同棲
1.引越し
駅前商店街では風に吹かれた七夕の笹飾りが、サラサラと音を立てて揺れている。
テレビの天気予報では雨時々曇り、と言っていたが、雨はまだ降りだしていない。
僕は商店街に面するマンションの五階に住んでいる。
間取りは2LDK、六十平米だ。
この部屋を借りたとき、僕には交際したての女性が居た。
その女性といくつかの物件を内見してこの部屋に決めた。
一人暮らしにしては少し広すぎると思ったが、あの時はきっと、二人の将来を考えていたのだと思う。
結局、その女性とは半年後に別れ、この部屋に二人で住む事はなかった。
広すぎる部屋に住み始めて、もう十年以上になる。
何度も引っ越そうと思った。
でも住んでいたら居心地がよくなり、引っ越そうという気持ちはいつの間にか消えていた。
僕はずっとこのまま一人で住み続けるのだろうな、そう思っていた。
でも、その無駄に広かった部屋にようやく同居人を迎える事になった。
札幌出張の後、美咲は頻繁にこの部屋を訪れるようになった。
僕は、美咲がいつでも来られるように、部屋の鍵を渡した。
美咲と会う機会を増やしたかったからだ。
きっと美咲も同じ気持ちだったと思う。
この部屋で待ち合わせをして、食事をしながら話をする。
話が盛り上がって、時間が遅くなると泊まって行く事だってあった。
洗面所に置かれたマグカップには水色とピンクの歯ブラシが並んで立てられ、お箸とかスプーンとかお皿などの食器類が少しづつ増えていき、僕の部屋に美咲の生活感が漂うようになっていく。
そんな生活が日常的になり、この部屋で過ごす時間は段々と増えていった。
美咲が泊まらないで帰る時は、必ず駅まで見送りに行く。
改札口の外からホームへ降りていく美咲の背中にさよならをするのだ。
ある日、美咲の華奢な背中を見送っていたら、突然、切ない気分に襲われた。
遠ざかっていく背中を見送る事に、耐えられなくなったのだと思う。
僕は改札口を抜けて、美咲を追いかけた。
ホームへ降りる階段の中ほどで追いつき、手首をぎゅっと掴んだ。
突然、手首を掴まれてびっくりした美咲は、それが僕だと分かると目を潤ませた。
内向的な性格であると自負している僕だが、美咲を前にすると自分でも驚くほど大胆な行動を取っている事がある。
きっと美咲に対する感情は、理性では押しとどめられないほどに大きく膨らんでいるのだろう。
僕は美咲を抱きしめた。
「もう帰らなくていいよ…… 一緒に住もう……」
美咲の耳元で囁くと、美咲は僕の胸の中で頷いた。
その日から一ヶ月が経過して、美咲が引っ越してくる日を迎えた。
僕の家から美咲の家までは車で十分ほどだ。
美咲が、荷物が少ないから乗用車で充分だよ、と言っていたので、マイカーを運転して迎えに行った。
美咲の部屋を訪れたのは初めてだった。
駅から歩いて五分ほどのところにある家は、四階建てマンションの三階で、インターフォンを押したら、それに応答することなく飛び出してきた。
美咲は、白いTシャツに、浅葱色のハーフパンツを履いていた。
「ありがとう、美木くん」
額に浮かんだ汗を、首から下げたタオルで拭きながら微笑む美咲。
部屋に通されて中に入ると、大きなスーツケースが一つと、段ボールが三段重ねになって、部屋の真ん中に置かれていた。
ワンルームの室内にそれ以外の物は何もない。
「荷物って、これだけ?」
僕が不思議がって尋ねると、「これだけよ…… 四十三年も生きてきて、たったこれだけ…… 私の人生って、なんだったのかしらね……」
美咲は、自虐的に笑った。
電化製品や寝具は重複するから全て処分する、と言っていたが、それにしても荷物が少ない。二人が住む家を探して引っ越すのではなく、僕の部屋へ引っ越して来るという事で、無理して荷物を減らしたのかもしれない。
そんな風に思うと気を使わせてしまったかなぁ、と申し訳ない気持ちになってくる。
「かなり荷物、処分したんじゃない…… ひと部屋空いているから、持ってきても良かったんだよ……」
僕が申し訳なさそうに話すと、「ん…… うん…… でも、本当に大したものなかったの…… 父さんが亡くなって、実家からここへ引っ越した時に、たくさん捨てちゃったから……」
美咲の言葉が、僕の心にずしんと響いた。
高校三年の夏、ニューヨークへ引っ越した美咲は、それまでの人間関係がリセットされた事で孤独感を味わう。
妻を亡くした父親は、その悲しさを紛らわせようとしたのか、それまで以上に仕事に打ち込み、その為に家で一緒に過ごす時間は少なく…… また日本人学校へ行けば周りに人は居るものの、日本に居た頃のような気さくに何でも語り合える友達は出来なかった。
美咲は日本に残れば良かった、と後悔した。
妻を亡くして肩を落としていた父親の姿、それに父親の強い意向もあって、半ば仕方無く日本を離れた美咲だったが、残るべきだったと悔やみ、涙で枕を濡らす事もあったそうだ。
「あの頃ってさぁ、今みたいに携帯電話やスマホは普及していなかったでしょ、だから高校時代の友達と連絡を取ろうと思っても手紙や国際電話になっちゃうし、そうまでして連絡を取る用事があるのかって言うと、そんな事は無い訳だし……」
美咲は、遠い場所へポツンと置き去りにされたような気分を味わったらしい。
「それまで孤独とは無縁だと思っていたのに、私って孤独なんだ、って気づいたら悲しくなってきちゃって…… 母さんの喪失感もあったし…… それに…… ね。色々とあったから、すごく落ち込んだの」
それでも月日が経つにつれて、本音を語れる友達が何人か出来て、向こうの生活に少しづつ馴染んでいった。英語も生活に支障が出ないくらいには上達したし、ホームパーティーに呼んでくれる友達も出来た。
だけど日本に帰国したら、待っていたのはまたしても人間関係のリセットだった。
「帰国したら、高校時代の友達と遊べるって思っていたの。だけどね、私がニューヨークに行っている間にみんな、高校生の頃とは違う友達の輪が出来ているのよね。ちっとも話題が噛み合わないし、何人かの友達とは会ったけど、一回きりで続く事はなかった……」
日本に戻っても、美咲はどこかに寂しさを抱えて生きていた。
職場で知り合った男性と交際するようになり、結婚して、これで寂しさから開放される、これから新しい家庭を作っていくんだ、と夢を膨らませた時期もあった。
でも、父親の看病に追われたが故に、夫と別れてしまう。
仕事を替えて介護職に就き、実家と職場の往復だけで季節は巡っていった。
世の中で何が流行っているとか、どんなタレントが注目されているとか、気にする余裕は無かったし、そんな気分にもなれなかった。
そして誠心誠意、看病してきた父親も他界……
高校の時に母親を亡くし、夫と離婚して、数年前に父親を亡くしてしまった美咲。
彼女は一人っ子なので身寄りがいない。
実家を引き払った時、もう美咲の帰るところはなくなっていた。
そんな事を考えると、四十三年間でたったこれだけ……、そう言った美咲の言葉がやけに悲しく感じられる。
もしも、美咲との別れ方がもう少し違った形になっていたら……
そんな言葉が浮かんで来たが、僕はそれを飲み込んだ。
今さら、過去の事を言っても仕方が無い。
「これから二人で、色々と揃えていこうね……」
僕が美咲に掛けられる言葉は、これが精一杯だった。
荷物が少なかったので、引っ越しは簡単に終わった。
梅雨の晴れ間を縫うように、僕の車が一往復しただけで作業は終わった。
荷物を運び入れたあと、僕は事前に空けておいた部屋へ美咲を招き入れ、この部屋を好きなように使ってね、と話した。
美咲が喜ぶと思って言ったつもりだった。
だけど、美木くんの部屋がないのに私の部屋があるのはおかしいじゃない、と美咲は口を尖らせた。
「僕はいつもリビングで過ごすからいいんだよ」
「だったら私も一緒に居させて……」
美咲の甘えるような口ぶりに、僕の胸の奥に微かな痛みが走った。
それは不快な痛みではなく、こそばゆいと表現したくなるような何とも言えない痛みだった。
結局、空けておいた部屋は荷物置き場になった。
僕は、美咲との生活を始めるにあたって、二人で新しい生活スタイルを作り上げようと思っていた。
だけど、美咲はそれを嫌がった。
僕が、大きなベッドに買い替えよう、と言うと、私達には今のサイズがピッタリよ、と舌を出して笑い、カーテンを新しいものに付け替えよう、と言うと、素敵なカーテンだからこのままがいいわ、と頬を膨らませた。
結局、僕のそれまでの生活に美咲が溶け込んでくる、という形で同棲生活はスタートした。
荷物を運び終えた僕と美咲は、ローソファーに座って肩を並べた。
空け放った窓から、少し湿った空気が吹き込んでカーテンを揺らしている。
二人でぼんやりとしていると、美咲は天井を見上げてクスクスと笑い出した。
何が可笑しいのだろうかと、顔を覗き込むと、美咲は僕の目を見つめて微笑み、「これから…… ずっと、一緒なんだね……」と呟いた。
僕は美咲の事をときどき、ずるいと思うことがある。
美咲は僕の心を揺さぶるツボを心得ていて、それを大切な瞬間に繰り出して来るのだ。そして僕は美咲の策略にはまり、いつも手の平で転がされる。
でも、そういったところも含めて全て美咲の魅力なのだ。
二十五年ぶりに会った美咲は、色んな所が変わっていた。
透き通るほど清らかだった存在も、時を経て様々な経験をすれば傷ついたり、磨り減ったり、歪んだり……
変わったところはたくさんある。
これまでの苦労を聞いたら、外見では伝わらない心の色が透けて見えたりもする。
それでも、僕は美咲が好きだ。
過去も、未来も関係ない。今、目の前にいる美咲が好きなんだ。
もう二度と寂しい思いはさせない……
僕は、美咲の体をぎゅっと抱きしめた。
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