4.絶望
「それは……どういう事ですか?」
僕は、医師に詰め寄った。
美咲は、病院に搬送されてから一週間入院した。精密検査を受けるためだった。
腰の痛みは、緊急搬送された翌日には解消され、何事もなかったかのように元気を取り戻していた。
美咲は家に帰りたがった。
しかし、担当医はそれを許さなかった。
美咲の健康状態が正常では無いこと事を示唆したのだ。
僕は医師に賛同し、この際だから徹底的に検査してもらったほうが良いだろう、と美咲を諭した。
一週間後、検査結果を聞くために僕と美咲は、担当医の元を訪れていた。
そして、その医師から到底、受け入れられない結果を聞かされる。
『すい臓がん、ステージⅣ、リンパ節並びに複数の臓器に転移あり』
細身で白髪交じり、銀縁の眼鏡をかけた石橋という担当医は、これと言った世間話をする事もなく、冷静に検査結果を伝えてきた。
深刻な病状である事を聞かされ、僕は絶句した。
ステージⅣというのは残酷な響きだ。でも、それは絶望ではない。
しかし、そのあとに担当医が口にした言葉は冷酷だった。
僕はその言葉に憤った。
「転移箇所が多岐にわたっている事、ガンの進行速度が速い事から効果的な治療法はない」、という説明だったのだ。
「治療法がないって、そんな事ないでしょ! この病院では治療できないって意味ですよね?」
僕は石橋という担当医に疑いの目を向けた。
別の病院へ行けば何とかなる、そう信じていたのだ。
しかし石橋は興奮する事無く、冷静に、きっぱりと、僕の考えを否定した。
「セカンドオピニオンという選択肢はもちろんあります。しかし、残念ながら、美咲さんの状況はどの医師に診察を受けたとしても同じでしょう」
僕は机の下で拳を握り、立ち上がろうとした。
そんな残酷な言葉を美咲に浴びせた石橋に、怒りが込み上げてきたのだ。
美咲は、顔を伏せて冷静に話を聞いていた。
そして僕の拳が震えているのに気づくと、その上にそっと手を乗せ、静かに口を開いた。
「先生、それで…… 私はあとどれくらい生きられるのですか?」
僕は何かで頭を叩かれたような衝撃を覚えた。
美咲はこの短い時間で、自分の運命を受け入れようとしているのか……
僕は言葉を失う。
わずかな沈黙のあと、石橋が口を開いた。
少し躊躇いながら告げられた答えは、想像以上に厳しいものだった。
いつ急変してもおかしくない状態で、早ければ一ヶ月持たないかもしれないし、長くても半年は厳しいだろうという見解だったのだ。
効果的な治療法はなく、余命は長くて半年……
僕は自分の感情をコントロールする事が出来なくなった。
「一週間前まで元気だったのに、何でこうなるんですか…… 何も悪い事してないですよ…… 悪い物なんて食べてないし、変な薬を飲んだ訳でもない。それなのに、なんで……」
僕は頭を掻きむしり、机を何度も叩いた。
石橋は微動だにせず、美咲を冷静に見つめている。
僕の頭の中はパニックに陥った。
診療室の中に沈黙が漂った。
重苦しい空気に支配され、僕の身体は金縛りにあったように動かなくなった。
すると美咲は天井を見上げて鼻で大きく息を吸い込み、静かに口を開いた。
「美木くん、もういいよ。おうちに帰ろう…… 帰って甘い物でも食べようよ……私、入院中、ずっと甘いものが食べたかったんだ」
美咲は笑みを浮かべて僕に語りかけてきた。
僕は怒りのやり場を失い、放心状態に陥った。
僕と美咲は、手を握りあって病院をあとにした。
帰り道、頭の中はこれからの事で一杯になった。
治療の事、移住の事、美咲が居なくなってからの事は考えたくなかったが、どうしたって振り払う事は出来なかった。
思いつめている僕を心配した美咲は、僕の袖を引いたり、わき腹をつついたり、色々とちょっかいを出してきた。
でも今の僕には、それに応える余裕なんてない。
家に向かって歩いているとき、僕は美咲に向って言った。
「必ず、僕が何とかするから…… 絶対に治療方法はあるから…… だから美咲さん、諦めないでね」
すると美咲は、笑顔を浮かべて頷いた。
でもその後に美咲が言った言葉が、僕の心に突き刺さる。
「私も精一杯、頑張るよ。でも、最終的にどうするかは私に決めさせてね」
美咲の瞳の奥に、決意が漲っているのを感じた。
それからというもの、僕は得体のしれない恐怖と底知れぬ不安に苛まれ、憂鬱な日々を過ごした。
別の病院でも同じ診断を下され、納得がいかずに、また別の病院へ行くが、それでも結果は同じだった。
化学療法や放射線で余命を僅かに引き延ばすことは出来たとしても、逆に寿命を縮めるリスクもあると言う意見が大半だった。
僕は美咲に一日でも長く生きて欲しい。
一日長く生きたら特効薬が生まれるかもしれない。
美咲に生きるのを諦めて欲しくなかった。
しかし、美咲の考え方は違った。
美咲は自分の死を受け入れている。
***
西日が差し込むリビング、僕と美咲はソファーにもたれかかり呆然としている。
僕と美咲は何度もぶつかり合い、そして結論を導き出せずに沈黙してきた。
ある日、八方塞がりで苛立っている僕に、美咲はこう言った。
「美木くん、もうやめましょう。私に残されている大切な時間を無駄にしたくないの……」
「無駄なんかじゃないよ、そんな悲しい事言うなよ」
僕は、涙を流しながら訴えた。
「無駄なんて言ってごめんね…… でもね、病気と向き合って生きるのは嫌なの。私は、最後の最後まで美木くんと向き合って生きたいの。だから早く今までの生活を取り戻しましょう……」
「だから、それは病気が治ってからで……」
そこまで言って、僕は言葉に詰まる。
病気が治ってから……
言ってはいけない言葉を口にしてしまった気がした。
それは限りなく不可能に近いというのを痛感している。
分かってはいるが、それを受け入れてはならない、と言う信念が僕を突き動かしてきた。
でもそれが美咲の大切な時間を奪っているのだとしたら……
僕はうなだれた。
美咲は僕の背中に手を当てて、優しく語り掛けた。
「こんな事になるなんてびっくりよね。でもね、人は必ずいつか死ぬものでしょ…… 美木くんだって、いつかは死ぬのよ…… もしかしたら、私より先に死んでしまうかもしれない…… 明日が約束されている人なんて誰もいないけど、いつか死ぬと言う事だけは約束されているの」
僕は美咲の目を見つめた。
「だから、この瞬間を大切にしたいの。美木くんと笑いあって今日を終えたいの。もしも朝を迎える事ができたら、また一日、笑って過ごしましょう…… だからね、もう病気にかまっている暇なんてないの。美木くん、私の気持ち分かってくれるよね」
僕は泣き崩れた。
それは酷くみっともない姿だったと思う。
美咲に僕は抱きしめられた。
美咲は涙をすすっていた。
美咲の華奢な身体から伝わってくる温もり……
僕は悲しい運命を受け入れざるを得ない。
僕たちは、その後、何も言わずに抱き合った。
時計の針の音がやけに大きく感じた。
このまま時が止まって、この瞬間が永遠に続けば良いのに、と思った。
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