2.落日(1)
テレビのニュースで梅雨明けが発表された。
長く続いていた梅雨がようやく終わり、美ヶ丘ファームは本格的な夏を迎えようとしている。
畑では、トマトやキュウリ、ナスの実が日に日に大きくなっていく。
美咲を車椅子に座らせて、畑の周りをぐるりと一周するのが日課なのだが、梅雨時は泥濘が激しく、散歩できない日が続いた。
美咲は、畑や飯山の市内を見下ろすのが好きだった。
雨が降っているときは、軒先から滴る水滴に目を細めて微笑み、梅雨の晴れ間には市内を見下ろして季節の変化を楽しんだ。
僕の農作業の様子を観察して笑う時もあった。
そんな美咲を見つめていると、ほのぼのとした気分になる。
僕はホームセンターへ行って、座り心地の良さそうなデッキチェアを買ってきた。
頭のところが枕の代わりになるよう膨らんでいて、五段階のリクライニングが出来る優れものだ。
それを、美咲の好きな場所に運んであげる。
心地よい風が頬を撫でると、美咲はとても気持ち良さそうに目を瞑った。
美咲の体調はその日、その日で変わった。
とても穏やかな日もあれば、一日中辛そうな日もある。
それは、風向きや、お天気と一緒で、日によって大きく変化する。
穏やかな日は、一日中ご機嫌で、良く笑い、良く眠り、目を醒ますとそばに居る僕にちょっかいを出す事もあった。そんな時の美咲を見ていると、僕の心はとても華やかな気分になり、こんな日がずっと続いてくれたら、と思うのだが……
きっと、病状は進行している。
果たして、どこまで悪化しているのか、それは良く分からない。
美咲は病気と向き合う事をやめてしまったから……
僕が庭の野菜を収穫して、美咲に見せてあげると、とても嬉しそうに笑う。
でも、それを口にする事は殆ど無かった。
七月に入ってから極端に食事の量は減っていき、訪問介護の先生がしてくれる点滴に頼る事もあった。
固形物は殆ど口にしなくなり、薄いおかゆや、ペースト状にしたものを少しだけ食べるのが精一杯だった。
そもそも、食事自体をあまり好まなくなっている。
あんなに食べる事が大好きだったのに……
札幌で会ったとき、美咲は大盛のイクラ丼を抱え込むようにして食べていた。
あのような姿は、もう見る事が出来ないのだろう。
美咲の体は、益々細くなった。
抱きかかえたとき、その軽さを感じるのが悲しい。
それでも、美咲は美しい……
それは外見だけではなく内面もだ。
思うように動けない身体ながら、毎日一生懸命に生きている。
美咲が発する言葉、美咲が見せる笑顔、僕に訴えかける視線、ぐっすりと眠っている時ですら、一生懸命さが伝わって来る。
苦しみから解放された時に魅せてくれる笑顔は天使のようで、その笑顔に偽りはない。心の底から幸せを感じて、それが溢れ出た笑顔なのだ。
その笑顔は僕を癒やし、幸せを届けてくれる。
こんな素敵な笑顔を見られるのならば、この生活が永遠に続いても構わないとさえ思った。
「美木くん……」
僕が昼ごはんの準備をしていたとき、美咲のか弱い声が聞こえた。
「美咲さん、おはよう……」
美咲は一日の三分の二は眠っている。眠る時間帯は昼も夜も関係ない。
僕は美咲が目覚めると、朝だろうと夜だろうと、おはよう! と声を掛ける。
もう美咲は大きな声が出せない。
だから耳元に口を寄せないと正確には聞き取れない。
元気だった頃、美咲は僕の耳に口を近づけて囁いてくれた。
今は、僕のほうが美咲の口に耳を近づけている。
名前を呼ばれた僕は、美咲の元へ駆けつけ、笑顔で声を掛ける
「美咲さん、どうかした?」
「今日は…… お天気…… 良さそうね……」
美咲は小さな声で、ゆっくりと、言葉を何回かに区切って話す。
そうしないと息が続かないのだ。
苦しそうに話をするが、それでも笑顔は忘れていない。
美咲が息を弾ませながら、外を指で差し、その指をくるりと回した。
散歩に行きたい、という合図だ。
「分かった、散歩に行きたいんだね。車いすの準備をするから、少し待っていてね」
そう言うと、美咲は、「あ・り・が・と・う」、と声には出さず、口を動かし、顔がクシャクシャになるほど嬉しそうに笑った。
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