第4話
「ここって吹奏楽部ですか?」
小柄な女子生徒だった。
入学式の次の日、楠本はいつも通り音楽室に一番乗りしてチューバを吹いていた。そこに新入生がやってきたのだ。
ほかの部員はまだ来ていない。楠本はチューバを置くと彼女の元へと寄った。
「見学?」
「はい」
「希望楽器はなにかある?」
「特には……いろいろ体験してから決めようかと思います」
「そっか、じゃあチューバやってみようか。ちょっと待ってて」
楠本にとってチャンスだった。
希望楽器を聞いたときに「チューバ」と返ってくることはほとんどない。楠本はチューバが第一希望だったがそれは珍しいケース。ほとんどの場合第三希望にすら挙げられない。
まだ特定の楽器を希望していないのであれば自分が担当する楽器を勧めるのは当然のこと。楠本は簡単なことだったらコントラバスも演奏できるが、楽団の編成を考えると音量的にチューバが優先だ。
仮に何か希望の楽器があったとしても複数の楽器を体験し、最終的に希望を聞いて顧問が各楽器に振り分けることになる。もし別の楽器を担当することになったとしてもチューバの事を少しでも知っていれば何かの役に立つはずだ。
楠本は音楽準備室からチューバをもう一台持ってきた。
「俺は楠本。チューバ担当の三年だよ」
「私は蓮見といいます。赤岩小学校から来ました」
「あ、俺もそこ出身」
そして椅子に座らせると金属の部品を手渡した。
「マウスピースっていうんだけど絶対に落とさないでね」
これに限らず楽器は衝撃に弱い。このマウスピースはただの金属の塊だが筒状のシャンクといわれる部分が変形すれば楽器本体に装着できなくなる。それにこう見えて一万円ぐらいするパーツだ。
「っと、まずはこれ」
楠本は息を吹きながら唇をブルブルと震わせて見せた。
小学生がふざけてやるようなことだ。蓮見は「何やってるんだこいつ」という視線を向けてくるがこれもチューバを吹くには避けては通れない。
「これにさっき渡したマッピを当てると」
二人だけの音楽室に「ぶーーーーー」とマウスピースの音が響く。
「サイズや形の違いはあるけど金管楽器はみんなこうやって音を出すんだ。唇の振動を音に変換するんだよ。リップリードっていうんだけど」
さぁやってみてと催促すると、蓮見はいきなりマウスピースを口につけて吹きはじめた。
最初は「すーーーー、すーーーー」と息がただ抜けるだけだったが、しだいに少しずつ音が出はじめた。
チューバのマウスピースはリムという唇を当てる部分が大きい。そのため比較的簡単に音が出るのだ。逆にトランペットやホルンのようにリムが小さいものは音を出すのが難しい。
「じゃあさっそく楽器を吹いてみようか。説明が遅れたけど、これはチューバっていう楽器。正式に言うとコントラバスチューバ。まぁ見てのとおり大砲みたいな楽器だね」
見学者にする説明はこのようなものでよいだろうか。最初からいろいろと言われても混乱するだけだろう。
楠本は彼女からマウスピースを受け取りチューバにつけてあげた。
楽器には持つ場所が決まってある。構造的に弱い部分や管が抜けるようになっている場所もあるのだ。楠本は蓮見に持つ場所を教え、こわごわと持ち上げるのをサポートする。楽器というものは想像以上に高価なものだ。このチューバはスチューデントモデルという国産の比較的安いモデルだが、それでも新品で八十万はする。中学生には想像もできない金額。蓮見は価格まで知らないだろうが大きい楽器ということで価格もそれなりということは容易に想像できただろう。
「さっきみたいに吹いてみて」
マウスピースに口をつけると、蓮見は恐る恐る息を吹き込んだ。
チューバが静かに響きだす。
彼女は驚いて口を離した。チューバ独特の深い響きに感動したようだ。
初めて吹いたチューバの音色。初めて音が出たときのあの感情の昂ぶり。楠本は今でも覚えている。トランペットにはない太い音色。トロンボーンにはない温かい音色。それに感動して楠本はチューバを希望したのだ。
「それじゃあもうちょっと力をいれてみて」
蓮見は大きく息を吸い込むと力強く吹き込んだ。
チューバの音がさらに強くなる。
蓮見はこの感覚を忘れないだろう。楠本が忘れていないように。たとえ他の楽器を担当することになったとしても、初めて触った楽器の感覚は簡単には忘れられないものだ。
確かに今のレベルでは合奏では使えない。音は弱弱しいし、ピッチは揺れている。しかし初めてでここまでできれば上等だ。
「あら、見学者?」
背後で声がした。
そこには前髪をヘアピンで跳ね上げた女子がいた。彼女は
楠本は部活中、一人で黙々と練習するタイプであまり他の部員とは話さない。しかし蒲生は別だ。彼女のほうから積極的に話しかけてくるというのもあるだろう。
チューバとホルンの役割は似ている。チューバは表打ちといって表拍でリズムを刻む。そしてホルンはその逆で裏打ち、つまり裏拍でリズムを刻むことが多い。ともにリズムを担当しているのだ。
そのため楠本とホルンパートは一緒に練習することが多い。そのため必然的に蒲生とは話す機会が多くなる。
気が付けば部員がちらほらと練習を始めている。この音楽室で練習しているのは金管楽器と打楽器だけ。彼女らは物珍しそうに蓮見を見ている。一部のグループは真っ先に見学者が来た楠本を聞こえるように侮辱していた。それはいつもの二人組だった。普段は侮辱に耐えながら練習に励んでいる楠本だったが、なぜかこの時だけは気にはならなかった。
「小柄で可愛いわね。チューバがいつもより大きく見えるわ」
「すぐに音が出るようになったんだよ」
「それは凄い!」
蒲生に絶賛されて蓮見は照れている。
吹奏楽部に所属する人間というものはやたらと新入生を持ち上げる傾向にある。入部してくれないと演奏ができなくなるというのもあるだろう。しかし楽器で音を出すということがどれだけ難しいことかを知っているからというのが大きいはずだ。
楠本も蒲生も、純粋に蓮見を褒めていた。
「あ、そうそう。今日顧問来るらしいよ」
「珍しいわね」
「時期が時期だからね。見学者を囲い込みたいんじゃないの?」
去年の見学者は楠本の体感で三十人ほど。そしてその中から入部に至ったのは十人ほど。およそ三分の一だ。新入生の各学級では「できるだけ多くの部活を見学するように」とお達しが出ている。運動部なら二年半、文化部なら三年弱の放課後と休日を費やすことになるため担任もそう言わざるをえない。
そのため見学者が来たからといって本命とは限らない。第二、第三希望の部活、または友達に連れられて一応見学に来るケースだってある。藤岡はそこを狙っているのだ。顧問という部活のトップから直々のスカウトがあれば心変わりして入部してくれるかもしれない。小学校時代の中学校見学でたまたま吹奏楽部を見学にきた楠本をスカウトしたように。
「それと新入生のきみ、後でホルンにも来てね」
蒲生はそう言い残すと音楽準備室へと去っていった。
彼女にも仕事がある。ホルン担当として直属の後輩となるホルン担当をスカウトしなければならないのだ。
「できれば最後にはチューバに戻ってきてほしいな」
蓮見はただはにかみ、言葉を濁すだけだった。
はたして蓮見はチューバに来てくれるだろうか。まだ希望楽器がないということで今のうちにチューバに染めておくほうがいい。
いや、そもそも蓮見は吹奏楽部に入ってくれるだろうか。
「ところで蓮見さんってなにか楽器経験あるの?」
「ピアノをやってます。幼稚園のころから」
「ということはヘ音記号も読めるね?」
楠本は隣に置いてあった自分のチューバを膝にのせた。譜面台から楽譜を入れている青いファイルを手に取るとページをめくり、とある楽譜を開いて蓮見へと渡した。
それはA4用紙の四分の一もない小さな手書きの楽譜。楠本が一年のころ、三年だったチューバの先輩に定期演奏会直前に貰ったものだ。その先輩もそのまた先輩に貰ったらしい。代々受け継がれている小さな楽譜なのだ。
「この曲知ってるかな?」
「『ファランドール』?」
「ビゼーって人が作曲した『アルルの女』って曲のひとつだよ』
蓮見に手渡した『ファランドール』は第二組曲の一部。ビゼーの死後、友人だったギローという作曲家によって編曲された楽曲だ。本来この『アルルの女』ではチューバは出てこない。しかし先輩の誰かが主旋律をチューバ用に書き換えたのだ。
「ちょっと楽譜を追ってみて」
楠本はチューバを立てると息をたっぷりと吸って演奏を始めた。
何回も繰り返し吹いた『≪アルルの女≫第二組曲より≪ファランドール≫』。
この楽譜を受け継いでからは基礎練習に導入し、これまで何度も吹いてきた。運指だって暗記している。何かを吹いてくれと言われたら即決でこれを演奏する。楠本が自信をもって演奏できる曲の一つだ。
目の前で演奏される生のチューバ。
その音圧に圧倒されて蓮見は口をぽかんと開けている。
「チューバってどんくさいイメージがあるかもしれないけど、こんなこともできるんだよ」
「他にもできるんですか!?」
まさかのアンコール。
これは楠本にとって願ってもいないチャンスだ。希望楽器がない蓮見がチューバに食いついたのだ。ここで期待に応えることができれば蓮見にとってチューバの希望度はさらに上がるだろう。
しかし楠本は悩んだ。このような場面で吹くレパートリーが思いつかないのだ。チューバの希望者が少ない理由としてよく挙げられるのが「メロディが少ないから」。たまにはメロディを吹く機会はやってくるがそれでも年に一、二回あればいいほうだ。そもそも楠本はメロディを吹きたくてチューバを希望したのではない。ただひたすらとリズムを刻むチューバがかっこよくて希望したのだ。
楠本は悩んだすえ、一つの曲を思い出した。
「じゃあこの曲はどうかな? これも手書きの楽譜なんだけど」
足元に置いてあったオレンジ色のスケッチブックを手に取ると、パラパラとページをめくる。本番用の楽譜を貼り付けたスケッチブック。頑丈なはずのページは糊でぐにゃぐにゃになっている。指揮者からの指示がたくさん書き込まれた楽譜を開くとそれを蓮見に渡した。
「ここから吹くよ」と特定の小節を指示すると、楠本はチューバを吹き始める。
赤岩中学校吹奏楽部なら誰でも知っている、『吹奏楽の為の≪シンフォニエッタ≫』。
チューバから重々しい二分音符の砲弾が立て続けに撃ちだされたかと思えばその巨体からは想像もつかないような細かい音符が奏でられる。かといって軽薄ではない重厚な音色。まさにチューバの音色だ。
荘厳な曲想の中にも切ない感情がつまり、それが決壊しようというところで雷神がハンマーで叩いたかのような強烈な四分音符。
「どうだったかな?」
楠本は適当な場所でフェードアウトすると感想を聞いた。
この曲は『ファランドール』と同じくらい楠本が気に入っている曲だ。他の学校の吹奏楽部だったらこの曲には出会わなかっただろう。吹奏楽曲に限らずすべての音楽は聴衆と運命的な出会いをするものだ。言い方を変えれば「出会うべくして出会った」もの。
たまたまテレビをつけたら流れていた。たまたま友人が歌っているところを聞いた。それは人それぞれだ。そしてその音楽が聴き手の趣味にあうことでその人のお気に入りとなる。
楠本にとって『ファランドール』もそうだ。たまたま楠本がチューバ担当になった。そしてたまたま数世代前の先輩が楽譜に書き起こした。そしてたまたま途中で捨てられることなく楠本の元へとたどり着いた。運命的な出会いだ。
「初めて聴きました。誰が作ったんですか?」
「三浦健太郎っていう日向市出身の作曲家。今はどこかの大学の教授らしいよ」
吹奏楽コンクールの課題曲に作品が採用されたことでデビューした作曲家だ。
この壮大な楽曲を生み出した人間が同じ日向市出身ということに蓮見は驚いたらしい。
「なんだ楠本だったんだ」
音楽室の入り口で声がした。楠本が振り返るとそこには顧問の藤岡がいた。
「てっきりすごい見学者が来たと思ったよ」
いつものように藤岡はおどけてみせる。この軽妙な人柄。楠本が全く興味を持っていなかった吹奏楽部に入部したきっかけはこれだった。
「それにしても今日はいつもより響くじゃん。見学が来て張り切ってる?」
「そりゃ張り切りますよ」
後輩が見学にきて喜ばない先輩はいない。せっかくならば格好いいところを見せようとするのが人情。ましてや相手が女子生徒となれば男子生徒である楠本が張り切るのは当然のこと。
「それにしても4/4か。デカいね」
「3/4使いますか?」
「そうだね。最初はそれがいい」
専門用語が飛び交う。二人のやり取りに蓮見はきょとんとしていた。
チューバにはさまざまな大きさがあり、それを示す「サイズ」という概念がある。
楠本が使っているロータリーチューバは標準的な4/4といわれるサイズ。会話に出てきた3/4というものはそれよりも一回り小さなチューバのことだ。フルサイズチューバみたいな太い音は出せないが比較的音は出しやすい、小回りがきく楽器だ。
将来的にはフルサイズを吹いてもらわなければ楽団としても困る。しかし今は楽器に興味を持ってもらうことが最優先なのだ。
「楠本、しっかりと捕まえておいてよ」
藤岡はそう言い残すと音楽室を出て行った。隣の被服室で練習している木管楽器に見学者が殺到しているらしい。そちらの加勢に向かったのだ。新たな部員獲得のために。
「それじゃあ蓮見さん、ちょっと楽器を交換してくるね」
楠本は彼女から楽器を受け取ると、指定された楽器と交換するために音楽準備室へと消えていった。
「チューバなんてつまらないよ。トロンボーン吹こうよ」
楠本が楽器を交換して戻ってくると、蓮見は二人の男子部員に囲まれていた。
小柳と荻野だった。
彼らはそれぞれのパートに来た見学者を後輩である二年生に任せ、チューバに来ていた蓮見の勧誘をしていた。特に花形楽器のトランペットは三、四人の見学者が来ているが、それら全員を一人の二年生で対応している。トロンボーンの小柳はともかく、トランペットの荻野は勧誘よりも自身の持ち場に戻ったほうが良いのではないだろうか。
「せっかく見学に来てくれて俺が捕まえたんだから、今日ぐらいはチューバを体験させてもいいんじゃないの?」
「黙れよノーサウンドが」
見学者の前だというのに小柳が声を荒げる。
「チューバなんていなくてもいいじゃねぇか」
「だってノーサウンドがいなくても全然問題ないもんな」
荻野が賛同する。
それを蓮見が気まずそうに見ていた。
「俺は部長の小柳でこっちが副部長の荻野。こんなやつよりも俺たちの言う通りにしていたほうがいいと思うぞ?」
蓮見は彼らに手を引かれて音楽室の後ろへと連れていかれた。楠本に振り返った彼女は複雑そうな表情をしていた。
見学者である一年生たちは三十分ほど前に全員が帰され、部活動はいつも通り定刻に終了した。片付けに時間がかかる木管楽器のために終わりのミーティングは早めに行われる。その集会終了から完全下校時刻まで余裕があるのだ。楠本は五分ばかりシメの基礎練習をして楽器を片付けた。そのころには他の部員たちは鞄を背負って廊下にたむろしている。今日も鍵を返却するのは楠本の仕事だ。
教頭先生の「今日も頑張るねぇ」という応援に答えてながら彼は職員室に入室して藤岡に鍵を返し、家路についた。
三十分ばかりかけて自宅に帰り着いた彼は普段着に着替え、夕食を済ませ、自室で勉強をしていた。楠本もとうとう三年生だ。今年の終わりには推薦入試が、それに失敗したら来年の初めに一般入試が控えている。
「拓海、こっち来んね」
「婆ちゃん、どうしたの?」
小休止を終えてそろそろ勉強に戻ろうとしていたところを呼ばれた。居間に顔を出すと祖母が手招きをしていた。
「テレビでブラスバンドやっちょるが」
その画面の中には燕尾服に身を包んだチェリストたち。
「前も言ったけどこれはオーケストラ」
「オーケストラっち言うとけぇ」
納得した様子で祖母は画面へと向き直った。きっと来月にもなればまたブラスバンドと言いだすだろう。二年ほど前から繰り返しているやり取りだ。
テレビでは弦楽器のダウンボゥによるテュッティ。重量感のあるその音たちは徐々に迫力を増していき、ヴァイオリンは高音の弦を擦りはじめる。導入部が終わり主題に入るとホルンパートが画面いっぱいに映し出された。カットはトランペット、ヴァイオリン、チェロへと移っていく。
「拓海、これはなんち曲け? ベートーヴェンけ?」
「ドヴォルザークの『新世界より』」
「『新世界より』っち言うとね?」
「そう『新世界より』」
祖母はうんうんと頷いている。納得している様子だがこれもすぐに忘れるだろう。
「拓海の楽器が出たが……あら床に置いとるわ。あれは吹かんとね?」
「この楽章じゃ吹かないよ」
「そうけぇ。そりゃ残念じゃが」
ドヴォルザークが作曲した交響曲第九番『新世界より』。単に『新世界交響曲』とも呼ばれるこの曲はシンバルがたった一発しか入らない曲で有名だが、それと同時にチューバが用いられるのが第二楽章の最初と最後の合計九小節だけということでも有名だ。しかも動きがトロンボーンのサードと全く同じ。作曲者のドヴォルザークが暮らしていたアメリカで用いられていた当時のトロンボーンでは音域が足りず、その部分をチューバで補った楽譜がそのまま出版されたからと言われている。
「ほら拓海も聞いて行きね」
ちらりと時計を見ると休憩を始めてから結構な時間が進んでいた。予定なら勉強を再開している時間だ。しかしいま流れている部分は第四楽章。演奏が始まってから時間が経っているため残りは六、七分程度だろう。まだ四月で入試まで時間があれば志望校への進学が危ぶまれるほど楠本の成績は悪くはない。これを聴き終わったら勉強に戻るとしよう。
楠本は祖母の隣に腰を下ろした。
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