第9話

トロンボーンボーンのファースト! そこはメゾフォルテ! めちゃフォルテじゃない!」

 コンクールまで残り二日。

 練習はこれまでにないほどに熱が入っている。午前中から始まった練習だが五時になった今でも部員や顧問の集中力はまだ続いている。これが強豪校になると夜遅くまで練習することもあるらしいがそこまで厳しい練習はこの学校ではやっていない。

 蓮見の隣では宗太郎が様子を見守っている。たまたま暇になった彼は今日も遊びに来てくれたのだ。午前中の個人練習、パート練習の時間ではそれを手伝ってくれた。

トロンボーンボーンだけで同じ部分」

 藤岡が指揮棒をあげて指定されたパートが合奏する。指揮者が空いている左手で音を抑える指示を出した。トロンボーンのファーストを担当している小柳に音量を下げる指示を出したのだ。

「それじゃあ全員で同じ部分」

「はい」

 その合奏は一、二カ月とは比べ物にならないほどに統制が取れていた。それでもまだまだ改善するべき場所は残っているけれども。

「今日はここまで。それと明日の部活なんだけど、コンクールまで休みにしようと思う」

 藤岡の驚きの発言によって音楽室はざわめいた。

 コンクールまで残りの練習は一日。時間としては短いがそれでも大会前の大事な練習時間だ。わずか一日の練習で大会結果が変わることもあるかもしれない。部員がその提案に対して動揺するのは当然だった。それに加えて他の部員は知らないが、楠本はコンクールを最後に部活を辞めると決めている。本番の直前にリハーサルがあるがそれはウォーミングアップとチューニングの時間であって練習時間ではない。藤岡の提案はもう楠本はチューバの練習ができないということを意味していた。

「疲労回復とかリフレッシュとかそういう意味で休みにするんじゃない。この二日間で自分たちがどうして吹奏楽ができるのか考えてほしい。自分たちが使っている楽器は自分たちで買ったもの? 違うでしょ? 親が出してくれた部費や地域の人々から集めた税金で購入している。それにコンクールで演奏する課題曲や自由曲は一人で演奏できる? それは吹奏楽曲であって独奏曲じゃない。これだけ部員がいるからできているんじゃないの?」

 楠本はチューバしか吹けない。もしトランペットを渡されたとしてもマウスピースで苦戦する。トロンボーンだったら音は出せるかもしれないが正しい音程は出せないはずだ。

 それは蓮見や蒲生、小柳や荻野にも当てはまることだった。蓮見はチューバ、蒲生はホルン。楠本を「ノーサウンド」「いないほうが良い演奏ができる」という小柳や荻野もそれぞれトロンボーンとトランペットしか演奏することができない。

 チューバは比較的音を出しやすい楽器だ。しかし音を出すことと演奏することは違う。その楽器を専門的に練習していない者はその違いに気づかないものだ。

いくら拒絶しても小柳と荻野はチューバを楠本に頼るしかなければ、楠本もまたトロンボーントランペットを小柳と荻野に頼るしかない。

「宗太郎先輩は国家公務員。そんな彼も三十代後半になってやっと自分のチューバを買うことができた。出費とかいろいろ切り詰めてやっと買うことができたんだって。それに楽器店のレンタルスタジオじゃないと音を出せないから練習にもお金がかかる」

 突然話題にのぼったことに驚いたのだろうか。廊下でミーティングが終わるのを待っていた宗太郎は驚いた顔で音楽室に入ってきた。

「吹奏楽は金がかかる。そんな部活を月々数千円の部費だけでできるって幸せなことなんだよ? 親が出してくれた部費や地域の人々の税金だけじゃない。吹奏楽部となんの関係もないのにコンクールや定期演奏会が近づくとカンパを持ってきてくださる方もいる。宗太郎さんみたいに練習を手伝ってくれる卒業生だっている」

 指揮者の隣で宗太郎が苦笑いした。

「毎日のように練習しているけど普通はありえないことなんだぞ。練習場所はこれだけの人数が入ることができる広さが必要だけどそんな場所は学校以外にある? それに地域の方々が吹奏楽部の練習を理解してくださっているからここで活動ができている。管楽器なんて自宅でやったら速攻で苦情が来るぞ」

 楠本の自宅は赤岩中学校よりも近くに流れる塩見川の向こうにある富高中学校のほうが近い。生まれたころから今の自宅に住んでいる彼は塩見川の対岸から聞こえてくる吹奏楽部の音を聴いて育った。彼にとってその音は夕方や土日などの風物詩のようなものであり、幼いころには祖母と一緒に縁側に座ってその演奏を聴いていた。

 楠本は近所から聞こえてくる楽器の音をうるさいと思ったことはない。小さいころからそれを聴いていたこともあり、そもそも彼は気が長くあまり腹を立てたりしない性格だ。彼と違って短気で神経質な人間ならば吹奏楽部の音というものは苦痛なのかもしれない。合奏の音ならばともかく全ての楽器がバラバラに演奏する個人練習ならばなおさらだ。

「それにこれだけの部員が集まったからコンクールにも出られる。人数を集めたいんだったら簡単だ。全生徒を部活動に強制入部させればいいだけだから。だけどそんなことはしない。そういう手段で集めても意味がないから。この中に強制的に入部させられたひとはいるか? ここにいる部員は吹奏楽をやりたいと思ったから今ここにいるんだ。純粋に音楽をやりたかったからかもしれないし、中には高校入試の内申点狙いのひともいるかもしれない。だけど動機はどうであれ仲間であることには違いない。これまでに家庭の事情で部活ができない生徒だっていたし、学校の成績が悪くて部活を辞めないといけなかった生徒だっていた。転校先に吹奏楽部がなかったという生徒も知っている。親がたまたま赤岩中の校区に住んでいて赤岩中には吹奏楽部があった。だからこのメンバーが揃うことができたんだ。部活ができる環境にいたから部活をできているんだ。ここまでの話を踏まえて「どうして吹奏楽ができるのか」ということを休みの二日間で考えてほしい。ここの楽団には楽器を使った練習よりもそれを考えることが大事だと思ったから、そちらのほうがより成長すると思ったから休みにする。部活が再開されて答えを聞いたりしないから自分なりの答えを出してほしい」

 部員たちは全員が真面目な表情で藤岡の話を聞いていた。これまでにさまざまな事情で退部した部員が数人いたし、親の猛反対によって入部することができなかった見学者たちもいた。部活を続けている部員や希望通り入部することができた部員と比べたらそれらはごく少数。それは偶然なものだ。続けることができなかったのが隣の席の人だったかもしれない。自分自身だったかもしれない。この音楽室にこのメンバーが集まったのは必然ではなく偶然なのだ。

「終わったあとに「休みにしなければ金賞獲れたんだ」とか言うなよ」

 それで藤岡の言いたいことは言い終わったようだ。

 金賞だなんてとんでもない。

 今のこの楽団は銅賞を脱出できるかどうかというところだ。結果が変わってもギリギリ銀賞といったところだろう。楠本は去年のコンクールのことを思い出していた。どこの学校が金賞だったかまでは覚えていないが、そのような好成績を収める学校の演奏は同じ中学生とは思えないほどに演奏技術が高かった。楠本たちは彼女たちのレベルにはまだまだたどり着けない。

 そもそも部活というものはあくまで生徒の教育を目的とした制度だ。中には部活から初めてプロになった事例もあるが、部活というものはプロを養成するためのものではない。当然優秀な成績を残したほうが気持ちがいいし、それを目指す過程が生徒の成長につながる。しかしここの吹奏楽部には「金賞を目指して協調して努力する」という段階にはまだ達していない。もっと根本的な「仲間を大切にして協調する」という段階なのだ。もっとも、コンクールを最後に退部する楠本はそのような経験をすることはできないが。

「それを踏まえて最後に合奏。アナウンスから始まって課題曲から自由曲まで通すよ」

 アナウンスお願いね、と藤岡は体を廊下に向けながら宗太郎に依頼した。

「了解」と返答し、彼はアナウンスを入れる。

 それが終わると藤岡が誰もいない廊下に一礼する。教室内に向き直ると片手で指揮棒をあげた。それに合わせて部員たちが一斉に楽器を構える。

 もう片方の手で手元のストップウォッチのスイッチを入れると同時に藤岡が指揮棒を振り下ろす。

 コンクール前の最後の合奏が始まった。


 自由曲の演奏まで終わり、藤岡が指揮棒を降ろした。片手で止めたストップウォッチの時間を読み上げた。十二分以内に収まっている。これならば失格にはならないだろう。

「これで今日の練習は終わり。それじゃあ最後に宗太郎先輩から一言」

「え? 俺っすか?」

 合奏が終わるとすぐに宗太郎が指名された。それに彼は驚いた。

 このコンクール前の時期の全体練習終了時に遊びに来ていたOBOGはもれなく一言コメントするように求められるのだ。

 今の部員は宗太郎の存在を知っていても彼が練習の締めに一言を述べる姿を見たことがない。

 それじゃあ、と宗太郎は藤岡と入れ違いに指揮者台に立つ。引き締まった彼の表情と姿勢を見て、全体にピリピリとした空気が漂った。

「手を挙げなくていい。二、三年生の中で本番は全く緊張しないというやつはいるか?」

 楠本は一年生のときのコンクールを思い出していた。舞台のそでで一つ前の学校の自由曲を聴きながら待機しているとき。前の学校の演奏が終わり照明が消灯されたステージに足を踏み入れたとき。照明がついて学校名がアナウンスされたとき。

 徐々に緊張が高まり、指揮者のタクトが振り下ろされると同時に絶頂を迎える。あの感覚は今でも覚えている。その後に様々な本番を経験して徐々に舞台慣れしていったが、今でも緊張する。緊張のあまりステージにあがるときは唇が引きつってしまう。

本番は練習で合奏するのとはわけが違う。本番というものはその前に必ず待機時間が発生するのだ。その時間で唇や楽器のコンディションが変わる。その状況から事前の音だしをせずにいきなり音を出すというのは誰だって緊張するだろう。

「いいか。本番で最も面倒なのは全く緊張しないやつだ」

 宗太郎は時間をおいて断言した。

「たまに本番で緊張しないことを凄いと思っているやつがいるが全然そんなことはない。そいつらは「俺は良い演奏ができない」と言っているようなものだ。そういうやつらに限って「俺はうまい」と変な勘違いをしている。スポーツ心理学に『逆U字理論』というものがある。適度に緊張した状態が最もよいパフォーマンスをすることができるという理論だ。これは音楽でも同じことが言える。情緒的混乱にある極度の緊張状態でもなければ注意散漫になる無緊張状態でもない。適度に緊張した状態で本番に臨むように心がけることだ」

 たしか保健体育の教科書に似たようなことが書かれていた。一年の時の体育の自習時間、周りの生徒が生殖器の断面図でわいわいと騒いでいるのを傍目に、楠本はその記事を熱心に読み込んだ記憶がある。

「これに一つ音楽的な見解を付け加えるとするならば、音楽には観客がいる。コンクールは技術を競い合うものだが何が得点になると思う? ピッチ? 音色? もちろんそれは当然だ。だが俺は審査員をどれほど感動させることができたかが得点になると思う。審査員も観客みたいなものだ。成績云々を抜きにしてもその観客にみっともない演奏を聴かせたくはないだろう? そう考えれば自然と緊張するはずだ。緊張をするということは観客に変なものは聴かせないという心構えみたいなもの。言い換えればステージに立つ者の義務みたいなものだ。自信を持つことはいいことだ。しかし自信を持つことと緊張しないことは違う。よく覚えておけ。それと一年生は初めての本番だろう。その時の緊張感をよく覚えておくようにな。経験したことや感じたことは全てこれからの人生の財産になる」

 楠本は先日の壮行会のことを思い出していた。蓮見の吹奏楽部で初めての本番である壮行会で彼女は失敗してしまった。それは思い出したくもない記憶として残っているだろう。はたしてそれは宗太郎のいう「これからの人生の財産」となるだろうか。それは蓮見次第であることは確実だが、それでも楠本は先輩として気になってしまう。それが負の財産とならなければいいのだが。

「それともう一つ。これまでにどこかで悔いのない演奏をするように言われたことがあると思う。言っておくが悔いの残らない演奏というものはない。自身に満点をつけたときにその人間の成長はそこで止まる。むしろ悔いは残らなければならない。悔いが残ったということは自身で今後の課題に気づけたということだからな。大事なのは自分の現状を認めることだ。以上」

 宗太郎が演説の終了を告げると拍手が巻き起こった。楠本と蓮見も当然、両腕と太ももでチューバをおさえ、空いた手で拍手を送った。宗太郎がここまで熱弁したことを楠本は見たことがなかった。

「ずいぶんと熱弁するじゃない。ここまで熱く語ったOBは初めてだ」

「ははは、一応幹部なので部下に演説する機会が多いんです」

「自衛隊のどこ所属?」

「ちょっと言えないとこ」

 得意げにそう答えた宗太郎に、緊張していた部員たちから笑いが漏れた。

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