第3話

 在校生の拍手に見守られながら、中央の花道を新入生が入場してくる。

 今日は入学式。希望にあふれる厳かな式典に吹奏楽部が華を添えている。

 楠本は期待に胸を躍らせながらチューバを奏でていた。

 テュッティからの八分音符での刻み。

そしてチューバのメロディ。

 あの新入生二百名の中から数人が吹奏楽部に入ってくる。経験則から見学者は三十人、そのうち入部するのはだいたい十人前後だろう。そしてその入部者の中から確実に一人チューバに配属される。今、楠本は三年生。楽団の維持のためにもチューバの後継者は必要なのだ。

 楽曲の二回目のリピートが終わったころ、新入生百五十人の入場が完了した。それを確認すると指揮を振っていた藤岡は徐々にタクトの振りを小さくしていき、もう片方の手で空気をつかんだ。その合図で吹奏楽部は演奏を止める。

 開会宣言により入学式が始まった。

 吹奏楽部は終盤の校歌斉唱、そして閉会後の新入生退場まで出番はない。

 楠本は太ももに寝かせていたチューバを、薄緑のシートが敷かれた床にそっと置いた。

 多くの生徒にとってこういった式典は退屈だろう。しかしクラスメイトからクソ真面目と評されている楠本はじっと壇上で行われている儀式に耳を傾けていた。

 堅苦しい式典。私語をするのもはばかられる。

 しかし近くで声がした。

「なぁチューバ聞こえた?」

「全然」

「ホントあいついなくてもいいよな。ノーサウンド」

 この声はトロンボーンの小柳とトランペットの荻野。

 その会話を藤岡は聞き逃さなかった。ピッと二人に指をさして彼らを黙らせる。そして楠本のほうを向くと微笑んでうなずいた。

 彼らは藤岡に目をつけられたことで会話をやめたが、心の中では悪口が続いているはずだ。ここの吹奏楽部ではその二人によって楠本に対する差別や暴行が行われている。いわゆる部内いじめというものだ。

 ノーサウンド。

その男子グループ内では楠本のことをこう呼んでいる。チューバの音が聞こえないからノーサウンド。いなくたって問題なく合奏できるからノーサウンド。

 楠本はそう呼ばれていることを知っていた。

 しかし納得はできなかった。去年のコンクールの映像を確認したがたしかにチューバの音は入っていた。定期演奏会の映像を確認しても音は聞こえていた。他の楽器と聞き間違えるはずがない。

 それでも彼らは音が聞こえないと言い張っていた。

 この楽団には必要ない――そう言われているように楠本は感じていた。何度部活を辞めようか考えたことか。いくら考えても楠本は行動を起こせなかった。チューバを吹いているときはいじめの苦痛から逃げることができていた。部活を辞めたらチューバを吹けなくなる。それが気がかりで行動を起こせなかったのだ。

 壇上には校長先生が立ち、新入生へと祝辞を送っている。

 二年前のこの時、楠本は希望にあふれていた。小学生のときに見学した吹奏楽部で顧問の藤岡に目をつけられていた。「この楽器は何というでしょう」――藤岡の問いに周囲が『ヴァイオリン』『チェロ』と間違えるなか、楠本だけが『コントラバス』と正解したのである。楠本にとっては小学一年生のときに教科書で読んだ簡単な知識であったが、それでも藤岡の目に留まったのである。彼は周りの男子生徒と比べても明らかに体が大きかった。彼が入部したら低音パートに入れよう。皮算用ではあったがそういう計画だった。

 楠本は押しに弱い性格だ。

 彼は過去に小児喘息を患っていた。その治療の一環で小学校低学年から空手を習っていた。体が周囲よりも大きく筋骨隆々としているのは空手で鍛えたからだ。道場の門下生はみんな中学校でも空手を続けている。彼も中学校で空手を続けようと考え、中学校の見学会で空手部を希望した。しかし希望者が多く、じゃんけんに負け、枠が空いていた吹奏楽に回されたのだ。

 当然ただの見学だ。中学校に上がったら部活動見学期間に空手部に行って、そこで入部届を提出すれば済む話だった。しかし藤岡の問題に唯一正答できたことに加え、周囲が帰宅する流れに乗れず、最後まで一人で残ってしまった。ついでに図体だってデカい。これで顧問や部員の印象に残らないわけがない。

「入学したらまた遊びに来て」――顧問にそう言われて開放された楠本は、彼女との約束を果たすため、入学して真っ先に吹奏楽部へと見学にやってきた。彼は図体と違って内気な性格だ。押しに弱い彼はそのまま吹奏楽部に入部することになった。

しかしそれでも自分の意思があった。見学のあとには吹奏楽に入部する決意をしていたのである。帰り道でフェンス越しに野球部に誘われたが、それでも心は揺れなかった。次の日の学校ではそれを友人に宣言していたぐらいだった。

 あの時のドキドキはどこに行ったのだろう。校長先生の話を聞きながら楠本は自問自答していた。

チューバは楽しい。しかし本当に楽しめているのだろうか。いじめを受けているのは事実。その苦痛を受けながらチューバを吹いていて本当に楽しいのか。いっそのこと辞めてしまおうか。いや、今辞めたら低音楽器がいなくなる。コントラバスはおろか、バスクラリネットもバリトンサックスもいない。せめて新人が入って、彼女が独り立ちするまで続けよう。

 吹奏楽を辞めたらチューバが吹けなくなる。それは絶対に後悔するだろう。そして残された部員たちのこと。全員が楠本をいじめているわけではない。普通に活動している部員がほとんどだ。その彼女たちが心配で楠本は辞める決意ができなかった。


 入学式が終わり、生徒はそれぞれのクラスへと移動するなか、別動隊の吹奏楽部は音楽室に撤収し、思い思いにおしゃべりをしながら片付けをしていた。

 彼女たちの話題は「今年は何人入部するか」。新入生にとって希望に満ち溢れる式典であったが、それは在校生にとっても同じことだ。自分たちのパートに何人欲しいか、見学が来たらどうやって引き留めるか。その話で持ち切りだ。

 しかしそう思っているのは全員ではなかった。

「でも今年ってチューバに一人入るだろ?」

「そうだな。そしたらアイツいなくていいよな。ノーサウンド」

「だってノーサウンドだしな」

 その会話は部長でもある小柳。副部長でもある荻野だった。

 これ見よがしに話す彼らの会話が楠本の耳に入らないわけはなかった。

 新入部員が独り立ちするまでの辛抱だ。コンクールが終わるまでの辛抱だ。技術を引き継ぐことなく辞めるという選択肢は楠本にはなかった。一部員として、そして唯一の低音楽器奏者として導き出した、自分なりに納得できる目標だった。

 しかしその楠本の心の中を彼らは知らなかった。想像しようとすらしなかった。

「おいノーサウンド、お前後輩が入ったら辞めろよ」

「そうだそうだ。どうせチューバなんて簡単だろ」

「ユーフォのほうが難しいもんな。小柳が教えるってよ」

 一人のチューバ吹きとしてその言葉は聞き捨てならなかったが、それでも楠本は言い返すことができなかった。

 確かにチューバは音を出しやすい楽器だ。しかし音を出すことと演奏することは違う。音を出しやすい代わりに息は他の楽器より多く使う。芯のある安定した音を出すには相応の技術がいる。他のパートに比べたら楽譜も簡単だが、それなりに技術を求められるのだ。

「なんとか言えよ、ノーサウンド」

 小柳は低音パートの棚からワイヤーを取り出すと、それの楠本の首にかけてギリギリと締め上げた。それはフレキシブルクリーナー。楽器内部の洗浄に使う道具で、チューバのために楠本がわざわざ宮崎市まで行って小遣いで買ってきたものだった。

 楽器を嗜む者として、商売道具でありパートナーでもある楽器は丁寧に扱わなければならない。それは楽器に関するものに対しても同じように考えるだろう。しかし彼らにはその概念はなかった。

「事実だから何も言えないんだよな、ノーサウンド」

 満足したのだろうか。小柳はその手を緩めた。そして三人は馬鹿笑いしながら音楽準備室を出て行った。

 部屋にいた数人の後輩が憐れむような眼で楠本を見ていた。その視線は痛かったが、楠本は助けてほしいとは思わなかった。これで手を出してしまったら彼女たちも標的になるかもしれない。後輩たちに火の粉は降り注いでほしくなかった。

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