第5話
蓮見が初めて音楽室に顔を出した日から二週間。彼女はほぼ毎日吹奏楽部を見学に来ていた。
一時期はホルンやフルートも体験し、結局はチューバに戻ってきていた。
まもなく五時半だ。今日の練習も終えてそろそろミーティングの時間かというとき、蓮見は心配を口にした。
「もし吹奏楽部に入ったら、ピアノは辞めなきゃいけないですか?」
「なんで?」
唐突な質問だった。
「今通ってるピアノ教室は毎週金曜日にあるんです。でも部活って毎日あるじゃないですか。それだと両立ができないと思うんです」
「そういうことね。大丈夫だと思うよ」
「でも金曜日部活に来れませんよ?」
「金曜日に参加できないだけでしょ? そのくらい大丈夫だよ。それに楽団としてピアノを弾ける人は欲しいからね。廊下に飾ってある数十年前の写真見た? ピアニストが写っているよ」
意外に思われるかもしれないが吹奏楽コンクールのルール上、ピアノを使っても問題はない。数十年前の赤岩中学校が九州大会常連校だった時代、コンクールでピアノを使用した記録が残っている。もちろん今の県大会銅賞レベルの赤岩中学校にピアノを使うような曲目が演奏できるかどうかは別の話だが。
ピアノを辞めずにすむということで蓮見はホッとしたようだ。
音楽をするために別の音楽を辞めるというのは本末転倒だろう。もちろん他の学校だったら部活に集中してほしいということで辞めさせることがあるのかもしれない。しかしここの吹奏楽部は違う。顧問がそういう方針なのだ。そもそもそんな方針をとれるような実績は残していない。
「他の部員に何か言われるようだったら顧問から話してもらうから」
「呼んだ?」
タイミングを見計らったかのように颯爽と現れた藤岡。部活動見学会も落ち着いてきたことであまり部活に顔をださなくなっていたが今日は違うらしい。
「あ、こんにちは。今日はどうしたんですか?」
「担当楽器を発表しようと思ってね。それで何の話?」
「習い事で金曜日は部活に来れないって話です。そのくらい大丈夫ですよね?」
「もちろん。それで習い事って空手? カンフー?」
藤岡は手刀を構えて「アイヤー!」と奇声を発している。
どこをどう見たら蓮見が武術系の習い事をしていると思うのだろうか。逆にそれを習っていたらミスマッチで面白そうであるが。
温めていたネタを披露したことで満足したのだろう。藤岡は廊下に顔を出し、「集合!」と声を掛けた。隣の被服室から聞こえていた木管楽器の音が消えた。
「二人ともミーティングするから場所を譲って」
楠本と蓮見はチューバを床に置くと、そっと楽器に座っていた椅子を当てた。チューバという楽器は普通に床に置いただけでは片方に重心が寄っていてバランスが悪い。そのため反対側に椅子を当てて転倒しないように支えるのだ。
二人は練習場所のステージから降りるとそれぞれ席についた。楠本はチューバに近い一番前の指定席。蓮見は入り口に近い席。それとほぼ同時に木管楽器担当がぞろぞろとやってきて席についた。新入部員が蓮見を見つけると彼女のとなりへと座った。
「部活見学が始まって二週間経ったころだし、希望を聞いたうえで楽器を決めました。いまから発表するから恨みっこなしね」
藤岡の口から、楽器名とそれを担当することになった新入部員の名前が発表されていく。
希望通りになったのだろう。満面の笑みで喜ぶものもいれば、それとは反対に呆然としている部員もいる。希望から漏れたのだろう。
楠本は新入部員だったときのことを思い出していた。もちろん第一はチューバ。もしそれがだめでも同じ低音パートであるコントラバス。せめてバスクラリネット。それが楠本の希望楽器だった。
当時の楠本も楽器発表のドキドキ感は覚えている。この瞬間で二年半にわたる吹奏楽部生活が決まる。途中で楽器が変更になることはあるがそれは例外中の例外で、しかも不足した楽器に回されるだけ。やりたい楽器に変更になることはまずありえないだろう。
木管楽器の発表が終わり、金管楽器の発表が始まった。
トランペット、トロンボーンと発表されていく。
「チューバ」
とうとうこの瞬間がやってきた。
「蓮見風香」
楠本は体をひねって蓮見のほうを見る。彼女は特に喜んでいるようでもなければ悔しがっているようにも見えなかった。もともと感情を表に出すような性格ではない。果たして希望していた楽器なのか、じゃんけんに負けてこの楽器を任されたのか。初めてチューバに触ったときのように興奮するときもあるが、今の蓮見の表情からはそれが読めなかった。だが、結構な頻度でチューバの体験に来ていた。きっと希望してくれたと信じたい。
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