6.札幌(1)
オフィスは、騒然としている。
広いフロアでいくつものプロジェクトが同時進行しているため、始業時間を過ぎると俄かに活気を帯びてくるのだ。
電話の話し声に、プリンターの印刷音、ひっきりなしに掛かってくる電話の呼び出し音に、キーボードを叩く音…… 様々な音が重なり合って、日中のオフィスは静まる事がない。
静寂の瞬間がひとときもないフロアの端っこにある席で、僕はパソコンと向き合い、完了したプロジェクトの検証をしていた。
ようやくひとつの荒波から解放され、ひとときの安らぎを感じている。
***
母校を訪れたあの日から、ちょうど一ヶ月が経過した。
美咲は僕の気持ちをすんなりと受け入れてくれた。
しかし、僕が予想した反応とは少し違っていた。
あの時の事を思い出すと、胸の奥がムズムズと疼きだす。
校門の前で、僕は告白した。
美咲は抵抗する事無く、僕に身を委ねてくれた。
確かな手ごたえがあった。
美咲に受け入れてもらえた、そう確信した僕は抱きしめていた腕の力を緩めた。
美咲は僕の目を暫く見つめていた。
ここまでは、良い……
しかし次の瞬間、美咲は僕に背を向けるとクスクスと笑い始める。
美咲の笑いがどういう意味なのか、僕は理解できず恐る恐る顔を覗きこんだ。
すると美咲は一瞬、僕の目を見て笑いを止めたが、すぐに目をそらし視線を宙に漂わせると、またクスクスと笑い出すのだ。
僕の頭は、混乱した。
「なんだよ…… なにが可笑しいんだよ……」
「ごめん…… だって…… 美木くんに言わせちゃったんだもん…… ついに…… 好き…… って……」
美咲は、込み上げてくる笑いの合間を縫って言葉を繋いだ。
「絶対に…… 言ってくれなかった…… 好き…… ついに、言わせちゃった」
僕は照れくさくて苦笑いをするしかなかった。
美咲は込み上げてくる笑いをようやく堪え、真顔を繕う。
真顔になった美咲は僕の正面に立つと、両手を包み込むように握った。
「ありがとう……」
言い終えた途端、美咲の耳が赤く染まっていくのを僕は見逃さなかった。
正門からの帰り道、美咲は僕の袖を二度引っ張った。
それに気づいた僕は、慌てて美咲の手を握った。
美咲の細くて、しなやかな指が、出会ったときの記憶を鮮明に蘇らせてくれた。
***
突然、デスクの内線電話が鳴り、突然現実に引き戻された。
相手は、平岡マネージャからだった。
彼は僕の上司だ。
部下には高圧的な態度で接し、上の者には媚び諂う、典型的な中間管理職で、僕は彼の姿が目に入ったり、声が聞えてきたり、彼のオーデコロンの匂いを嗅いだだけで憂鬱な気分になる。
そんな彼からの呼び出しだった。
こういう時は大抵ろくな事がない。
僕はタブレット端末を小脇に抱え、トボトボと会議室へ向かった。
数十分後、重い足取りでデスクに戻るとスマートフォンにLINE通知があった。
確認してみると、それは美咲からで、今週末の約束についてだった。
僕と美咲は次の土曜日、みなとみらいで映画を観て、食事をする約束をしていた。
人気レストランの予約が出来た、という連絡だった。
しかし平岡マネージャからの呼び出しが原因で、週末の約束は果たせなくなってしまった。札幌への出張が突然決まってしまったのだ。
またしてもシステムのトラブル対応だ。
ひとときの安らぎが消え、僕はまた荒波の中に放り込まれる事になる。
美咲の残念がる顔が、目に浮かんだ。
出張へ行く事も、トラブル対応で客に頭を下げに行くのも嫌だが、何よりも美咲との約束を守れない事のほうが堪えた。
僕は早速、美咲へ連絡をする事にした。
悪い情報ほど早く報告する。
これは、この仕事をするようになってから僕の身体に染み付いた習慣だ。
美咲からの返信は、すぐに来た。
ひどく残念がるかと思いきや、案外あっさりと状況を受け入れてくれる。
「仕事なら仕方ないよ。一応、出張の予定だけ聞かせて」
美咲がそう言うので、搭乗便や滞在先、出張のスケジュールなどを知らせた。
すると、それに対する美咲からの返信はひと言。
「じゃぁ、気をつけて行ってきてネ!」
これで、この件に関するやりとりは完結し、何となく僕は拍子抜けした。
翌日、僕は札幌へ飛んだ。
降下していく飛行機の窓から下界の景色を眺めてみると、四月だと言うのに山にはまだたくさんの雪が残っていた。
太陽の光が雪に反射して、明るい景色を作り出していたが、僕の心は暗く、重く、どこまでも沈みこんでいた。
札幌の顧客は、北海道内を拠点にしている金融機関だった。
半年前に導入したシステムに不具合が生じて、そのトラブル対応と改善を命じられたのだ。効率的な改善方法を見出す事ができなければ、トラブル対応のプロジェクトを立ち上げる必要性がある重要案件だった。
しかし現地に入って不具合の状況を調べていくと、部分的な処理の修正と運用方法の提示だけで対応出来ることが判明した。
これならば一週間ほどの滞在で済みそうだ……
システムを止めることができる土日にプログラムの入れ替えを行い、週明けの稼働に立ち会って問題がなければ完了という運びになる。
その旨を会社に報告し、とりあえず今日は、明日行うプログラム入替え作業の準備に取り掛かる事にした。
昼休み、客先の社員食堂でランチをしていると、美咲からLINEが入った。
アプリを開き、内容を確認すると、「これから、行くね」、とだけ書かれている。
これから、行く?
僕は持っていた箸をお盆の上に置き、窓の外の景色に視線を移した。
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