第2話

「病気の治療で部活を辞めるとしたらどう思いますか?」

 部活が終わったあと、楠本は膝にのせていたチューバを床に置くと、黒板を消していた顧問の藤岡美奈子にそう聞いた。

 ほかの部員はもう帰っている。音楽室に残っているのは合奏隊形に並べられた椅子と譜面台だけ。誰かに聞かれてあらぬ噂がたつ心配はない。

「楠本、どこか悪いの?」

「たとえばの話です」

「たとえば、ねぇ……。病気だったら仕方ないんじゃない? 吹奏楽は中学の部活だけじゃないし、体がよくなってから社会人吹奏楽団にはいるというのもあるよ。なんならオーケストラに転向するのもアリだし」

 吹奏楽部の引退後、吹奏楽に関わらなくなるというのはよくあるケース。なぜなら経験者は吹奏楽の厳しさを知っているから。理想と現実のギャップで吹奏楽が嫌いになってしまうのだ。本来は楽しいはずの吹奏楽。それを知ったがために吹奏楽から離れてしまうというのは何とも勿体ない話だ。

もちろん卒業した今でも吹奏楽を続けている元部員もいる。

『吹奏楽の為のシンフォニエッタ』

日向市立赤岩中学校吹奏楽部の全国大会初出場を記念して、地元日向市出身の作曲家に委託して作られた楽曲。それが吹奏楽の為のシンフォニエッタ。

 秋に行われる定期演奏会で毎年かならず演奏される。卒業した先輩たちを呼んで共に演奏しているのだ。吹奏楽を続けている先輩も、辞めた先輩も。誰もが里帰りして。

 なかにはこのシンフォニエッタが作曲された当時のOBOGも参加しているほど。ふらりと突然戻ってくることもある。

 中学の部活で吹奏楽はそれっきりというのは何とも勿体ない。

 藤岡にとって楠本は思い入れのある部員だ。当時小学生だった楠本をスカウトしたのは藤岡だった。入部する前からチューバを任せるつもりだった。

「でも俺が辞めたら低音パートがいなくなります。ほかに低音楽器もいないし」

 先輩が卒業し、今は二年生と後輩の一年生だけの編成。二十人ほどの部員の中で楽団全体を支える低音楽器は楠本のチューバ一本のみ。バスクラリネット、バリトンサックス、コントラバスといった他の低音楽器はいない。

 楽団にとって低音楽器がいなくなるというのは致命的だ。ハーモニーの組み立てはめちゃくちゃになり、リズムはバラバラになる。仮にいま練習している入学式に演奏する曲だってチューバの表打ちがないとまとまらない。

「大丈夫。それを考えるのは指揮者の仕事よ。それに今度入ってくる新入部員を一人チューバに回すのは確定しているから」

「その新入部員に誰が教えるんですか? ここの吹部には俺以外にチューバが吹けるやつはいません」

「チューバ吹きには心当たりがある。市民吹奏楽団にもコネはあるし、大先輩の宗太郎先輩を知っているでしょう? いざとなったら彼にも頼んでみるから」

 藤岡は仮にも吹奏楽部顧問。

 他校の吹奏楽部や市民吹奏楽団と繋がりを持っている。定期演奏会に招待するために卒業生の連絡先も知っている。ほかの楽器に比べると少ないが、それでもチューバを教えてくれる人を探すのは難しいことではない。

「辞めた後のことは気にしないで。それよりも辞めるかどうかはもう少し考えたほうがいいね。決断を急ぐんじゃないよ」

 そう言い残すと藤岡は譜面台に鍵を置いて音楽室を出て行った。

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