3.居酒屋(2)

 美咲は頬杖をついて、僕の顔を覗き込むと、「それで…… 今はいないの?」、と極端にゆっくり語りかけてきた。

 

 「もう十年以上、一人だよ……」

 僕はためらう事無く言った。

 美咲に伝えたい事のひとつだった。

 「そっかぁ、一人なんだぁー」

 宙に視線を漂わせた美咲の頬が、心なしか綻んだように見える。それは僕の願望かもしれない。でも何と無く美咲から嬉しそうな気配が漂っているように思えた。

 

「ところで、美咲さんはどうなの?」

 僕は、美咲に話題を振った。

 すると美咲は視線をカウンターに置かれていた招き猫に移し、ぽつりぽつりと語り始めた。


 夏休みにニューヨークへ引っ越した美咲は現地で五年間生活し、日本へ帰国してから就職したという。

 帰国後数年して、職場で知り合った男性と結婚……

 しかし結婚三年目に父親が脳梗塞で倒れ、介護が必要な状態になってしまう。

 父親の看病のために家を空けがちになると、それが原因で夫と不仲になってしまい別居、そして離婚。結婚した時は、この人とずっと一緒に暮らし、子供を育て、生涯添い遂げるものだと思っていた。でも離婚が決まった時、それほど失望しなかったのが不思議な感じだったらしい。

 父親の介護は十年以上に及び、一昨年亡くなられたそうだ。

 

 美咲は、感情を表に出さずに淡々と語った。

 時に静かな笑みを浮かべ、ひとつひとつの出来事を他人事の様に振り返りながら、穏やかな口調で語った。

  

 「父さんが倒れてからの思い出は、色が無かった気がするなぁ……」

 そう言ったときの美咲の横顔が、気のせいか少しやつれているように見えた。

 過去の事など聞かなければ良かった、僕は後悔した。


 店の中は、相変わらず騒然としている。

 しかし二人の間には、沈黙が漂った。

 

 僕は、別れてからの美咲の事を色々と想像した。

 高校生の美咲は、活発で、明るくて、男女を問わず誰からも親しまれる人気者だった。

 あの頃の美咲は、誰よりも輝いていたように思う。

 輝いている美咲のまま大人になり、華やかな人生を歩んで、大きな幸せを掴んでいると思っていた。

 だから美咲が辛い人生を歩んで、今にたどり着いたという事実はショックだった。

 それでも、そんな人生をしっかりと受け止めて、健気に生きてきたのだろう。

 目尻に刻まれた皺が、これまでの生き方を物語っているように思える。


 「後夜祭のこと、ごめん……」

 美咲と会う事が出来たら、真っ先に伝えたかった言葉。

 それが沈黙を打ち消そうと思っていた僕の口から零れ出た。


 美咲はぽかんとしていた。

 何の脈略もない話題に、きっと戸惑ったのだろう。

 そして、じわりじわりと頬が緩んでいき、笑顔に変わった。

 「もう、忘れちゃったわ…… そんな昔の事…… でも…… 次の日は目が腫れて開かなかったのよ」

 美咲は悪戯っぽく笑い、僕の顔を覗きこんだ。

 美咲の鼻が、僕の横顔に触れてしまいそうなほど近づいた。

 僕は、美咲の存在をどうしようもないくらい愛おしく感じ、抱きしめたいという衝動にかられた。


 僕は、これまでに何人かの女性と交際してきたが、一度も長続きした事が無い。

 それは、美咲と別れた時に出来てしまった心のすき間を、彼女たちでは、埋める事が出来なかったからじゃないかと思う。

 別れてからずっと、美咲の事を思って生きてきた訳ではない。

 いや、美咲の事が頭の中から離れなかったのはせいぜい数年で、その後は記憶の片隅に置き去りになっていた。

 だけど意識していなくても、やはり心のどこかに美咲は居たんだ。

 僕は、美咲のような女性を無意識に求めていたのではないかと思う。

 

 僕たちは、店内が閑散とするまで、随分と長く語り合った。

 話題は高校時代の楽しい思い出ばかりで、ひとつの思い出がまた別の思い出を呼び、それが延々と繰り返されるという感じだった


 帰り支度をしようとすると、僕のスマートフォンの上に美咲のハンカチが置かれていた。それは偶然かもしれないし、もしかしたら話に水を差さないように、美咲がわざと置いたのかもしれない。

 

 居酒屋を出て駅に向かって歩いている時、僕たちは思いのほか近くに住んでいる事が分かった。お互い横浜市内に住んでいて、最寄り駅は隣同士だったのだ。


 「もしかしたら、どこかですれ違っていたかもしれないね」

 美咲は目を大きくして言った。

 僕たちは、住んでいる街の事を色々と話した。

 利用している場所に、いくつかの共通点があったが、これまで一度も巡り合う事はなかった。


 「もっと、早く会えたらよかったのに……」、と僕が言うと、美咲は、「きっと、今日が一番良いタイミングだったのよ……」、と目を細めて微笑んだ。


 殆ど客の乗っていない車両で空席だらけなのに、僕たちは座らずに、ドアの前に立って話をした。

 電車が揺れると美咲は僕の袖を掴んだ。

 その度に僕の心臓はドキドキした。

 電車に乗っている時間が普段よりも随分と短く感じた。

 

 先に電車を降りたのは美咲だった。

 頭の上で大きく手を振る美咲の口が、「またね……」、と動いたような気がする。

 次に会う時は、「過去の話しではなく、未来の話をしよう」、と僕は心に決めて美咲を見送った。

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