5.美ヶ丘ファーム(1)

 四月の下旬になると、飯山にようやく本格的な春が訪れた。

 里山の雪は消え、山桜の花が開き、雪の下で耐え続けていた水仙の開花が目前に迫っている。

 美ヶ丘ファーム周辺の、山や森は生命の息吹に満ち溢れている。

 

 僕たちは飯山への移住を決めた。

 僕は当初、横浜に残る事を望んだ。

 それは、医療体制を優先すべきだと思うからだ。

 しかし美咲はそれを拒み、病に侵される前の計画を続行したいと言う。

 どれだけ生きるかではなく、どのように生きるかが、美咲にとっては大切なのだろう。


 美咲の気持ちは痛いほど分かる。

 もしも僕が美咲の立場だったら、きっと同じ事を考えたに違いない。

 だけど、僕は美咲に一日でも長く生きて欲しいと思っている。


 担当医はいつ急変してもおかしくない状態だと言っていた。

 だから僕は、「入院して病状を観察し、異変が起きたらすぐに対処できるようにすべきだ」、と言った。

 でも美咲は、「それでは死んでいくのを待つだけになる」、と真っ向から反対した。


 それならば、せめて横浜の自宅で生活して急変したらすぐに掛りつけの病院へ行ける体制を取っておくべきだと思ったのだが、美咲はそれも受け付けてくれなかった。


 美咲は美ヶ丘ファームを死に場所にしようとしている。

 でも僕はそれを認めたくなかった。

 二人の将来を築いていく場所が、悲しい場所になるのは嫌だったからだ。


 でも美咲の考え方は違っていた。

 美ヶ丘ファームへ行くのは、そこで残り僅かな人生を終える、という後ろ向きの考えではなく、僕と共に幸せな生活を築いていく、言わば生きる希望なのだと……

 美咲にとって、美ヶ丘ファームへの移住はゴールではなく、スタートだった。


 「お願い、私の望みを叶えて!」

 僕は、美咲の希望を叶えることにした。

 固い決意の前に、そうせざるを得なかったのだ。


 それにしても美咲はいつの間に、このような死生観を持つことになったのか……

 担当医から余命宣告を受けた時、すでに美咲の心は決まっていたように思える。

 だとすると不安な気持ちを抱えて検査入院をしている間に悩み、苦しみ、その末に覚悟を固めたのだろうか……


 美咲が入院している間、僕は無事に済む事を祈るだけで、美咲の心に寄り添うことが出来なかった。

 もしかしたら美咲は、僕の前で不安を口にしたり、弱音を吐いたり、涙を流したかったのではないだろうか……

 あの時、僕は何もしてやれなかった。

 そんな事を考え出すと、胸が激しく痛みだす。


 ある日、横浜のマンションで引っ越しの準備をしていたら、高校の頃に使っていた一眼レフのカメラが出てきた。

 高校時代、僕は写真部に所属していたが、美咲が転校してから一度もシャッターを切っていない。

 僕の唯一の被写体であった美咲と別れてしまった事で、シャッターを切る意味がなくなってしまったからだ。


 僕はカメラを手に取り、高校時代の出来事を思い出した。

 体育祭で撮影した写真が切掛けで、美咲との距離が縮まり、僕たちは付き合い始めた。一度は別れたが、その写真を二十五年ぶりに見た美咲が同窓会への出席を決め、そして再会した。

 そんな事を考えていたら、このカメラをもう一度使ってみたくなった。


 僕は近所のホームセンターへ走り、フィルムを買って、カメラに装着した。

 試しにシャッターを切ってみると、問題なく動くことが確認できた。

 僕は隣の部屋を掃除していた美咲へレンズを向け、シャッターを一度切った。

 シャッター音に気づいた美咲が、こちらを見た。

 そして、僕が持っているカメラに気づく。

 それが、昔使っていた物だと分かると、口元を緩めて笑い出した。


 僕は、残された美咲の時間をたくさん切り取って、このカメラに収めていく事にした。

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