4.すれ違い(2)

 ある日、七海が僕のデスクにやってきた。


 「美木さん、今日飲みに行きましょう!」

 七海の言い方は、少し高圧的だった。

 僕は断ったのだが、七海は許してくれなかった。

 「今日は来て貰いますよ。美咲さんから特命を受けているので……」

 七海は不敵な笑みを浮かべて言った。


 美咲からの特命という言葉に、僕は救いを求め、七海に付き合った。

 今のままで良い筈はない、どこかで関係を修復しなければと思っていたからだ。


 その日の帰り道、僕と七海は、路地裏にある小さな焼鳥屋に入った。

 店内には演歌が流れている。

 向かい合った七海は、少し怒っているように見えた。

 二杯の生ビールがテーブルに運ばれてくると、七海は乾杯もせずにジョッキを煽った。

 生ビールをグイグイと喉へ流し込んだ七海は、僕を睨みながら唐突に口を開く。


 「今回の美木さん、イケてないですよ。喧嘩する相手は美咲さんじゃなくて平岡でしょ!」

 七海の言わんとすることは分かった。

 それは分かるのだが、それにしても仕事の事を理解してくれない美咲に非がないとは言えない訳で……


 僕は不服そうな態度で、ジョッキを掴んだ。

 すると七海は、両手で僕の腕を掴みジョッキをテーブルに置かせて、顔を近づけてきた。

 「美咲さんよりも大切なのものって何ですか? 失いたくないのは何なんですか?」

 七海の声が店内に響き、隣の客がこちらへ視線を向けてきた。

 僕は言葉を失う。


 「美咲さんには辛い過去があるんです。私に涙を流しながら話してくれました。『仕事だから仕方がないだろ』、っていうのは正論ですけど、それじゃぁ、おさまらない感情って言うのが女にはあるんですよ…… 正論を翳されちゃったら、言いたい事が言えなくなっちゃうじゃないですか」

 周りの客を気にした七海は、声を潜めつつも、語気を強めた。


 「美咲さんに寄り添って、話を聞いてあげて下さいよ。美木さんの事大好きなんだから……」

 七海はビールを飲み干すと、髪の毛をかき上げ、はぁーっとため息をついた。

 そして、呆れたように口を開く。

 

 「なんで私が、好きな美木さんと恋敵の美咲さんの仲を取り持っているんですかねぇ。私って、そういうお人よしのキャラじゃないんですよ。欲しい物は手段を選ばずに奪い去る、そういうタイプなんですけど…… だけど…… 美咲さんの事……」

 七海は眉間に皺を寄せ、泣きそうな顔をした。


 「もう今日はとことん行きますよ。最後まで付き合って貰いますからね。全部、美木さんのおごりですから……」

 七海は泣いた。

 それは泣き真似のようでもあり、本当に泣いているようでもあった。

 

 その後、七海に付き合って、すし屋とスナックをはしごした。七海は陽気だったが、時々荒れた。

 帰り際、「このままホテルにでも泊まっちゃいましょうか……」、と七海は言った。

 それが本心かどうかは分からない。

 何はともあれ、僕は七海に救われた。


 正論を翳して、美咲の思いを封じ込める……

 これは高校時代に僕が犯した過ちと同じだ。


 あの時の美咲は、僕に相談できない複雑な思いがあったのだ。

 それなのに僕は話を聞こうとすらせずに美咲を責めた。

 いや責めるならまだしも、美咲の事を避けたんだ。


 そして大切な人を失った。

 あのとき僕がきちんと美咲の話を聞く事ができていれば……

 僕の胸に、ずしーんと重たい痛みが走った


 次の日の朝、僕は美咲を公園に誘った。

 季節はずれの桜が咲いているかもしれないから……

 そう言って誘い出したのだ。


***


 僕と美咲は、公園の斜面の中腹にあるベンチに腰をかけた。

 僕は美咲の目を見つめて謝った。

 一番大切なのは美咲であること、美咲を失う事が何よりも悲しい、そんな事を切々と伝えた。


 口に出来ずに苦しんでいた事を、口に出したら思いがけず清々しい気持ちになった。それを聞いていた美咲の目には涙が浮かび、それを手の平で拭いながら、か弱い声で話し始めた。


 「私、父さんの介護をずっとしていたじゃない。仕事をしながら介護をするのは、本当に辛くて、こんな生活がいつまで続くのだろうと思っていたの…… だから父さんが亡くなった時は、ちょっとほっとした気持ちもあったの。でも葬儀が終わったら耐えられないほど寂しくなって、もう私は誰からも頼られず、誰にも頼る事ができなくなってしまったんだって思ったわ。家に一人でぽつんと居ると、世の中から取り残されたような気分になって、生きていく事が不安になったの……」

 美咲は空を見上げ、一度鼻をすすると、少し明るい口調で話を続けた。


 「でもね、美木くんと一緒に暮らすようになったら、毎日、楽しいことばっかりで、同じ部屋に美木くんが居るというだけで幸せを感じたの…… だから……」

 美咲は空を見上げながら、零れ出そうになる涙を指で押さえた。


 僕は、美咲の背中をさすった。

 美咲は僕の肩にもたれ掛った。

 雲に隠れていた太陽が現れると、公園の景色が俄かに明るくなった。

 気持ちよい天気になってきたので、公園の中を歩く事にした。


 美咲と手を繋ぐのは久しぶりだった。

 「僕ね、以前から考えていた夢があるんだ…… いつか実行に移そうと思っていたんだけどね……」


 僕は美咲に、いつか話そうと思っていた計画を話した。

 それは美咲と再会する前に考えていた計画なので事情は変わっているが、お互いに寄り添って生きるという点では、悪い選択ではない気がした。


 田舎に移住する、という計画を美咲に話した。

 田舎に移住して、土をいじって、作物を育て、自然に身を委ね、自然の恵みを頂戴して、のんびりと暮らす。

 いつかはそんな生き方がしたいと思っていた。

 でもそれは漠然としたものだから、いつかは…… の域に留まったままだった。

 でも今回の件で、今すぐにでも実行に移したい、そんな気分になってきた。

 今、動き出さなければ、いつか、なんてやって来ない気がしたからだ。

 七海に言われた、美咲よりも大切なものは何か、というひと言もずしりと心に響いている。

 

 実行に移すのならば、田舎へ移住して在宅ワークをするというやり方もある。

 今の会社がそれに対応してくれるかどうかは分からないが、交渉してみる価値はあるだろう。

 何度も理不尽な扱いを受けてきたが、これまでは何も言わずに受け入れてきた。

 でも、もう一人ではない。

 美咲を守るために主張すべき事は主張しよう。

 もしもそれでダメなら…… その時はそれまでの事、仕事はひとつじゃない。


 美咲は興味深そうに、時に不安そうな顔を浮かべて話しを聞いていた。

 そして視線を宙に漂わせて少し考えた後、「いいかも……」、とぽつりと呟いた。


 美咲の目が輝いていた。

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