転機

1.夢(1)

 関越道の藤岡ジャンクションから上信越道に入り、しばらくすると道路は右に左にとカーブを切り始める。

 それまでの一直線で代り映えしない景色とは打って変わり、車窓には赤や黄色に色づき始めた山の景色が広がる。

 横川のサービスエリアを過ぎると、山は一層深くなり、トンネルが頻繁に現れる。


 僕が運転する黒のエクストレイルは目的地へ向かって順調に高速道路を走っていた。助手席に座っている美咲はこの道を通るのが初めてだったようで、車窓の景色に心を奪われている。


 僕たちは長野県の小布施にある東山果樹園を目指している。

 ここのオーナーは東山浩司といい、銀行のシステム担当だった人だ。

 今は銀行を退職して家族とともに長野県の小布施市へ移住し、リンゴを中心とした果樹園を営んでいる。


 僕は彼の担当部署へシステムを導入した事がある。

 彼はとてもシステムに詳しく、無茶な要望を出す上層部に困り果てていた僕へ、助け舟を出してくれた恩人だ。


 そんな縁もあって仕事が終わってからも、互いに連絡を取り合うようになった。

 人付き合いが苦手な僕にとっては、数少ない友人の一人だ。


 移住計画は着々と進行していた。

 平岡マネージャに地方移住・在宅ワークの件を話した時、彼は真っ向から反対した。しかし退職する覚悟を決めていた僕が一歩も引かずに交渉を進めていくと、彼のところでは収まり切れず、取締役を巻き込んでの騒動に発展した。


 その結果、これからはそういう時代になるだろう……

 この社長の鶴の一声で一気に話が進んだのだ。


 僕の計画はモデルケースとして会社に受け入れられ、具体的な準備が進み始めた。 

 あとは移住先さえ決まれば実行に移せる、そんな段階まで来ている。


 あとは移住先さえ決まれば……

 ところが、その移住先がなかなか決まらなかった。

 美咲と二人で、北海道や沖縄、近場では千葉や、静岡など色んなところを旅行して、短期の移住体験などもしてみた。

 どこも魅力的で住んでからの事を想像すると夢は膨らんでいくのだが、いざ決定するとなると、なかなか踏ん切りがつかない。

 結局、梅雨明けの季節に移住先を探し始めたのに、いつの間にか夏を越えて秋を迎えてしまう。


 そんな時に偶然、横浜へ遊びに来ていた東山さんと会う事になって、飲みに行った席で、移住の話題になった。

 

 「へぇー移住するの、だったら長野においでよ。知り合いで古民家の管理をしている人がいるから紹介するよ。まぁ冬は雪が凄いけど、のんびりと生活するにはいいと思うよ。美木さんが来るなら大歓迎、地元の伝手があるから、色々と力になれると思うし……」

 この一言が決め手になった。

 僕達が移住先について、決め切れなかったのは、縁が無い、というのが一つの原因だった。

 二人だけで新しい生活を築き上げていくのは、それはそれで楽しいのだろうと思う。でも、やはり不安が付きまとう。

 その点、東山さんの言った、色々と力になれると思う、という言葉はこの上なく心強かった。


 それから僕は東山さんと頻繁に連絡を取り合い、様々な情報を貰って、移住先を長野県の北部に絞り、具体的な行動に入った。

 こうなると、展開は早い。


 今、僕と美咲は、移住の相談に乗ってくれた小布施の東山さんへ会いに行こうとしている。移住先について詳しい話をする事になっているのだ。


 移住先がまとまり始めると、美咲の頭の中は新しい生活への妄想で一杯になり、二人で顔を合わせると、溢れ出てきた妄想を、僕は聞かされる羽目になる。

 どんな家に住みたいとか、畑で何を作るとか、マンションではないから犬が飼えるよね、いや犬よりも猫かな…… そんな取りとめのない話が、夜毎繰り返された。


 僕はどちらかと言うと、引越し先の家がいくらくらいで購入できるのだろうとか、雪国で生活していくうえで必需品となるのは何だろうとか、美咲の妄想よりも少し具体的な事を考えていて、二人の会話がかみ合わない事もあった。

 

 でも何はともあれ、移住の話をしている時、美咲の瞳はキラキラと輝いていて、これから二人で作りあげていく未来は夢に満たされていた。


 トンネルをいくつか通過して行くと、美咲は助手席でうとうとし始めた。

 微笑みを浮かべた美咲の横顔が、とても愛らしい。


 小布施のスマートインターを降りると、周りは果樹園に囲まれる。

 たわわに実った赤い実に、美咲の視線は釘付けになった。


 「りんごって、あんなふうに生るんだね」

 美咲は驚きの声をあげた。

 美咲の嬉しそうなリアクションに僕の心は弾む。


 インターを降りて数分で東山果樹園に到着した。

 観光農園ではないので派手な看板はない。

 自宅の表札横に、東山果樹園、と手書きされた板が張り出されているだけだ。

 東山果樹園は直売をモットーにしているので、対面もしくはインターネット通販での取り扱いしか行わない。


 市場を介しての販売となれば、流通に掛かる時間を計算して出荷しなければならないが、直売ならば完熟した状態で出荷できる。

 その美味しさが評判となり、商売は大繁盛している。

 東山浩司は、このやり方にこだわっていた。

 大量に生産して、大量に捌き、売上を伸ばすのではなく、愛情を込めて育てた果物を、直接消費者に手渡す。東山の人柄を表すようなやり方だと僕は思った。


 車を東山家の庭に停めると、庭の奥の果樹園から東山さんが現れた。

 紺色の上下繋ぎの作業服に、麦藁帽子を被った東山さんはこちらの存在に気づくと、「おー!美木さん」、と大げさに手を振り、大きな声を張り上げた。


 僕は握手を交わし、美咲を紹介した。

 「首を長くして、待ってたよー」

 人懐こい笑顔で迎えてくれた。

 がっしりとした身体に日焼けした肌、履き尽くしている長靴と汚れた作業用手袋、全てが東山さんの逞しさを物語っているように感じられる。

 僕らは、東山さんに案内され農園を散策した。


 「わぁーすごい、りんごが一杯!」

 りんご農園を始めて訪れた美咲がはしゃいだ。

 「食べたかったら、好きなだけ食べていいよ」

 東山さんはりんご畑の中を歩きながら言う。

 「どうやって採ったらいいですか?」

 美咲が聞くと、東山さんはりんごを片手で握り、枝の部分を人さし指と中指で挟んで軽く捻った。すると、りんごは、いとも簡単に採れる。

 

 「引っ張らずに捻るのがコツだよ」

 東山さんの真似をして、美咲もやってみた。

 「わぁー、採れた!」

 ずっしりと重たいりんごが美咲の華奢な手に収まる。

 僕は美咲が採ったりんごを袖で拭いてあげた。

 その仕草を見ていた美咲はニヤッと笑い、そのりんごに齧りつく。


 「あまーい」

 美咲の口からりんごの汁が滴り落ちた。

 僕が始めて、東山果樹園を訪れた時と同じリアクションだ。


 採れたてのりんごは、スーパーで売っている物とは比べ物にならないほど美味しい。僕はりんごという果物を、それまであまり食べなかったが、それ以来、好物になっている。


 「飯山市の斑尾高原にホワイトハウスというお土産屋さんがあって、そこに堀口さんという人がいる。堀口さんには話を通してあるから行ってみたらいいよ。畑付きの古民家を管理しているそうだ。入居者を探しているようだから見学させてもらいなよ」

 「ありがとうございます。早速、行ってみます」

 僕と美咲は目を合わせて微笑んだ。


 「今晩は泊まって行くんだろ? バーベキューの支度をしておくから見学したら戻っておいで…… うちの子供達も楽しみにしている」

 

 東山さんのにこやかな笑顔に見送られ、僕たちは飯山市の斑尾高原へと向かった。

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