9.別れ(2)
放課後、写真部の暗室から出た僕は、待ち伏せしていた美咲に手を引かれ、誰もいない教室へ連れて行かれた。
いつもよりも美咲の手に力が込められていたような気がする。
西日が差し込む教室では、机や椅子の長い影が伸びていた。
僕たちは廊下側の目立たたない場所を選んで、机を挟んで向きあった。
僕は美咲と視線を合わす事が出来ず、床に伸びている影を見つめた。
美咲の視線が僕に刺さっているのは分かっている。
でも顔を上げる事が出来ない。
美咲は少し苛立っているようだった。
その苛立ちが、煮え切らない僕の態度にある、と言うのは薄々感じていた。
言いたい事、聞きたい事があるのならば、そう言えばいいのに、僕はそうする事を避けていた。悪いのはきっと僕のほうだ、だけど……
少しの沈黙のあと、美咲はふーっと息を吐き、静かに口を開いた。
「美木くん…… わたしのこと…… 避けているよね……」
美咲の声が少し震えていた。
「……」
何か言い返そうと思ったが、返す言葉が思い浮かばず、息を飲み込んだ。
「どうして……」
美咲の口から零れ出た悲しげな響きと高圧的なイントネーション。
それが、僕の心に不快な感情を抱かせた。
どうして……、と問いかけられる事が解せなかったのだと思う。
それは、僕が美咲に言いたい言葉だった。
どうして、僕には何も教えてくれないんだ……
あの時、こみあげてきた不快感には、きっと怒りの感情が含まれていた。
僕は、その感情を必死に抑えようとした。
でも僕の顔には露骨に現れていたのだろう、美咲は一瞬、惑うような表情を浮かべて、「転校のこと、聞いたのね……」、と言って沈み込むように俯いた。
長い沈黙が続き、時間を追う毎にその場の空気は重くなっていった。
「知っているなら、何か言ってくれれば良いのに……」
沈黙を破って、ポツリと美咲が呟いた。
このひと言が、僕の導火線に火をつけたのだろうか。
「何も言ってくれなかったのは、そっちのほうじゃないか!」
抑えきれない感情が迸った。
今になって考えれば、転校の事を教えてくれなかったから僕は不機嫌になったのではないと思う。
美咲が転校する、その事実を受け止め切れなかっただけなんだ。
やり切れない思いの捌け口を、教えてくれなかった、という美咲の態度にすり替えて非難してしまったんだ。
美咲の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
その姿が、あまりにも悲しかった。
いつも笑顔で接してくれた美咲を泣かせてしまった事で、胸が張り裂けそうなほどに痛んだ。
あんなに好きだったのに……
いつまでもずっと一緒に居られると信じていたのに……
僕はその場の雰囲気に耐え切れなくなって、教室を飛び出した。
去り際に、「がんばれよ……」、と言う感情のこもっていない言葉を残した時、美咲との関係が終わる音が聞えた。
キーン、という耳鳴りのような音。
遥か彼方から聞えてくる音源の無いその音が鳴り止むのと同時に、黒い幕が下りてくるような気がした。
それからの一ヶ月は一度も会う事がないまま月日が過ぎた。
七月に入って、文化祭の準備が忙しかったせいもある。
しかし、お互いが避けようとしていた、というのが正直なところだろう。
僕は美咲が嫌いになった訳じゃない。
未熟な僕が、自分の感情をうまくコントロールできなかっただけなんだ。
本当に些細な事だったのに……
文化祭の三日前、美咲から連絡があった。
僕の下駄箱に、一通の手紙が入っていた。
手紙には、ニューヨークへ引っ越す事になった経緯や、それを僕に伝えられなかった詫びの言葉が書き綴られ、最後に、「後夜祭で会いたい」、という一文が添えられていた。
後夜祭とは文化祭最終日の夕方、体育館で行われる打上げのようなイベントだ。
しかし、意固地になっていた僕は、美咲と会わなかった。
心に出来てしまったしこりを、どうしても解消する事ができなかったのだ。
関係を修復する切っ掛けを美咲が作ってくれたのに、それを不意にしてしまった。
こうして僕は最後のチャンスを失ってしまう。
そして残りの高校生活は、完全に色を失った。
なぜ美咲は、僕を後夜祭に誘ったのだろう……
もう一度、言葉で説明したかったのかもしれない。
引っ越した後の事を相談したかったのかもしれない。
もしかしたら、高校生活最後の思い出を作ろうと思ったのかも……
僕は、美咲の思いを踏みにじってしまった。
後夜祭の会場、本当に美咲は僕が現れるのを待っていたのだろうか……
どんな気持ちで待っていたのか、そんな事を想像すると、今でも胸が苦しくなる。
あの時の後悔、それに自らが作り出した心の傷は、未だに消えない。
出来る事なら、美咲に会って謝りたい。
今さら、やり直す事なんて出来ないのは分かっている。
でもせめてわだかまりを無くし、高校時代の思い出を綺麗な形で残したい。
美咲に対する僕の思い、それはとても深いものだったのだから……
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