惜別
1.残された時間
新緑の季節が過ぎ、梅雨の訪れが近づき始めた頃、美咲の身体に異変が生じるようになった。
それまでも背中から腰にかけて痛みが現れ、飲み薬で痛みを和らげるような事はあったのだが、その痛みが激しくなり始めたのだ。
飲み薬だけでは我慢できないほどの痛みが現れ、僕はその度に病院へ連れて行く事になった。
そして病院へ行く頻度は次第に増えていく……
美咲は病院へ行くのを嫌がった。
病院で鎮痛作用のある注射をされると、しばらく動けなくなる。
数時間で目を覚ます時もあれば、一晩を越してしまう事もあった。
美咲は病院にそのまま入院させられてしまうのでは…… という不安を抱えていたのかもしれない。
病院へ行きたくないから、痛みをギリギリまで我慢する。
痛みは周期的にやってくるようで、ある程度ガマンすれば、少しラクになる。
それが分かっているから美咲は堪えた。
しかし僕は美咲が苦しむ姿を見るのが辛かった。
そこで、緩和ケアをしている病院を紹介してもらい訪問診療を受けることになった。
これならば、病院へ行かずに自宅で治療を受けられる。
これで美咲は、痛みを限界まで耐えなくてもよい。
しかし、痛みの緩和と、病気の進行は別の問題だった。
美咲は次第に食欲を失い、それによって体力が衰え、呼吸が乱れる事も増えてきた。明らかに、ガンは進行している。
東山さんは、「ガンはどんなに進行しても、生きるために必要な臓器が働いていれば死ぬ事はない」、という話をしていた。
しかし美咲の身体を蝕んでいるガンは、生きるために必要な臓器の働きを奪おうとしている。
僕は、美咲の体を侵しているガン細胞を憎んだ。
美咲は闘うという選択をせず共存と言う道を選んだ。
それにも関わらずガン細胞は勢力を広げようとしている。
これ以上、美咲の身体を蝕んでいけば、やがてガン細胞自身の存在が無くなるというのに……
僕は美咲が痛みに耐えている時は、手を握って寄り添った。
この手を通じて、僅かでも痛みを和らげる事ができれば……
この手を通じて、少しでもガンの進行を食い止める事ができれば……
僕の臓器と、美咲の臓器が入れ替わったって構わないとさえ思った。
しかし、僕の望みは何ひとつ叶わない。
それでも美咲は、痛みがない時に、たくさん喋り、たくさん笑った。
その時間は段々と短くなっていったが、美咲が笑う時は、僕も心から笑い、冗談を言い合った。
僕は、沸きあがってくる不安や恐怖を希望で封じ込めて、美咲に奇跡が起きるのを信じた。
しかし、その信念も揺らぎ始める……
ある晩、美咲が布団の中で身体を丸め、しくしくと泣いているのを見た。
「どこが痛いの?」
僕が聞くと、
美咲は、「死ぬのが怖い……」、と言った。
夜、眠りにつくと、このまま目が覚めないのでは…… という恐怖に襲われるのだそうだ。
僕は、美咲を抱き締めて言った。
「大丈夫だよ、僕がついているから。美咲さんが死んだら、僕も死ぬ。決して一人にはしないからね……」
美咲は、僕の胸でむせび泣いた。
ひとしきり泣くと、美咲は僕の目を見つめて寂しそうな笑顔を浮かべながら口を開いた。
「だめだよ、美木くんはちゃんと生きなきゃ…… そうしないと天国で会えないからね。それに美木くんが死んでしまったら、私達の大切な思い出が消えてしまうでしょ……」
さっきまで強張っていた美咲の身体から力が抜けた。
僕は、美咲の言葉に涙を流す。拭っても、拭っても止まらない涙。美咲の前では見せたくない涙が、いつまでも溢れてきた。
その晩、僕は夢を見た。
美ヶ丘ファームでバーベキューをしている夢だ。
七海と東山一家を招いて、みんなで楽しそうにやっていた。
唯ちゃんは相変わらず美咲にべったりで、僕と七海と東山さんは焚き火を囲んで談笑している。
東山さんの奥さんと、息子さん達は小川でザリガニを取っていて、ご近所の方たちがどんどん集まってくる。
僕は、美咲と唯ちゃんが遊んでいるのを少し離れた所から眺めていた。
二人とも凄く楽しそうに遊んでいた。
ところがふと気がつくと、美咲がこちらに背中を向けて霧の中に消えて行く……
唯ちゃんは泣き喚いた。
僕は美咲の名前を叫んだ。
でも美咲は振り向いてくれない。
そして美咲は霧の中に完全に消えてしまう。
暫くして霧は晴れたが、そこに美咲の姿はなかった。
そんな夢だった。
目が覚めると、美咲は隣でスヤスヤと眠っていた。僕の額にはべっとりと汗が浮かんでいた。
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