7.札幌(2)

 僕は、美咲のLINEメッセージの意味が理解できなかった。


 これから行くね、の行き先は、果たしてどこを指しているのだろう……

 様々な妄想が頭の中を駆け巡ったが、明確な答えを導き出す事は出来ない。

 仕方なく、「今どこにいるの?」、とメッセージを送ると、即座に返事が来た。

 「仙台市の上空でーす」

 短い文章だったが、美咲の心が浮き立っているのが、何となく伝わってくる。


 仙台市の上空……

 美咲は飛行機に乗っているのか。

 ひょっとして、札幌へ向かっている?

 僕の頭は美咲の思いがけない行動に混乱した。

 でも、この後の展開をあれやこれやと想像すると、心が晴れやかな気分になってきて、曇っていた窓の外の景色が、急に明るくなったように見え始めた。


 客先での作業は滞りなく進み、美咲との待ち合わせは午後六時に、大通り公園のテレビ塔前と言う事になった。

 札幌で美咲と会える……

 僕の心に、驚きと、喜びと、興奮が一気に押し寄せてきて、足元が何だかフワフワと宙に浮いているような気分になった。


 母校でのあの件以来、僕の心は美咲で一杯になっている。

 今、何をしているのだろう……

 今日は何を食べたのだろう……

 風邪など引いていないだろうか……

 次はいつ会えるのだろう……

 これほど恋しい気持ちを抱くなんて、思いつく範囲では記憶にない。

 高校生の頃も美咲に恋をしていたが、あの頃は毎日学校で会う事が出来たし、それからの人生では、こんな気持ちになるような恋をしていない。



 テレビ塔の前、美咲は周囲をキョロキョロしながら立っていた。

 その姿を目にした瞬間、美咲の周りに広がる景色までもが輝いている気がした。

 数週間前に会っているのに、すごく久しぶりに会ったような気分になる。


 美咲は僕に気づくと、手を振りながら小走りでやってきた。

 「お仕事、だいじょうぶ?」

 僕の肘の辺りを触りながら話す。


 美咲の顔を間近で見て、生の声を聞いていたら、仕事の緊張感から解き放たれ、ほっとした気分になってきた。使命感を抱えて札幌へやって来た僕に、美咲は安らぎを与えてくれたのだ。

 「ようこそ、恋の町札幌へ」

 片手で誘うようなポーズを取ると、美咲はニッコリと笑った。

 

 僕たちは、腕を組んで大通り公園の中をブラブラと歩き始めた。

 何日か前に降ったと思われる雪が、日影にところどころ残っている。


 同窓会で再会してから僕達は何度かデートしていた。

 でも今日はいつもとは少し違う空気を感じる。

 それは場所が札幌という特別な場所だから、と言うのもあるだろうし、美咲がわざわざ北海道まで来てくれた、というのもあると思う。

 特別な一日になるのかもしれない、そんな予感がする。


 「お腹空いちゃったぁ、何か美味しいものが食べたいな!」

 どこへ行こうか、という話をしている時に美咲が言った。

 「何が食べたい?」

 「イクラ!」

 「それじゃ、僕のオススメのお店に案内するよ。ストップ!って言うまで丼にイクラを載せてくれるお店にね」

 「やったぁ、楽しみ……」

 そう言って僕の腕にしがみついて来た美咲の身体が、ほんのり温かかく感じられた。季節は春だが、まだ寒い。その寒さが、美咲の温もりを余計に感じさせてくれる。


 僕たちは大通り公園を抜け、ススキノにある海鮮がメインのお店で食事をした。

 威勢の良い掛け声を発しながら、丼にイクラをよそっていくねじり鉢巻の店員。

 美咲はご飯が盛られている丼と、そこへ注がれるイクラ、それに店員の顔を交互に見つめ、ギリギリのタイミングでストップを掛けた。


 傾けたら零れてしまいそうなほどの大盛イクラ丼を前にした美咲は、丼の向きを何度も変えて眺め、興奮し、美味しい、と言う言葉を何度も発して、完食した。

 

 美咲はずっと上機嫌だった。

 こっそりと札幌へ来たことを愉快に話し、どうしても今週末に会いたかった、と言った。きっと特別な時間を過ごしたかったのだと思う。

 それは僕も同じだった。


 食事を終えた僕たちは北海道で話題になっている、しめパフェを食べに行こう、という話になっていたのだが、美咲が、お酒を飲みながらもう少しお喋りがしたい、と言いだしたので、僕が出張の時に利用するバーへ案内する事にした。


 すすきの駅から歩いて数分のところに、そのバーはある。

 高級感が漂うという作りではないが、落ち着いた雰囲気のカウンターと、いくつかのボックス席が並び、適度な緊張感とやすらぎを与えてくれるお店だ。


 店の扉を開けると、先客が二組入っていた。

 ボックス席に三名と、奥のカウンター席に二名。

 僕たちは、男性バーテンダーに案内され、十席ほどあるカウンター席の真ん中に座った。


 カウンターの中には、蝶ネクタイを締めた男性バーテンダーと、奥のお客さんの相手をしている女性バーテンダーの二人がいる。

 店内にはジャズが静かに流れていた。


 「美木さん、こんばんは」

 谷口英二、という名札をつけた白髪交じりの男性バーテンダーが挨拶をしてきた。

 いつもお世話になっています、と僕が言うと、こちらこそいつも有難うございます、と丁寧に迎えられる。

 

 美咲は店内を見回して様子を伺っていた。

 「ここ、よく来るの?」

 美咲は、僕の耳に口を近づけて囁いた。

 高校生の頃からそうなのだが、美咲は小さな声で話すとき、唇が触れてしまいそうなほど接近して囁く。その仕草は、僕にとってはとても刺激的で、耳に掛かる息遣いにいつもドキドキしてしまう。


 「札幌に出張したときにね。仕事の愚痴を谷口さんに聞いてもらっているんだ」

 僕も美咲の耳に口を近づけて小さな声で言った。


 美咲はまた店内を見回した。

 「私、こういうお店に入るの初めてなんだ。なんか緊張しちゃうなぁ」

 少し意外な感じがした。

 美咲の雰囲気からしたら、こういったバーに来て、一人でお酒を飲んでいる姿が似合いそうな気がする。美咲が歩んできた人生に、こういうシチューエーションが現れる事はなかったのだろうか。それとも女性がバーで酒を飲むという行為は一般的ではないのか。

 「別に緊張すること無いよ、リラックスして好きなお酒を飲んでいれば、谷口さんが話しかけてくれるから……」

 僕が谷口さんに目配せをすると、美咲は僕の顔をじっと見つめ、何か言いたそうに唇を動かしかけたが、それを飲み込み、代わりに曖昧な笑顔を浮かべた。


 バーテンダーの谷口さんは、美咲の様子を察して気さくに話しかけてくれた。

 おすすめのドリンクを紹介したり、カクテルを作るパフォーマンスを披露したり、谷口さんが知っている僕の事を話したり……

 谷口さんは僕たちの関係を聞く事はなかったが、雰囲気をみて大体の事は察してくれたようだった。


 奥に座っていたお客さんが帰ると、女性バーテンダーの水川さんも会話に加わった。僕はこういった店を一人で訪れ、寂しさを紛らわせてきた。

 友達と呼べるような人がおらず、職場の同僚とも深い付き合いをしてこなかった僕は、こういうところでしか息を抜く事が出来なかったのだ。


 美咲は、バーテンダーと気さくに話しをしている僕を不思議そうな顔で見つめていた。高校生の頃の内向的なイメージが強くて、今の姿が意外に映ったのかもしれない。

 最初は緊張していた美咲だったが、次第に雰囲気に打ち解けていき、気がつけば笑いの耐えない楽しい時間を過ごしていた。

 水川さんは、僕と美咲の関係に関心を持ったようで、途中から話題の中心は僕たちの事ばかりになった。

 出会った時の事、美咲の転校で別れた事、同窓会で再会した事……

 これまでの出来事を面白おかしく話し、みんなで笑い合った。


 僕はマッカランのロックを三杯、美咲は谷口さんが作るカクテルを何杯か飲んで、会計を済ませた。

 「そう言えば、美咲さん、ホテルは?」

 ふと僕は、美咲がどこへ泊まるのか聞いていなかった事に気づいた。

 「あのね…… まだ取ってないの……」

 美咲は、予約し忘れた、というようなニュアンスで言った。

 でもその口ぶりに、慌てた様子は伺えない。

 わざと予約しなかったのではないか、と僕は思った。


 「そっかぁ、それじゃ、少し狭いけど僕の部屋に泊まる?」

 内心はドキドキしていたのだが、出来るだけ平静を装って言った。

 「泊めてくれる?」

 美咲の上目遣いが、僕の心臓を早く、強く動かす。

 何となく美咲の手の平で転がされているような気もした。

 でも悪い気はしない、それが僕にとっては心地良い空気感なのだ。


 バーを出ようとすると僕のスマートフォンの上には、再会した日の様にハンカチが乗せられていた。

 スマートフォンや携帯電話は僕たちの高校時代に存在しなかった代物だ。

 あの頃は学校以外で連絡を取ろうと思えば、家の電話に掛けるしか無かった。

 だから美咲の父親や、母親が電話口に出ると僕の心臓は早鐘を打ち、どのように話せば不快な思いをさせずに済むか、いつも緊張していた。

 もしも携帯電話があったら、どんなにラクだったろうと思う。


 でもテーブルを挟んで向き合っているカップルが会話をろくにせず、スマートフォンをいじっている姿を見ると、無粋で余計な物のように思えてくる。

 少なくとも二人で過ごしているこの瞬間に、必要無い事は確かだ。

 美咲と向き合っている時、テーブルの上にスマートフォンを置かない……

 僕はそう決めた。


 店を出て、ネオンが煌びやかに輝くススキノの街を、僕たちは腕を絡めて歩いた。

 二人とも少し酔っていて、歩きながら時々ふらついたが、何をしても笑いが起きた。

 

 フロントでルームキーを受け取ってエレベーターに乗ると、美咲は階数が表示されるパネルをじっと見つめて黙り込んだ。カバンを両手で持ち、背筋を伸ばして立っている姿が何となく余所余所さを感じさせる。


 「なんか、ちょっと照れるね」

 ホテルの部屋に入った美咲が言った。

 「うん、照れるね」

 僕たちは顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。


 そして狭いベッドで一夜を共にする。

 美咲のぬくもりを肌で感じ、これまでとは違う、新たな関係の始まりを感じた。

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