シンフォニエッタ

外鯨征市

第1話

 線香の煙が天に昇る。

 黒いおりんを静かに鳴らし、楠本拓海と彼の祖母は仏壇に手を合わせた。

 長押に立てかけられたご先祖様の遺影が彼らを見守っている。鐘の響きがやむと楠本は目を開き、ご先祖様を見上げた。

 この家に来て仏壇に手を合わせるたびに祖母が紹介してくれる。紋付き袴でどっしりと構えている男性が楠本秀実。明治時代を生きた彼は祖母の祖父であり、つまり楠本の高祖父にあたる。この地域ではそれなりの金持ちだったらしい。

 そしてその隣の飛行服に『七生報國』と書かれた鉢巻を巻いている男性が祖母の伯父の楠本茂。日本海軍の二等飛行兵曹で戦闘機に乗っていた彼は一九四五年の春、宮崎県の飛行場を飛び立ち、爆弾を抱えてアメリカの駆逐艦に突入。撃沈した。

 写真は左側に向かって色づいていく。一番端っこの写真は楠本が数年前に参列した葬式の故人だった。

「お茶淹れたが。こっちこんね」

 奥の居間から高齢の女性が声を掛けた。

「毎年遠いとにありがとうねぇ」

「いっちゃが。こん前ん夏は来れんかったっちゃから」

 ここの家は楠本家の本家だ。跡を継ぐはずだった茂爺ちゃんが戦死したことでその弟が家を継ぎ、今はその子供が当主を務めている。お茶を淹れてくれた女性はその当主の妻だ。

 祖母がのそりのそりと仏間を後にする。楠本は歩調を合わせてゆっくりと後を追った。向かった居間には二つの湯飲みが湯気を立てている。

「拓海君もこんげおせらしくなってねぇ」

 おせらしい――この地域での「大人っぽくなった」という意味の方言だ。高齢の宮崎県民の口癖でもある。

「今いくつね?」

「先月で十四歳になりました」

「そうけぇ。あと七年で茂爺ちゃんに追いつくが」

 いつものやり取りだった。

 楠本が中学生になったあたりから毎年このやり取りが行われている記憶がある。

「拓海。茂爺ちゃんを覚えとるけ?」

「海軍の兵隊さんでしょ。特攻隊の」

 他のご先祖様が家紋付きの袴や着物で写真に写っているなか、飛行服に鉢巻を巻いて遺影に納められている茂二飛曹は楠本の印象に深く残っている。この家に来ると真っ先に思い出すのが彼の姿だった。

「茂爺ちゃんは二十一歳の時に爆弾を抱えたゼロ戦で軍艦に体当たりしたとよ」

「そうそう、宮崎の飛行場から出発してねぇ」

「部下の兵隊さんに「後は頼んだ」っち言い残して飛んでったっちゃが」

「あと少しで戦争も終わったとにねぇ」

「ちょっと待っちょきね」

 そう言って祖母の姉は仏壇に向かい、白い布に包まれたものを持ってきた。

 布が開かれ、中から二つに割れた白い盃が現れた。

 これも何度も見た形見だ。

「茂爺ちゃんは最後にこれで酒を飲んで地面で叩き割って飛んで行ったっち、戦争が終わった後に部下の兵隊さんが家に持ってきてくれて教えてくれたっちゃが」

「拓海、盃を割るのは生きて戻って来んち意味やとよ。葬式でも茶碗割るがねぇ」

 数年前に参列した葬式。黒い霊柩車がクラクションを鳴らすと同時に、それを見送っていた一人の女性が手にしていた茶碗を地面に叩きつけて割っていた。まだ近くにいる故人の霊に天国に逝かなくてはならないことを教え、送る側にも故人が亡くなったことを再認識させるために割るという風習があるそうだ。

 自分の手で自分の盃を割る。自分で自分を送り出す儀式を執り行う。それは自分の葬式を見ている気分だっただろう。

 高齢者二人は若いのが誰も線香をあげに来ない、自分が入る墓をそろそろ買わないといけない、ご近所さんが倒れて救急車で運ばれたといつもの話で盛り上がっていた。高齢者はなぜ死を連想するような話をするのだろう。死が目前に迫り他人事ではなくなったからなのだろうか。

 楠本は目の前に置かれたガラスのコップに手をつける。氷がカランと鳴った。

 部活に入っている彼にとって今日は束の間の休息の日だった。

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