗っていた。あとは日向市まで一直線だ。
「次は部長から一言」
パチパチと拍手で迎えられ、小柳がその場に立ち上がった。彼の元へマイクが回されていく。
「みなさん、今日はお疲れ様でした」
小柳は部長としての講評を述べる。
みんなはこれまで努力してきた。これからはもっと上手くなれる。
そんな歯が浮くようなことばかりだったが、楠本は熱心に耳を傾けた。彼のことがあまり好きではないからといって無視するようでは、それこそ彼らと同じレベルに成り下がってしまう。
スピーチがひと段落したところで小柳の隣に座っていた荻野がマイクを奪った。そして一言コメントを入れる。
「みなさん、自由曲でソロを失敗してすみませんでした」
後輩たちがちらほらと首を振ってそれを否定する。楠本も気持ちは後輩たちと同じだ。人を責めるのは楽だが自分の反省点が見えなくなる。さらにそれを口に出したら自身の評価が下がるし、何より自分自身が罪悪感に苛まれるようになる。なんであの時あんな事を言ったのだろう、と。
しかし小柳はしおらしくしているが自分のミスをチューバに押し付けていたのは誰だっただろうか。銅賞になった責任をすべて楠本に擦り付けていたのは誰だっただろうか。坂道での事件を目撃していた数人の部員はなにやら言いたげな表情をしていた。
「今日で一つの大きなイベントが終わりました。次に待っているのは数か月後のテイエンです。今回は銅賞に終わってしまいましたが、テイエンでは後悔のない演奏ができるように明日から頑張っていきましょう」
スピーチが終わり周囲にペコペコと会釈する小柳と荻野に対して称賛の拍手が送られる。事あるごとに何か一言を求められるのが部長や副部長という役職だ。果たして来年、再来年は誰が部長を務めるのだろう。
マイクはつぎつぎと前へと渡っていき、藤岡の元へと到着した。
「はい、じゃあ宗太郎先輩が言っていたように長い話はしないからね」
彼女が通路に立ち後ろに向かって話す。
「まずはみんなお疲れ様。到着してから本番まであっという間だったね」
楽器の積み下ろしに始まり楽器を取り出し、チューニングと軽いリハーサルをしてからすぐに本番。初めてのころはあのスピードに戸惑うと同時に洗練された運営スタッフに驚いたものだ。
「ところでこれは何だと思う?」
そういって藤岡は大きな封筒をひらひらと振って見せた。
「この中には審査員からの評価が入っている。どこが良かったとかどこを改善したほうがもっと良くなるとかね。でも今日は開封しないよ。今後の指導の方針には組み込むけど、みんなに直接は見せない」
ざわざわとした空気が肌で感じ取れた。
「だからそれぞれ個人個人で今日の演奏はどこが良くてどこがダメだったかを思い返してほしい。部長たちの話を否定するわけじゃないけど、明日からじゃなくて今日から。バスが到着するまでに考えろとは言わないけど、家に帰って寝る前にでも考えて」
学校に到着すれば祖母がタクシーで迎えに来る。そして家に帰ったらお土産話を聞かれることだろう。疲れていることもあり今日はそんなに遅くまで起きておくつもりはないが寝る前の少しの時間に考えることにしよう。
「それと一年生、さっき部長がテイエン、テイエンと繰り返していたけど、テイエンってなにか分かる人」
それじゃあ、そこ。と蓮見が指名された。
「ベートーヴェンの交響曲です」
「それは田園」
ところどころからクスクスと笑い声が漏れる。
二年前の楠本と全く同じことを言うんだね。藤岡の一言に車内が爆笑に包まれた。
「定期演奏会、略してテイエン。日向市民文化センターを貸し切って行う演奏会で、三年生の最後のステージ」
社内がしんと静まり返った。吹奏楽部の二大イベントのうち一つが終わったのだ。次の大きなイベントである定期演奏会まで小さな本番は何回かあるが、それらはあっという間に過ぎ去り二、三カ月には定期演奏会がやってくる。それが終われば楠本たち三年生は引退。彼らは楽器を置いてペンに持ち替え、高校入試の勉強に励むことになる。
部員たちは吹奏楽コンクールが終わってホッとしていたが、それは別れの時期が目前に迫っているということでもあった。
「それと定期演奏会にプロの演奏家が来てくださることになったから。お客さんじゃなくて出演者のほうで」
一体どのような人脈があったのだろう。失礼だが音大を出ているとはいえまだ三十代前半の藤岡にそのようなコネクションがあるとは思えなかった。それは楠本だけではなく他の部員たちも同じように考えた。全国出場校ならともかくこんな弱小校の演奏会に出演だなんて。
「埼玉フィルハーモニック交響楽団ってプロオーケストラの栗野鳴海ってホルン奏者なんだけど、ここの吹部の卒業生だって。だからみんなの大先輩」
卒業生にプロがいるって蒲生先輩知ってました? ううん、知らない。黄金世代の卒業生かな? 私はサックスのプロだったら聞いたことがあります。オーボエのプロもいたよね? あたりでヒソヒソとそのプロが誰なのかの推測をしている。
「たしか宗太郎先輩とほぼ同世代だったかな? 三十代になったばかりの若い女性」
予想外の経歴に車内が騒めき立った。
宗太郎と同世代ということはもしかしたら一回目の暗黒時代を知っている先輩なのかもしれない。しかしそのような時代からプロを輩出することができるのだろうか。いや、吹奏楽は団体戦だ。一人が突出してうまくても他がボロボロならば銅賞となる。きっとそのような状況で埋もれていたのだろう。
「栗野先輩との練習は九月下旬と定期演奏会開演前のリハーサルの二回だけだからそのつもりで準備しておいて」
帰ったらネットで調べてみよう。栗野……なんといったかな。たしか楠本の名前に似ていた気がする。後で藤岡に確認しなければ。
「それと最後にもう一つ。部活のみんなでバスに乗ってどこかに行くっていうのはコンクールの時しかない。三年間続けてもたった三回だけ。貴重な経験だからこれもよく味わって。漫才をしようが恋バナをしようが誰にも文句は言われない。反省会は学校に帰ってからでいいからまずは今この瞬間を楽しんで」
藤岡はマイクの電源を切って自身の席へと戻った。それからしばらくして車内は発車時のざわめきが戻ってきた。この帰りのバスのざわざわとした空気もコンクールの風物詩なのだ。
「楠本、長い間お疲れ様」
今日はあらかじめ藤岡に伝えていたラストステージだった。彼女は楠本の隣の席に腰を下ろし、楠本をねぎらった。
「今日の本番はどうだった?」
「記憶に残る本番でした。今回のステージでやりたい事が見つかりましたよ」
「そっか」
藤岡は複雑な表情をしていた。楠本が楽器を置いて新しい別のステージに進む。それは音楽に携わる者としては寂しい話であるが、教師としてはうれしい話であった。
しかし彼女は大きな勘違いをしている。
「俺は蓮見さんの成長を見守りたいんです。いや見守らなければならないというか」
今の蓮見は基本的なことはできている。しかしこれからも教えないといけないことが残っている。彼女を独り立ちさせるのはまだまだ早すぎる。
蓮見の成長を見守る。それは楠本の希望でもあり、先輩としての義務でもあった。ただでさえ希望者が少ない低音楽器。それに何かの縁があって偶然配属されたのが蓮見なのだから。
「それじゃあ……」
「辞めませんよ、俺は。定期演奏会まで蓮見さんを見守らなければならないので」
定期演奏会とは引退の日。辞めるではなく引退。その最後の日まで蓮見の成長を見守りたかった。いや、楠本の先輩たちがそうやっていたように、定期演奏会が終わっても卒業の日まで時々顔を出すだろう。中学校を卒業してもたまの休みに遊びにくるかもしれない。
「成長したね」
「はい、チューバを持つ理由が変わりました」
これまで楠本は自分のために部活をやっていた。それはこれからも変わらない。しかしそこに蓮見のためにも続けたいという感情が芽生えた。それは照れ臭くて今までに考えたことがなかったが、誰かのために楽器を持つ。素晴らしいことじゃないか。
部活を辞めるだなんて誰にも言わなくてよかった。もしそれを言っていたとしたら、明日はもっと照れ臭いことを言わないといけなくなっていただろう。
外を流れていく景色を楠本はぼんやりと眺める。さっきまで明るかったのに、あっという間に暗くなっている。
定期演奏会までは吹奏楽を続ける。
だけど高校では吹奏楽はしない。
大学生、社会人になっても楽器とは関わらない。
部活動中でありながらくつろげるこのひと時の時間。荷が下りた解放感からわいわいとざわめく車内。夕闇に包まれながら走り続ける貸し切りバス。これらを味わえるのは今回が最後だ。
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