6.美ヶ丘ファーム(2)

 引越し当日、飯山市は雲ひとつない晴天に恵まれた。


 「ついに、夢の生活が始まるのね……」

 美咲の明るく弾んだ声が、美ヶ丘ファームに響き渡った。

 緊急搬送された日から一ヶ月以上経過しているが、美咲の身体に、これと言った異変は生じていない。


 僕は、美咲の身体の事を案じて、無理をさせないよう注意を払ってきたつもりだ。  

 だけど美咲は病人扱いされる事を嫌がり、自ら率先して引越しの準備にあたった。

 本当にガンに侵されているのか、そう思いたくなるほど、美咲は元気で活き活きとしていた。


 「美木くん、東山さんは何時頃来るの?」

 隣の部屋にいる美咲が、荷物を整理しながら叫んだ。

 「夕方、五時頃って言っていたよ」

 「そっかぁー、じゃぁ、片付けが終わったら、駅前のスーパーに連れてって」

 「何か、買い物あるの? バーベキューの買い出しは、東山さんがしてくれるって言っていたけど」

 「唯ちゃんにクッキーを焼いてあげたいの。いいでしょー」

 「オッケー、そっちが片付いたら行こう」


 今日はこれから、東山一家が来る事になっている。

 引越し祝いのバーベキューパーティーをしてくれるのだそうだ。

 この企画の発案者は、東山家末娘の唯ちゃんだった。

 唯ちゃんは、美咲の事がお気に入りで、僕らが準備の為に飯山を訪れると、その都度わざわざ会いに来てくれていた。

 美咲のスマホに電話が掛って来ることもあり、楽しそうに会話をしているのを僕は横で聞いていた。


 「そっかぁ、唯ちゃんはクッキーが好きなのね…… じゃぁ、お姉さんが飯山に引っ越したら、作ってあげるね……」

 そう言えば、そんな会話を聞いた覚えがある。

 

 僕たちは、引越しの片付けを早々に切り上げて、駅前のスーパーへ向かった。

 このスーパーは大型の店舗で、ここへ行けば大抵の物は揃う。

 僕がカートを押し、美咲が欲しいものを入れる。

 折角だからという事で、明日以降の食材も買う事にした。

 その姿は、横浜で買い物をしていた頃と一緒で、通りがかりの人が見れば、なんてことの無い平凡な夫婦に見えるのだろう。

 誰一人として、美咲に死期が迫っているなどとは思わない筈だ。

 世の中には一見幸せそうに見えても、実は困難な事を抱えている人が多いのだろうな、と僕は思った。


 「そう言えば七海ちゃんは何時に着くんだっけ?」

 美咲は、今日の引越しの事を七海に知らせていた。

 七海は引越しが土曜日である事を知ると、泊りがけで手伝いに来ると言い出した。


 僕は反対した。

 美咲が病気である事を知られたくなかったし、知らないで来るとなれば、僕たちが答えづらい話題になる事だってあり得る。

 もしも知っていたなら…… それはそれで七海が気を使うだろう。

 でも美咲は七海の訪問を歓迎していて、僕の知らない間に約束されていた。

 僕は美咲の決めた事に反対できない。


 「たしか、三時頃だったと思うよ」

 僕は適当に答えた。

 「それじゃ、少し時間が空くわね。一度、家に帰りましょう。時間になったら、美木くん、迎えに行ってあげてね」

 美咲は、僕の気持ちなど考えず、一人で仕切り始める。

 「タクシーで来るからいいよ」

 僕は口を尖らせた。

 余計な事に時間を割きたくなかったからだ。

 僕の心は常にせわしなく動いている。

 出来るなら、美咲以外の事に時間を費やしたくないのだ。


 「美木くんは、七海ちゃんに冷たいなぁ」

 美咲が頬っぺたを膨らませた。

 「だって……」

 続く言葉が見当たらない。

 「いいから迎えに行ってあげて! 七海ちゃんは美木くんの唯一の理解者なのよ……」

 ニヤリと笑った美咲の顔に言い返す言葉はなかった。


***


 飯山駅前のロータリーに車を停めて、七海の到着を待ちながら、これまでの事を考えていた。

 美咲の突然の病から今日まで、僕の心は絶えず揺れ動いている。

 果たしてこれで良いのだろうか……

 日々、自問自答を繰り返し、結局、何も出来ない自分に絶望し、苛立ち、それを悟られないように表情を繕って生活する。


 美咲の何気ない仕草や、言葉に感情を揺さぶられ、込み上げてくる涙を隠す毎日が続いた。

 この土地へやって来て、僕は、美咲とどのように接していけば良いのだろう。

 覚悟を決めて来たつもりだが、その思いは未だに解消されていない。

 そして、やがて訪れるその瞬間、僕はどんな気持ちで見送る事ができるのだろう。

 僕の心には、深い霧が掛かっているようで、全く先が見通せない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る