2.出会い
小川美咲との出会いは高校の入学式だった。
前日の夜中まで降っていた雨が上がり、青空が広がり始め、時折爽やかな風が吹く……
そんな朝だったと記憶している。
僕は駅からバスに乗り、高校前のバス停で降りて校門に向かって歩いていた。
校門前には花飾りで縁取られた入学式の看板が立てられていて、僕はその看板に気を取られて一瞬立ち止まった。
そして再び歩き出そうと思った瞬間、背中に人がぶつかったのを感じた。
急に立ち止まってしまった事に非を感じ、反射的に、「すいません!」、と声を発すると、ほぼ同時に、「あー!」、という女性の叫び声が背後から届いた。
湧きあがって来る罪悪感・・・・・・
ポチャンという音を立てて水溜りに落ちた桜色の定期入れが、晴れやかだった僕の心に影を落とした。
後ろを歩いていた女性が僕に追突して、その拍子に落としてしまったのだ。
僕は水溜りに落ちた定期入れを慌てて拾った。
定期入れからは水が滴っていた。
上目遣いで彼女に視線を送ると、彼女は唇に人差し指を当て、困ったような顔をしている。
このまま返す訳にはいかない、そう思った僕は、拾い上げた定期入れを学生服の袖でふき取り、「ごめんなさい」、と頭を下げて、彼女に手渡した。
彼女は笑顔を浮かべて、「ありがとう」、と言ってくれた。
その声は明るく澄んでいて、怒っている様子など微塵も感じられなかった。
安堵した僕は、その場を去ろうとした。
すると彼女は動き出そうとした僕の左手を掴み、ポケットから取り出したハンカチで濡れている袖を拭き始めたのだ。
僕の左手は彼女に握られていた。
細く、柔らかく、少しひんやりとした手……
僕はその状況を受け止めきれず、呆気にとられた。
それはきっとわずかな時間だったに違いない。
でも、それがとても長く感じられた。
あの時、彼女が魅せてくれた笑顔と指の感触は、今でも鮮明に思い出せる。
それが小川美咲との出会いだった。
彼女の想定外の行動に僕は動揺した。
濡れた袖をハンカチで拭いてくれた事ではなく、彼女が僕の手を握った事に戸惑ったのだと思う。
彼女の指の柔らかさ、それに彼女の笑顔は、それまでの人生で味わった事が無い、胸の奥が疼くような、呼吸が苦しくなるような、それでいて心が沸き立つような不思議な感情をもたらせた。
結局、礼を言うこともできずに恥ずかしい気持ちを抱えて、僕はその場を離れた。
暫くして気づいた事だが、ときめき、という言葉の意味を知ったのは、この時だった気がする。
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