第8話

 夏休みが始まった。

 楠本にとって中学最後の夏。

 コンクールまであと二週間。チューバを吹ける最後の二週間だ。

 学校敷地内に植えられた木に留まった蝉がミンミンと鳴く声に負けず劣らず、楠本は基礎練習をこなしていた。ロングトーンを終えてリップスラーにインターバルにスケール。となりの蓮見は壮行会の直後に基礎練習メニューに組み込まれた、動画投稿サイトでプロ奏者が紹介していた練習に悪戦苦闘していた。唇の調整、いわゆるリップスラーのみで上昇下降、そして最後にペダルトーン。この最後のペダルトーンに苦戦してはいるが、それでもこの短期間でずいぶんと成長した。プロ奏者は入部直後から練習するように紹介していたが、リップスラーに苦戦していた蓮見を見て、楠本が導入を見送っていたのだ。練習の効果が表れるのに三カ月は必要らしくコンクールには間に合わない。しかしこれから二年半近くチューバを吹く蓮見にとって遅すぎるということはなかった。

 二つ隣の被服室で練習している木管楽器の音が途絶え、「こんにちは!」と威勢のいい挨拶が聴こえてきた。どうやら先輩が遊びにきたようだ。挨拶を徹底しているのは運動部だけではない。吹奏楽部でもそれは徹底されている。来客が被服室を通過したということは、木管楽器出身でなければあと数秒で音楽室の前を通るだろう。宗太郎は身構えてチューバのマウスピースから口を離した。

 音楽室のドアから来客が入ってきた。金管群から威勢のいい「こんにちは!」が放たれた。その来客は楠本の先輩である、一世代前のチューバ担当の菱川だった。楠本の友人である菱川孝輔の姉でもある。

「チューバ貸して」

「音楽準備室にあります」

 世間話をする前に楽器を借りる。それはここの吹奏楽部出身者に共通する習性だ。楠本と菱川は手ぶりを交えてやり取りをする。菱川は音楽室を出て、隣の音楽準備室に楽器を取りに行った。菱川が現役のときに使っていた機体は楠本が使っているが、その機体のマイナーチェンジ前のモデルが隣の部屋に置いてある。配管(レイアウト)がほんの少し異なるだけで性能はほとんど変わらない。ここの低音パートは上級生が最新モデルを使い、後輩が古いモデルを使うということになっている。菱川が取りに行った楽器は蓮見がコンクール後に乗り換える予定の楽器だった。

 楠本は太ももに乗せていたチューバを床に置き、蓮見に指示を出す。

「ちょっと椅子と譜面台を外側にずらして」

 蓮見もチューバを床に置き、備品を指示通りに移動させた。

 さて、先輩の椅子はどこに置こうか。楠本は悩んだすえ、自分の左側に設けることにした。蓮見の左隣に楠本が座っているように、菱川が現役だった頃、彼女はいつも楠本の左側に座っていた。楠本は自分の座席と譜面台を蓮見のほうへとずらすと、ステージの脇に追いやられていた椅子と譜面台を持ってきて、空いた空間に設置した。

 それが終わると同時に、隣の音楽準備室から菱川がチューバを抱えてやってきた。音楽室に整然と並べられた譜面台と椅子に楽器をぶつけないように器用に避け、楠本が準備したチューバの定位置に到着。彼女は軽く礼を述べて着席した。

 菱川が楠本の左隣にいる。懐かしさと同時に安心を感じた。

「先輩、これをどうぞ」

 楠本は足元の冊子類からオレンジ色のスケッチブックを取り出した。表紙の右下に赤岩中吹奏楽部のロゴマークのステッカーが貼られた、ボロボロのスケッチブック。本番で使われる楽譜が張られたもので、その中には菱川が最後の定期演奏会で演奏した楽譜が収められていた。

 菱川はそれを受け取るとパラパラとめくり、手書きの楽譜が張られたページを開けて譜面台に乗せた。

 吹奏楽の為のシンフォニエッタ。そのページを開くだろうなと楠本は予想していた。菱川に限らず、ここの部活のOBOGは遊びに来るとみんな揃ってこれを吹く。これも一種の習性のようなものだった。

「先輩、部活はないんですか?」

「うん。今日は顧問が出張で休みになったから」

 菱川は日向市内の普通科高校に通っている。彼女は高校でも吹奏楽部を続けていた。楽器はコントラバス。最初は中学で経験したチューバを希望したらしいが人員が足りていたらしい。しかし自ら低音楽器を希望する部員は希少種だ。そのため同じ低音パートで後継者がいなかったコントラバスに配置された、と楠本は聞いている。

「最近調子はどう?」

「順調です。後輩もそこそこ吹けるようになりましたし」

 楠本の右隣りでは蓮見が課題曲の練習に入っていた。低音パートの見せ所でもあるメロディラインを徹底的に何度も練習している。

「そうじゃなくて、人間関係とか」

 浩輔が話したのだろう。菱川家は姉弟の仲が良い。話が伝わってもなにもおかしくはない。

「いじめられたりしてるんじゃないよね?」

「……大丈夫ですよ」

 普段から暴力を振るわれていて先日は流血騒ぎも発生した、とは楠本は言おうとは思わなかった。部員が各学級で話したかもしれないが、少なくとも楠本のクラスではその話を聞いたことはない。浩輔経由で菱川に話が伝わっているとは思えなかった。いや、菱川が遊びにきて早々にこういう話をしたのだ。もしかしたら周囲が気を使って楠本の近くでは話していないだけで、それが浩輔を経由して菱川に伝わっているのかもしれない。

「そう、ならいいんだけど」

 どのルートで知ったのかは分からないが、それでも楠本は自ら今の状況について話そうとは思わなかった。菱川が通う普通科高校は学習内容が難しく宿題も多い。さらに部活にも入っている。そんな忙しい先輩にわざわざ余計な心配はさせたくはなかった。それにこの問題はあと二週間もすれば解決する。まさか「コンクールが終わったら退部するので、人間関係の悩みはなくなります」なんて口が裂けても言えなかった。しかも反対側には蓮見がいる。なおさら言えるわけがない。

「一応、宗太郎さんにも話しておいたから。ほら、あのひと、人の話を聞くのがうまいから」

「宗太郎さんですか」

 話題にのぼったのは二人の大先輩でもある、アマチュアのチューバ吹きだった。

「今度、話を聞きに遊びに来るって」

「大丈夫なんですか? 宗太郎さんってここのところ忙しいんじゃないですか?」

「最近遊びに来てないの?」

「そうなんですよ。いつもなら月に一回は来てはいたんですけど」

 チューバに限らず管楽器を嗜む者が一番悩むのが練習場所だ。ギターであればある程度壁が厚い家であれば問題ないが、管楽器は音量が比べ物にならない。そこで一般に利用されているのが楽器店のレンタルスタジオだ。完全防音の施設で周囲に気兼ねすることなく練習に集中することができる。しかし使用料が一時間につき約千円。宗太郎と呼ばれる先輩は中学校に来れば無料でチューバを吹き放題ということで定期的に遊びに来ているのだ。もっとも、後輩の育成という名目を掲げてはいるが。

「宗太郎さんって確か自衛隊でしょ?」

「自衛隊かどうかは聞いていませんけど、国家公務員だとは言っていましたね」

 海上保安官かもしれないし刑務官かもしれない。税務署職員のようなディスクワーク系の公務員かもしれないが、彼は一般人離れしたゴリゴリのマッチョマンだ。公安系の国家公務員だと考えるのが普通だろう。

「時期が時期だから、新入隊員の訓練とかで忙しかったんじゃない?」

 楠本に後輩ができたように、彼にも後輩である新入隊員が入ってきたのだろう。

「コンクール前に顔を出すって言っていたから、近いうちに来るかもね」 

 退部前にもう一度だけ彼と会えるのか。後輩の育成のために遊びに来ているといいながら、特に何かを教わったことはなかったな。楠本は心の中で苦笑いをする。彼に教わったことは音楽に関するマニアックな雑学ぐらいだ。

 コンクールをもって吹奏楽部を辞めることを菱川に話そうか。楠本の決意が揺らいだ。菱川はたまたま今日の予定が空いていたから部活に遊びにきてくれた。菱川も高校の部活でコンクールを控えている。これから二週間の間にもう一度都合がつくとは考えられない。

 菱川と会えるのは今日が最後だろう。彼女は定期演奏会に招待される予定だが、その頃には楠本は既に退部している。高校だって菱川とは別の学校に進学する予定だし、高校では吹奏楽部には入らない予定だから、コンクールや演奏会で顔を合わせるということもない。

 会話を終えてチューバを吹いている菱川を楠本は見た。

 左を向けば先輩が楽器を演奏している。それは二年前にはいつも見ていた光景だ。ここ最近、蓮見という後輩ができて菱川の気持ちを想像するようになった。感覚的なものをどのように言葉にして説明しようか。この練習方法を組み込んでも技術的にパンクしないだろうか。いつも楠本が蓮見を気にかけているように、菱川も常に楠本を気にかけていたはずだ。

 もし蓮見がいつの間にか退部していたら……楠本は後悔する。言ってくれていれば何か力になれたかもしれない。彼女が抱えた問題を自分が排除できたかもしれない。そう思うのは菱川だって同じはずだ。

 しかし楠本はその話を切り出す勇気はなかった。

 右には蓮見がいる。もし楠本が一年生のとき、菱川が「コンクールが終わったら部活を辞める」と言い出したら何を思っていただろう。きっと心細い思いをしたはずだ。コンクールの楽曲は一通り演奏できるレベルにはなっていたが、譜読みや音楽表現といった技術は菱川のレベルには達していなかった。コンクールが終わった後も定期演奏会で菱川が引退するまで、ずっと楠本は彼女に助けられていた。

 後輩としての楠本。

 先輩としての楠本。

 片方が立てばもう片方が立たない。その二つの立場に挟まれ、彼は話を切り出すことができなかった。


「拓海、ほら来てん。テレビでブラスバンドやりよるが」

 自宅に帰って自室で勉強していた楠本を祖母が呼びつけた。面白い番組があると呼びつけられるのは毎度のことだ。受験勉強中であってもお構いなし。

 楠本はペンを置いて居間へと向かった。テレビの画面の中では燕尾服を来たヴァイオリニストたちの一糸乱れぬボゥイング。田舎臭くて民族っぽい。それで壮麗で色艶やかでもあり、やるせなさも感じる楽曲が流れていた。

「婆ちゃん、何度も言ってるけどこれはオーケストラ」

「オーケストラっち言うとけぇ」

 祖母はうんうんと頷いているがきっと分かっていない。

「拓海、これはなんち曲け?」

「ボロディンの『韃靼だったん人の踊り』」

「韃靼人ってどこの国の人ね? 宇宙人け?」

「……どこだろう」

 後で調べてみよう。ほんの一フレーズだけだが今年の定期演奏会でも演奏する。楽曲について作曲された背景などを調べておくのは重要なことだ。確かこの韃靼人の踊りはオペラの中の一曲だったはず。そのオペラの内容も調べておかなければ。

「宮崎にドイツから楽団が来るっち聞いて若いころに爺ちゃんと聴きに行ったっちゃが。たしかこん曲演奏しちょったがねぇ。ちょっと待っちょきね」

 そう言って祖母は立ち上がり、ずいぶんと古いタンスの引き出しを漁りだした。取り出されたものは分厚く、そして縁がボロボロになった大きな複数の茶封筒だった。

「パンフレットをどこかに入れとったがねぇ……あったあった。これじゃが」

 長い年月を経て色褪せてはいるがそこそこ上質な二つ折りのパンフレット。広げてみるとそこに書かれたプログラムには『A.ボロディン:オペラ「イーゴリ公」より「韃靼だったん人の踊り」』と書かれている。演奏はドイツのバンベルク交響楽団。

「これの後に拓海が産まれたちゃが。よく覚えとるわぁ」

 表紙の端っこを見ると確かに楠本が生まれる前の年の日付が記されていた。


 とうとうコンクールまであと一週間と少し。練習にますます熱が入り、最終調整が始まっていた。

「じゃあ蓮見さん、メロディの部分を一緒に通そう」

 楠本は蓮見に小さい課題を与え、彼女が練習している間に自分も練習するという方針をとっていた。そしてひと段落したらこうやって一緒に練習している。この繰り返しだ。

 二人はそれぞれ練習の成果を見せつけあう。といっても楠本が引っ張り、蓮見がなんとかしがみつくというような様子だが。

「かなり良くなってきたね。次はもっと大きく息を吸ってみよう」

 蓮見の音はまだ少し揺れている。変な場所に力が入っていて息継ぎも十分ではないからだ。それでも楠本は彼女の成長を喜んでいた。多少の贔屓は入っているかもしれないが、それでも彼の本心であった。

「それじゃあ次は少し遅めに――」

「『アパラチアン序曲』、バーンズか」

 突然、筋骨隆々な青年がやってきた。誰も彼の接近に気付けずに面を食らった。彼のその手にはところどころラッカーが剥げてしまった古めかしいチューバを抱えていて、音楽室へ入るなり曲名を断言した。

 アメリカの作曲家、ジェイムズ・バーンズが作曲した『アパラチアン序曲』。北アメリカ大陸を縦断するアパラチア山脈をテーマにした、緩急の激しいエネルギッシュな楽曲。今年の吹奏楽コンクールの自由曲だ。

「バーンズといえば『アルヴァマー序曲』かこれだよな」

「よく分かりましたね」

「そりゃ有名どころだからな。それにバーンズもチューバ吹きだし」

 青年はステージの端に積まれていた椅子を持ってくると、それにどしりと座った。全く遠慮はない。まるで現役部員のようだ。

「隣の子は新入部員だな」

 突然の来客に驚いていた蓮見は突然自分が話題にのぼったことで恥じらっている。

「俺は上岡宗太郎。今年で三十三歳になる陸上自衛官。階級で言うと少佐みたいなポジションだ」

 歩く暴力装置よりも階級は上だぞ。と彼は笑うが何のことを言っているのか二人は分からなかった。ぐいぐいと来る宗太郎のペースに蓮見は押されている。もっとも、いつもの蓮見はやや引いたような性格ではあるが。

 上岡宗太郎は十九年前の卒業生。社会人になった今もこうやって定期的に母校へと遊びに来ている。別に後輩の育成のためというわけではない。気が向いたときにいろいろと教えてはくれるが、基本に彼はここに来れば無料でチュ

 二世代程度であれば顔なじみというもあるだろう。しかしそれを超えると顔を覚えていないどころか会った事すらないというのはざらだ。

 宗太郎が数世代も離れた楠本を知っている。そして宗太郎が蓮見と会えたのもこの吹奏楽部だったからこそできたことだろう。

「蓮見さん。定期演奏会に卒業した先輩と一緒に演奏する曲があるんだけど、宗太郎さんはそれにいつも参加してくださっているんだよ」

「そうでもない。休みが合わなくて参加できなかったこともある」

「たしか今でも交流があるOBの中では上から二、三番目の古参ですよね」

「ははは、もうそんなに序列が上がったか。そのうち来なくなるかもな。老兵は死なず、ただ消え去るのみ」

 宗太郎は吹奏楽部を引退してから十九年。そのほとんどの年度で定期演奏会に参加している。彼の吹奏楽歴は中学校での二年半のみ。それっきりではあるが定期的に母校を訪れ、チューバで遊んでいる。彼にとって母校とはチューバを吹ける場所という認識だった。

「楠本、今年はどの課題曲をやるんだ?」

「このマーチです」

「おお! チューバが渋い動きをするやつか。いいチョイスだ」

 宗太郎の声はやや興奮した様子だった。彼はチューバでそのメロディラインを軽く吹いてみせた。音源を聞いているとはいえ楽譜を見るのは初めてだろう。

「二人とも、課題曲自由曲というのは記憶に残るものだ。大人になっても忘れないだろう。特に最後の課題曲はな」

 ということは今回のこの課題曲のマーチがずっと印象深く残るのだろうか。

「俺の時は『コンサートマーチ≪光と風の通り道≫』に『ブライアンの休日』と最後に『コミカル☆パレード』だった。知っているか? コロッケマーチだぞ?」

 そう自慢しながら彼は「コロッケコロッケコロッケ~」と歌う。それは宗太郎の耳がおかしいのか、それとも本当にそう聞こえるのだろうか。

「というか宗太郎さん、今日はマイチューバ持ってきてないんですね」

 宗太郎は自前の楽器を持っている。日本の楽器メーカーが一般向けに販売しているもので最高品質を誇るいわゆるカスタムチューバだ。楠本が使っているチューバと比べると全体的に丸みを帯びていて、価格は一・五倍だ。彼は給料やボーナスを少しずつ貯金して、やっとの思いであの百万以上する楽器を手に入れた。

「今日はたまたま近くを通りかかっただけだから持ってきてないんだよ。それにたまにはコイツを吹いてやらないとな」

 宗太郎はベルの根元をポンポンと叩く。

「ピストン大丈夫ですか?」

「ああ、問題ない」

 宗太郎はチューバを構えると四本の指を器用に動かし、ピストンの動作を確認する。

「よく整備しているな。まぁ日本製の楽器だからというのもあるだろう」

「部の大事な楽器ですからね」

「えらいぞ。俺も使ってない楽器も整備していた。俺の先輩だってそうだった。よく後輩に伝わっていったものだ」

 今は使われることはなくなったトップアクションピストンチューバ。この吹奏楽部が栄光に輝いていた頃。レギュラー落ちが発生するほど大所帯だった時代に使われていた楽器だ。おそらくこの吹奏楽部で最も古いチューバだろう。

 音楽室となりの被服準備室。そこは使われなくなった楽器を収納する部屋となっている。そこにこのピストンチューバは眠っていた。今となっては定期的にやってくる宗太郎が勝手に取り出して吹いて遊ぶぐらいだ。

 楠本は前線を退いたそのチューバを定期的に整備していた。この吹奏楽部が再び賑わいを取り戻したときに備えて。いつでも前線に立たせてあげられるように。もちろん宗太郎が使うからというのもあるけれども。

「巷では銀ピカのヨークモデルが流行っているがチューバを選ぶポイントはそれがすべてじゃない。こんなオンボロのトップアクションチューバもいいものだぞ。もちろんヨークはいい楽器だ。だけど楽器にはそれぞれ得意なジャンルがある。蓮見、貸してくれ」

 宗太郎は蓮見にチューバを貸すよう要求した。

 突然指名された蓮見はきょとんとした表情のまま、延ばされた宗太郎の手に催促されてその楽器を手渡した。

「日本の楽器メーカーが一九八七年まで作っていた3/4サイズチューバ。今は製造中止になったがサイズのわりによく鳴る名器だ。状態が良ければ十万前後で取引されている」

 楽器についてきたマウスピースを持ち主に返すと、宗太郎は自分のマウスピースを差し込み、唇を当てた。

 三本のピストンが上下する。宗太郎は慣れない楽器を吹きこなし、低音を響かせながらも細かいメロディを跳ねさせる。

 私の楽器がこんな音楽を奏でられるなんて――誰かが自分の楽器を演奏、特に段違いのレベルで演奏されると本当に自分の楽器なのか信じられなくなる。それは蓮見も例にもれなかった。

「さっきのがコープラッシュ第八番。3/4はバンド全体を支えるには向いていない。音はそこまで太くないしな。もちろん楠本の楽器と一緒に吹けば問題ない。しかし機動力は非常に高い。音色に芯があり聴衆にダイレクトに届くから小規模アンサンブルに向いている。パワーも要らないから初心者が練習するには最適の楽器だ」

 宗太郎はマウスピースを抜き取ると元の持ち主へと返却した。

 蓮見はまだ感傷に浸っている。見学のときに出会い、今まで毎日吹いてきた楽器だ。その楽器の本領を目の当たりにして感動しないわけがない。

 もちろん宗太郎はアマチュアだ。もしプロが吹いたならさらにレベルの違う演奏ができるだろう。しかし蓮見にとって宗太郎はプロ、雲の上の存在に見えた。

「それとは反対に6/4サイズというものもある。さっき言っていた『ヨークモデル』もこれだ。オーケストラだけどマーラーやチャイコフスキー、プロコフィエフはこれで演奏されることが多いな。図太いオルガンサウンドが特徴。単独で大編成の楽団を支えることができる。しかし機動力は多少劣るし小規模のバンドには向いてない。それに複数並べて演奏する時のバランス調整が難しい。あと価格が高すぎる」

「最後のは宗太郎さんの事情じゃないですか」

「音楽をするんだったらカネは大事だぞ。大手メーカーのヨークモデルなんて安くて三百万だからな」

 標準的なチューバで大音量を出すと楽器が耐えられず音が割れてしまう。それを防ぐために楽器自体を巨大化させてキャパシティーを大きくしたものが5/4や6/4といった楽器だ。

「それにチューバはデカけりゃいいってものじゃない。ヨークモデルなんて低音が出しにくいし音程は悪いしでそこらの人間には吹きこなせないぞ。俺は吹いたことないけどな。ちなみにヨークモデルというものは当時フィラデルフィア管弦楽団の常任指揮者だったレオポルド・ストコフスキーの要請を受けてヨーク&サンズというメーカーが開発した6/4サイズチューバ、通称ヨークをコピーしたものだ。本物のヨークはシカゴ交響楽団が保有する二台しか現存していない。世界一の性能と響きを持つとされているこの楽器は賛否両論あるが全世界のチューバ奏者や愛好家に支持されている。これを超えるチューバがいまだに開発されないから、各メーカーがこのヨークをコピーしたものを『ヨークモデル』として販売しているのが実情だ。今はデカいボディに小口径ベルを積んだB♭ベー管、いわゆる『ボーランドフックスモデル』が流行りつつあるらしいけどな。もっと話すとヨークは四ピストン一ロータリーと思われているが、開発されたばかりのヨークは四ピストンしかなかった。これがシカゴ響のアーノルドジェイコブスの手に渡ったときに低音域の拡張とピッチ調整のためにヒルス……だったかな? によって五番ロータリーが増設されたんだ。だからヨークの第五抜差管は普通に楽器を設計するときにはしないような不自然な巻き方をしていて――」

「分かりました、分かりましたから」

「そうか?」

 ここで話を止めておかなければ彼はずっと話し続けていただろう。

「宗太郎さんがチューバオタクってことは前から知っていますから」

「チューバオタクか。俺にとっては誉め言葉だ」

 楠本は少しの皮肉を混ぜてその単語を選んだが、それは彼には通じないようだ。

「チューバオタクにもいいヤツもいれば関わらないほうがいいヤツもいる。楠本も蓮見もいいチューバオタクになるんだぞ。51がどうとか55がどうとか言っているヤツはいいオタクだ。641とか841とか話しているヤツは分かっているオタクだ。もしもニルがどうとかアレキが欲しいとか言っているヤツがいたら、そいつとは関わらないほうがいい」

 果たして宗太郎はいったいどちらだろうか。

 それにしても彼が垂れ流す蘊蓄はどれも楠本が知らないことだった。これまでに受講した楽器講習会でアーノルドジェイコブスという演奏家の名前を聞いた記憶がかすかにあるぐらいで、楽器のモデルなどにはまだ楠本は興味を持っていなかった。中学生というチューバを買えるような経済力を持っていない年代だからだろう。大人になれば興味を持つのかもしれない。

「あとは標準的な4/4サイズ。それじゃあ六代目、アパラチアンのソロから吹くぞ」

 宗太郎はひょいとチューバを構えた。

 突然の指名に慌てて楠本も楽器を構える。

 ゆったりとした宗太郎のブレス。それに合わせて楠本も息を吸い、打ち合わせをしたかのような同じタイミングで吹き始めた。

 アパラチアン序曲の壮大なチューバソロ。宗太郎が加わったことでいつもより堂々たる演奏だ。

「さて問題だ。蓮見、吹奏楽とオーケストラの違いはなんだ?」

「歴史……ですか?」

「それもあるな。オーケストラはオペラの伴奏、吹奏楽は軍楽隊が発祥と言われている。一番大きな違いは楽器編成だ」

「吹奏楽にはヴァイオリンがありませんね」

「その通り。オーケストラでは弦楽器が半数を占めるが吹奏楽ではせいぜいコントラバスが一、二本だ。ここの楽団にはいないみたいだけどな」

 赤岩中学校の吹奏楽部は演奏に支障はないが部員数的にはあまりゆとりはない。パート編成や後継者の事を考えたらコントラバスに回せる人員がいなかったのだ。理想としては二年生に一人いてほしいところだがそれすら不可能だった。将来コントラバスに部員が配属されたときに備えて楠本は一通り先輩から習ってはいるが。

「ちなみになぜコントラバスだけが吹奏楽で使われているかというと、チューバが開発される前に低音部分を担っていたからだ。その名残だな。それに加えてチューバでは出すことが困難な超低音域をカバーするという役目もある」

 チューバは楽器としては比較的新しい部類に入る。他の楽器が様々な進化を遂げて今の姿に落ち着いたのに比べ、チューバはまだ理想の形を試行錯誤している途中なのだ。

「それじゃあ楠本、吹奏楽とオーケストラにおけるチューバの役割の違いはなんだ?」

「ずいぶん難しい質問ですね」

「ヒントは楽器の数。それぞれチューバとコントラバスコンバスは何台だ?」

「オーケストラだとコントラバスは複数いてチューバは一台。そして吹奏楽ではそれぞれ二本ぐらい……ですね」

「少し補足するとオーケストラではかなり昔の楽曲だとチューバはいない。そもそも作曲された時代にチューバが誕生してないからな。チューバが発明されたのが一八三五年、ベルリンの楽器職人モーリッツが『F管バスチューバ』の特許を取得した年だ。それから時間をかけて『コントラバスチューバ』に発展するわけだけど、例えばベートーヴェンの晩年が一八二七年。それよりも歴史が浅いわけだ」

 チューバは音域によって『バスチューバ』と『コントラバスチューバ』に分けられる。前者のバスチューバはソロなどのメロディを吹く際に多用されるエフ管またはE♭エス管の楽器である。そのバスチューバの低音域を発展させたものが楠本たちが使っているコントラバスチューバ。日本でチューバというと大抵こちらの楽器を指している。ベースラインの演奏に用いられるB♭ベー管、ツェー管の楽器だ。

「吹奏楽とオケではチューバの役割がかなり違う。オケでは低音パートをコントラバスが担当する。チューバは音色に変化を付けたい「ここぞ!」というときにだけ使われるんだ。だから一台しかいないし曲によっては普段演奏してないだろ。そもそも必要ないと作曲家が判断したときは編成に含まれない。低音というよりも金管楽器としての音色が求められているんだ。逆に吹奏楽ではコントラバスの数が少ないから低音パートとしての役目を任されている。だからプロの吹奏楽団でも二人は必要になってくるんだ。楠本、さっきのアパラチアン、普段と違っていなかったか?」

「そうですね。いつもより響いていました」

「チューバ一台でffフォルテッシモを吹くよりも複数台でフォルテを吹いたほうが豊かな響きになる場合がある。でも6/4のような大きい楽器を並べて吹くとバランスが悪くなる。そんな時に役立つのが4/4サイズ。機動力と音色、コントロールの良さを兼ね備えた標準的な楽器だ。楠本のチューバもこれだな」

 他の楽器では一つの楽譜では一つの旋律しか記載されていないが、チューバの場合、オクターブで分かれている部分がある。片方の楽器が下の音を担当して、もう片方が上の音を担当するといった具合だ。これも吹奏楽のチューバの特徴の一つだろう。大所帯の楽団で人員や予算に余裕があればこれにバスチューバを導入して音色に変化をつけることもできる。

「そういうわけでチューバという楽器は奥が深いわけだ。良かったな七代目、こんな楽器を担当することになって。ところで六代目、今日の予定は?」

「昼まで個人練習とパート練習、午後から合奏です」

「そうか、ちょっと蓮見に稽古つけておこう」

「いいんですか?」

「タダでチューバが吹けるからな。そのくらいはやっておくぞ」

 楠本は礼を述べると、蓮見を宗太郎に預けた。

 個人練習とはいえ楠本は先輩として蓮見の練習にも気を掛けなければならない。それを宗太郎が引き受けてくれるというのだ。彼にとってこれほど練習に専念できるチャンスはなかった。

 隣では蓮見の演奏。

「いいか? 吹くときには大きい音を出そうとするんじゃない。いくら大きい音をだしても音が割れていたり周囲と調和がとれてなければ意味はない。豊かな音を意識するんだ。爆音主義の楽団も多いが俺は好きじゃない。音はデカけりゃいいってものじゃないんだ。いくら速いボールを投げることができてもストライクゾーンに入らなければ意味がないだろ? それと同じだ。音はデカくなくていいから最も豊かに響くポイントを捉えるんだ」

 宗太郎の説明、そして模範演奏。

 圧倒される音圧、音色。

 それは楠本には到底できない演奏だった。

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