5.クリスマス(2)
翌朝、美木の状態は落ち着いた。
処方された薬を飲み、ひと晩ぐっすりと眠ったせいか、熱はずいぶんと下がった。
美木は一人でベッドを占領し、美咲は側に寄り添ってひと晩を過ごした。
美木は、うつしてしまうといけないから、と言ったが、美咲は引かなかった。
二日目の朝を迎えると、美木の病状はさらに回復し、軽い頭痛と微熱があるくらいで普通に生活できる程に落ち着いた。
しかし、仕事のほうは、待ったなしの状況に追い込まれていく。
納期が間近に迫っており、時間の猶予がないのだ。
美木に替われる人材はいない。
そのうえインフルエンザに感染した者は、最低一週間は出社する事が出来ない、そういう決まりになっている。
美木は会社の後輩、沢野七海を介して、会社と連絡を取り合った。
七海は美木よりも十歳年下の後輩で、システム開発を支援する業務に従事している。
美木は七海に全幅の信頼を置いていた。
また同じセクションにおいて、美木が唯一心を開く事ができる存在でもある。
美木は、在宅で仕事を進める事になった。
そのために七海が資料とノートパソコンなど在宅ワークに必要なものを持って、美木の家を訪れる事になっている。
美咲は仕事を休んだ。
それは美木の看病をする為でもあるし、同居している美咲も感染している可能性があるから、という理由もある。
職場へインフルエンザウイルスを持ち込む訳にはいかないのだ。
七海は昼過ぎにやって来た。
小柄で細身で、やや丸顔の七海はピシッとした紺のスーツ姿に、真っ白なコートを羽織っている。童顔であるため、女子大生だと言われても信じてしまいそうなほど見た目が若い。
しかし話す内容は的確で、一切の無駄がない。
美木は美咲に七海の事を、会社の後輩だ、と紹介し、七海へは美咲の事を、婚約者だ、と紹介した。
婚約者だ、と聞かされた七海は、表情を一瞬曇らせた。
しかし、すぐに素顔を取り戻す。
美木は七海から必要な物を一式受け取った。
そして持ち込まれた物を確認するため、一旦部屋に篭もり、七海はその確認が終えるまでリビングで待機する事になった。
美咲は、美木と七海の会話に心がざわついていた……
七海の言葉遣いが、会社の先輩、後輩という間柄ではなく、とてもフレンドリーに聞えたからだ。
それに七海は自分にはない若さと聡明さを兼ね備えている。
美木が好意を寄せたとしても何ら不思議は無い。
美咲はリビングで七海と向かい合い、「七海さん、甘いものはお好き?」、と笑顔で話しかけた。
美咲は苗字ではなく、あえて名前で呼び掛けた。
それは美木が、七海さんと呼んでいたから、というのもあるが、親近感を持って貰えるように、という配慮もあった。
「はい、大好きです」
七海は嬉しそうに、はっきりと笑顔で言った。
「一昨日、美木くんが買ってきたクリスマスケーキがあるのだけど、いかがかしら?」
イブの日、美木が買ってきたクリスマスケーキはインフルエンザ騒動でそれどころではなくなり、冷蔵に仕舞われたままになっている。
「美木さん、あの様子じゃケーキって感じじゃないですもんね。遠慮なく頂きます!」
七海の喋り方には、変な気遣いがなくて、聞いていて心地がよい。
美咲は七海の人柄を好意的に受け止めた。
美咲がケーキを取り分け、紅茶を注いでいると、七海は、それをさりげなく手伝う。それは、手伝っている、という仰々しさを感じさせない自然な所作だった。
二人は、向かい合って、紅茶を飲み、ケーキを食べた。
最初のうちは、社交辞令的な会話をしていたが、美咲は七海の歯に衣着せぬ物言いに次第に引き込まれていく。
そして話題は世間話から美木の事に……
七海は、美木の会社での様子を詳らかに伝えた。
美木が孤軍奮闘して、トラブル案件を次から次へと完結させていく事、そのために強硬な手段を用いざるを得ず孤立してしまいがちな事、上司に手柄を横取りされて正当な評価を得られていない事……
初めのうちは穏やかだった七海の口調が、徐々に熱を帯びていく。
「うちの会社って成果主義なので、利益率の高いプロジェクトを担当した人が高い評価を得られる傾向が強いんです。でも、美木さんの担当はトラブル案件ばかりだから利益なんてあがらない訳です。でも、しっかりとプロジェクトを完了させているのだから評価されないとおかしいと思うんですよね。でも美木さんはそういう事に無関心だから何も言わないんです。それを良い事に上司の平岡マネージャが手柄を横取りしてしまって……」
七海が美木の味方でいてくれるのは喜ばしい事だ、と思う。
でも肩入れの仕方が少し過剰だな、とも思った。
七海さんは美木くんに好意を抱いているのでは……
美咲はそう思った。
「七海さんは美木くんの事、どう思う?」
美咲はわざと曖昧な聞き方をした。
七海は数秒間、美咲の目を見つめ、一度目を伏せたあと、もう一度美咲の目を見つめて口を開いた。
「それって、つまり……」
七海の目つきに鋭さが加わり、美咲の心臓はドキドキと音を立て始める。
「美咲さん、私の事、疑いの目で見ていますね……」
美咲の目を見据えて言った。
「はっきりと言いますけど…… 美木さんの事、好きですよ…… 人として、とかじゃなく、男性として……」
そこまで言うと、七海の目つきが急に柔らかくなり、笑顔が浮かぶ。
「でも美木さん、全然相手にしてくれないんですよ…… 食事とか、映画とか、色々誘っているんですけど、全滅です。私って、女として魅力ないのかなって、落ち込んでばかりです。それでも、いつかは認めてくれるかも、と思って、頑張っているんですけど…… でも分かりました。ダメな原因は美咲さんがいたからだったんですね……」
七海は目を細めて、苦笑した。
「完敗です…… 相手が悪すぎます」
サバサバとした表情で、七海は紅茶を口へ運んだ。
美咲は、呆然としていた。
まさか、七海がこれ程あからさまに打ち明けてくるとは……
探るように言ってみた、どう思う? の裏に隠された本心を見抜き、言い淀む事無く、気持ちをはっきりと伝える七海には、凄みすら感じる。
そして同時に、七海の裏表のないハッキリとした性格に心を惹かれ始めた。
もしかしたら、彼女はこれからも美木くんに好かれよう、と自分に磨きを掛けるかもしれない。
それでも彼女ならば、こそこそと隠れて何かをするのではなく、正々堂々と向き合ってきそうな気がする。
もしも、そんな時が来たら……
それは仕方がない。
美咲の心にあったざわめきは解消され、清々しい気分になり始めた。
一時間ほどして美木が部屋から出てきた。
七海が準備してきた物に不足はなく、在宅勤務で対応できそうだ、と美木は言った。
帰り際、美木と美咲は、七海を玄関で見送った。
美木が七海に礼を言うと、七海は、「今日の件は貸しって事で!」、と悪戯っぽい表情で笑い、美咲に対しては、「ごちそう様でした。また、女子トークしましょうね!」、とウインクをした。
そんな二人を美木は不思議そうに見つめる。
リビングにはクリスマスツリーが飾られたままになっていた。
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