第1問 フィギュアメイカー(1)
1
僕の朝は、妹の
「お兄ちゃん、起きた? じゃもう切るからね。電話代もったいない」
「まだ一円分も話してないよ」
「一円がもったいない」
優しい返事を聞きながら、カーテンを引くと快晴だった。太陽の光が窓を通していてもなお、まぶしく目を刺してくる。いまこの瞬間だけは、世界のどこにも悲劇なんて起きていないのではないかと、そう思わせる空。
「譜美、もう切っちゃうなんてさびしい」
「きもい。モーニングコールしてるだけで奇跡だと思って」
「朝、真っ先にきくひとの声が妹のものでありたい」
「本気でやべえなうちの兄は」
大学入学と同時に一人暮らしを始めて、その寂しさに耐えられる理由の一つが、この朝の時間だ。妹と話ができる朝が、僕の一日における幸福のピークといってもいい。本当は一人暮らしなんてしたくなかったけど、親に自立を促され、仕方なく二階建てのこのアパートに暮らし始めた。ちなみに僕の一人暮らしを特に強く勧めてきたのは妹だった。
「中学と高校は皆勤賞まで取ってたのに。いきなりこんなふ抜けになるなんて」
「朝、譜美と会えなくなったからだ」
「そういえば、お母さんが何か必要なものはあるか聞けって言ってた」
「食べ物ならぜんぶ大歓迎。譜美が運びにきてくれてもいいよ」
「あ、インターホン鳴ってる。誰かきたみたい。出ないと」
「そっけないなぁ」
「嘘じゃないってば」
口調から察するに、どうやら本当に間の悪い郵便配達員がきたらしい。
「母さんか父さんはいないの?」
「お父さんは仕事。お母さんはご近所さんの家で雑談中。本当に切るね、ばいばい。ちゃんと大学行きなよ」
無遠慮に電話が切られた。耳元から妹の声が離れて、とたん、さびしさにつぶされそうになる。時間をおいて、かけなおそうかと考える。嫌がる譜美の口調が想像できた。そこも魅力だ。
妄想していたら、ちょうどこちらもインターホンが鳴った。電池を交換していないので、僕の部屋のインターホンは、途中でいつも音がかすれる。
はい、と短く返事をして玄関に向かう。注文していた荷物でもあっただろうか。ふと、向こうから一向に声が聞こえないことに気づき、少し不思議に思った。「荷物です」も、「郵便です」の声もない。
ドアを開けると、立っていたのは男性で、そのひとは郵便配達の制服を着ていなかった。身につけている黒のスーツが、背後の青空と濃いコントラストをつくっていた。
「
「あなたは?」
凛々しい瞳と、面長の顔。オールバックの髪。その高い背丈からつくられる影は、僕の存在を丸ごと飲み込んできそうだった。
「野村朝顔という。東京地方検察庁刑事部のものだ。きみに、ついてきてほしいところがある」
「け、検察?」
野村朝顔さんは革の手帳のようなものを開き、身分を証明してくる。飛び込んでくるのは、東京地方検察庁の文字。それから彼の名前と、顔写真。開かれた手帳は一向に閉じられない。僕が本物であると納得するまで、このひとは延々と、このまま掲げているのではないかと思った。
冗談みたいな登場と、冗談みたいな名前。朝顔。小学生のころから触れてきた、親しみのある花の名前に反して、本人は笑みを浮かべることを、何かの法律で禁止されたような雰囲気がある。そんな検察のひとが、なぜ朝から僕の部屋の扉の前にいるのだろう。
「……ぼ、僕、何もやってません」
「わかっている。きみのことは調べつくした。悪いが、こちらも時間がない、無理にでもついてきてもらえるか?」
そこからのことはよく覚えていない。頭がパンクした。準備をしろというので、最低限の着替えをすませた。途中、シャツが後ろと前で逆になり、手間がかかった。
「携帯は持って行ってもいいんですか?」
「置いていってもらえると助かる。もしくはこちらで預からせてもらう」
「財布は?」
「すまないが、それも置いていってくれ」
「僕、本当に覚えがなくて」
「大丈夫。用件が終われば、ちゃんと家まで送り届ける」
本当だろうか。もう二度と帰ってこられないのではないか。怖くてたまらなかった。
アパートの階段を下り、駐車場に停まっている黒塗りの車に乗せられる。隣の一軒家の窓から、アパートの大家さんが顔をのぞかせていた。目が合うと、ぴしゃりと窓を閉められた。普段は貧乏学生の僕に、畑で取れた野菜をおすそわけしてくれる優しいおじいちゃんだが、今回ばかりは助けてくれそうになかった。
野村さんが運転席に乗り込む。後部座席でシートベルトを着けると同時、行き先も告げられず、車が出発した。
僕と野村さんの乗った車の後ろを、三台ほどの車がついてくる。車種も色もすべて同じ。機械的で、統率のとれたその後続の仕方が、すごく不気味だった。知っている町、知っている道、知っている路線、知っている道路、次々と通り過ぎ、離れていく。いまごろは電車に揺られ、大学に向かっているはずだった。
車が高速道路に入ったところで、ようやく野村さんが口を開いた。
「これから向かうのは拘置所だ」
「こ、拘置所? 待って下さい! やっぱり何かの勘違いだと思うんです。お願いですから、親に一度電話を……」
「落ち着いて。誰もきみを収容したりしないし、できるわけない。悪いことをしていないのも知っている。きみにはむしろ、いま悪いことが起きているのを食い止める手伝いをしてほしいんだ」
「手伝い?」
罪に問われることがないと言われた安心感に浸る間もなく、野村さんは本題に入る。バックミラーごしに合ったその目に、思わず、圧される。
「ある受刑者が、きみと話すことを条件に、重大事件の手がかりを明かすと言っている」
「受刑者?」
僕は訊く。
「そのひとがいま拘置所に?」
「そう。だからいま、彼女が収容されている拘置所に向かっている」
「……いったい誰ですか?」
知り合いに犯罪者なんていない。しかも、彼女と言った。相手は女性らしい。なおさら思い当たらない。野村さんは絶対に人違いをしていると思った。
いまからでも遅くない。僕の身分をちゃんと説明して、アパートに送り返してもらうようにしよう。そして大学に通う。講義に遅れたことを妹に報告して、あきれた声で怒られたい。そしてこの小さな物語を聞かせよう。
訂正しようと口を開きかけたところで、野村さんはその名前を告げた。
「
「……あ」
知り合いではない。
けれど、顔は知っていた。
名前も知っていた。
それはここ数年、注目され続けている死刑囚の名前だった。
テレビや新聞、ネットのニュースで、その名前を見ない日はない。この国で生きていれば、どんなに時事に疎いひとでも、彼女の名前をどこかで知ることになる。
「約二年前、殺人を犯し逃亡を続けていた風見多鶴は、とつぜん出頭した。年齢は不明、出身地も不明、健康保険証も免許証もなく、国籍すらもなかった。国が彼女に死刑を適用するために、強引に国籍を再発行した」
「そのひとが、どうして僕を知っているんですか」
「無責任な回答で申し訳ないが、いまはわからない。彼女のことに関しては、不明なことが多すぎる」
「わ、わからないって……」
知り合いや友人が殺されたこともない。僕と風見多鶴に接点はない。高校生のころ祖父が亡くなったが、それは誰かの悪意が割り込む余地のない、純粋な自然死だった。殺されたわけじゃない。そうであれば気づく。
彼女が注目されるきっかけになったのは、その殺し方。
『風見多鶴のつくりあげる死体はアートである。』
メディアはよく、そんな文言で取り上げていた。
死体を芸術作品にする殺し方で、風見多鶴は八九人を殺害した。
「きみにとってはあまりにも突然のことだし、混乱して当然だ。だけどわかってほしい。もうこれしか、方法がないんだ」
少しずつ、事態の重さを飲み込んでいく。
何か大きな力にからめとられている気がした。個人の意思が通ることも、尊重されることもない、巨大な力。後戻りはできず、僕に拒否権はない。
「風見多鶴がきみを指名した。世界でただ一人、きみを指名した」
車が高速を降りる。
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