3.落日(2)

 僕は、美咲に何かを頼まれるのが何よりも嬉しい。

 今の生活において、それは生き甲斐だとも言える。


 縁側に横付けした車イスに、抱え上げた美咲をそっと座らせる。

 美咲は自分の足で歩く事はできない。


 車イスをゆっくりと押して、畑のそばで一度止めた。

 美咲が止まってほしいと思う場所は、だいたい把握している。

 

 美咲が畑に生っているトマトを指さした。

 「取ってほしいの?」

 僕がそう言うと、美咲は笑顔で頷いた。

 もいできたトマトを袖でこすって渡すと、美咲は肩を震わせて笑った。

 美咲は僕が袖で何かを拭くと、大袈裟に反応する。

 初めて出会った時の定期入れを思い出すのだと思う。


 僕は美咲を笑わせたくて、何かにつけて袖で拭き取る仕草をする。

 そして、いつも美咲は笑う。


 手にしたトマトに、美咲がキスをした。

 その可憐な表情に、僕の涙腺が緩む。


 僕たちはテニスコート一面ほどの広さの畑を、三十分ほど掛けて散歩した。

 家に戻ると、美咲が、「飯山の景色を眺めたい」と言うので、デッキチェアをテラスへ移動させ、そこへ座らせた。

 僕も美咲のとなりに座る。


 山の麓から吹き上げてきた風が、美咲の髪の毛をほつれさせた。

 美咲は細くなった指で、髪の毛を耳に掛けて微笑む。

 美咲の横顔が、高校時代、教室にいた時の姿を呼び起こす。斜め後ろの座席から、見つめていた美咲の横顔……


 その美しくて儚い笑顔を見た僕は、美咲の横顔に向けてシャッターを切った。

 ファインダーを覗く僕の目には、じんわりと涙が浮かび、美咲が滲んで見えた。


 景色をぼんやりと眺めていた美咲が何かを喋ろうとしたので、僕は美咲の口元に耳を寄せた。

 「美木くん…… 今でも…… わたしのこと…… 好き?」

 美咲は小さな声でそう言うと、少し咳こんだ。

 僕の胸に、つーんとした痛みが走る。

 遠い記憶が、頭の中を駆け巡った。

 懐かしく、甘酸っぱく、今となっては、切ない思い出……


 僕は美咲の背中をさすりながら、「もちろん、大好きだよ……」と瞳を見つめて言った。

 「ありがとう……」

 美咲がニッコリと笑った。愛嬌たっぷりの笑顔だった。


 「わたしも…… すごく…… 美木くんが…… 好き……」

 美咲は、力を振り絞って、この短い言葉を口にすると、今度は悪戯っぽく微笑んだ。

 その言葉、その笑顔が、僕の心を震わせ、抑え切れない感情を湧きあがらせる。

 僕の目に溜まっていた涙は限界を超え、ポロポロと零れはじめた。

 それを見た美咲はゆっくりと目を瞑り、僕の頬にキスをした。

 美咲のくちびるが触れた瞬間、嗚咽しそうなほどの激しい波がこみ上げ、それを必死に堪えようと唇を噛み締めるが、どうにも堪えきれずに、声が漏れる。

 美咲は僕の頭を何度か撫でた。触れているのかどうか分からないほどの優しさで。


 いつまでも泣き顔を見られたくなかった僕は、「風が冷たいから、ブラケットを取ってくるね」と言って席を立とうとした。

 すると、美咲が僕の袖を引いた。

 そして、微笑みながら僕の目をじっと見つめ、一度微かに頷くと、静かに目を閉じた。目を瞑ったまま、涼しげな笑みを浮かべている美咲、その清らかさが、出会った頃の姿と重なって見えた。



 美咲の笑顔を見たのは、これが最後だった……



 テラスへ戻ると、美咲はすでに旅立っていた。

 とても穏やかな顔で、頬を一筋の涙が伝っていた。


 それから日が落ちるまで、僕は美咲に寄り添った。

 天国へ旅立つ美咲が寂しい思いをしないように……

 今の僕に出来る事は、これが全てだった。


 美咲の冷たい手を握りながら、涙で滲む景色の移ろいをぼんやりと眺め続けた。

 美咲が大好きだった飯山の里の景色……

 青かった空は、オレンジ色から紫色へと変化して行き、やがて日は沈んだ。

 何事もなかったかのように、辺りは漆黒の闇に包まれていく。

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