3.異変

 季節は、冬の峠を越え、寒さは緩み始めた。

 春は、すぐそばまでやって来ている。


 飯山の物件を下見してから、移住計画は加速度的に進んで行った。

 雪が降り出す前に、僕たちは現地へ三度足を運んだ。

 古民家の準備と、その他諸々の手続きをするためだ。

 と言っても、古民家に関する作業は、堀口さんの指図で、現地の方がやってくれているから、僕たちが直接手を出す事は殆どない。


 進捗状況の確認と希望するところがあれば、それを伝えるくらいだった。

 冬の前に現地での事前準備がほぼ終わり、あとは春を迎えて冬の間に傷んでしまった箇所を直せば、いよいよ引越しになる。


 在宅勤務のほうは、年明けから開始されている。

 通勤しなくて良いので、美咲と過ごす時間は大幅に増えた。

 客先への出張も減り、仕事は落ち着いている。

 月に一度くらいは出社しないといけなさそうだが、引っ越しても、飯山駅には新幹線が停まるので、東京まではの移動は問題無さそうだ。


 美咲は介護の仕事を徐々に減らして、三月末で退職する事になった。

 僕と美咲は、顔を合わせるたびに移住の話で盛り上がった。


 ある日、美咲が言い出した。

 飯山の移住地に名前をつけてはどうかと……

 「美木家の農園だから、美木農園でどう?」

 美咲がとりあえず思いついた事を口にした。

 「それじゃ、そのままだね。捻りが無さ過ぎないか……」

 「それじゃぁ、美木と美咲で、美しいって漢字が重なっているから美(うつくし)ファームは?」

 「うーん、悪くないけどもう一息かなぁ、読み方で迷っちゃいそうだし」

 「そっか…… じゃぁ丘にあるから、美ヶ丘ファームでどう?」

 少し、考えて僕は首を縦に振った。

 「それ、いいね」


 この日以降、飯山の移住地(古民家と農園をあわせて)の事を、僕達は美ヶ丘ファームと呼ぶ事にした。

 「ねぇ、私達って、美ヶ丘ファームで歳を重ねて行く訳じゃない…… おじいちゃん、おばあちゃんになっても、あそこで暮らしていくんだよね……」

 夕食の食器を洗い終えた美咲はソファーに座り、クッションを抱いて視線を宙に漂わせながら話す。

 「あっちでの生活に問題がなければ、ずっと住み事になるんだろうね」

 僕はウイスキーのロックをチビチビ飲みながら、美咲との会話を楽しんでいる。


 美咲は何かを想像して、クスクスと笑いだした。

 「何かおかしい?」

 僕が尋ねると、美咲はニヤニヤしながら話し始めた。


 「美ヶ丘ファームでの生活を想像していたら、楽しくなってきちゃって…… 朝早く起きるでしょ…… 庭で飼っているニワトリの卵を拾いに行って……」

 「え、ニワトリ飼うの?」

 「そうニワトリ飼うの…… 目玉焼きを作って…… 飯山の景色を見下ろしながらテラスで朝食を食べて…… 私は庭の草むしりとか、畑の水遣りとかして…… 美木くんは縁側に座ってノートパソコンと向き合って…… 『あっヘビだ!』、なんて私がビックリすると、美木くんは飛んできて、ヘビの尻尾を掴んで放り投げてくれるの」

 「あの…… 僕もヘビは苦手なんだけど……」

 「お昼は、畑の中にレジャーシートを広げてね、おにぎりを食べたり…… 日が沈んだら仕事は終わりにして、庭で焚き火をしたり、囲炉裏を囲んでお鍋をしたり…… たまに、お風呂に一緒に入ったり…… 寝る時はいつも一緒で、手を握りながら眠るの。私が美木くんのホッペにチューをすると、美木くんはちょっとエッチな事を想像したり…… フフフ」

 「なんだか、楽しそうだね」


 僕は美咲の肩に腕を回した。

 「そうやって、歳を重ねていって、お互いおじいちゃん、おばあちゃんになっても、仲良く手を繋いで、飯山の市内をデートするんだぁ……」

 美咲の瞳が、少し潤んでいるように見えた。

 「それでね、いつか私がちょっとだけ早く天国へ旅立つの。美木くんは、私の手を握って見送るの。涙の雫をふたつ以上零してね」

 「なんかそんな歌なかったっけ? だけど嫌だよ、美咲さんを見送るなんて…… 先に逝くのは僕だからね」

 「だめ、だめ…… 私に寂しい思いをさせないって約束したんだから……」

 「そっかぁ、僕が見送るのか…… まぁ、美ヶ丘ファームで一人暮らしをする美咲を想像するとちょっと切ない気もあるなぁ……」


 美咲がいなくなった後の事を考えたら、急に悲しい気分になってきた。

 そんな会話をしていると夜はあっという間に更けていく。

 これは毎晩の事だった。


 美ヶ丘ファームでの生活を思い浮かべて過ごす時間、それは間違いなく幸せなひとときで、かけがえの無い時間だった……


***


 その晩、美咲は寝つきが悪いようだった。

 いつもなら美咲が先に眠り、僕は美咲の寝息を聞きながら眠る。

 ところがこの日は、美咲は何度も何度も寝返りを打って、なかなか寝付けないようだった。


 異変を感じたのは、深夜だった。

 隣で寝ている筈の美咲が、呻き声を上げたのだ。

 「美咲さん、大丈夫? どこか痛いの?」

 美咲は横を向き、腰のあたりをさすっている。

 「腰が痛いの? 大丈夫?」

 荒い呼吸を繰り返すばかりで、返事がない。

 良くなる兆しはなく、むしろ痛みが増しているようで、ついには声を上げた。

 「もうだめ…… 痛い!」


 美咲の痛みが限界に達した。

 僕は慌てて救急車を呼び、一緒に病院へ向かった。


 美咲は市内の病院へ緊急搬送された。

 病院に到着すると救命スタッフは美咲の乗ったストレッチャーを荒々しく、処置室へと運びこむ。


 そして扉は閉ざされた。

 その中でどんな処置が施されたのか、僕には分からない。


 数時間後、美咲は集中治療室へと移された。

 窓越しに見ると、酸素マスクをつけて静かに眠っている。

 落ち着きを取り戻した美咲に、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 でも今まで不調を訴える事などなかった美咲の尋常ではない痛がり方、そして集中治療室の中で眠っている美咲の姿に、僕は胸の奥で居心地の悪い塊がゴロゴロと動いているような、そんな不快な気分に苛まれた。


 何か悪い病気でなければ良いのだが……

 僕の心に得体の知れない恐怖が生まれる。

 ついさっきまであんなに楽しそうに笑っていた美咲の姿が、遠のいて行く気がした。

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