春霞:心緒を得ゆⅠ
side:莉冬
3月末。
入学式を数日前に控えたある日の事。
卒業式の日に訪れたケーキ屋には立ち寄れずにいた。
ケーキ屋の傍を通ることはあった。そのたび綺麗なガラス窓から見える景色は、色んなお客さんと綺麗に笑うあの店員さんの姿だった。
お店から出てくる人の話している声が耳に入って、店員さんの名前が、甘露寺さんということを知る。
とても人気なケーキ屋で、きっとあの時の自分の事なんて記憶から忘れられているだろう。
そう思って、何を考えてるんだろうと自分自身に疑問が募る。
他人に対してそういった感情を抱いたことなんてなくて、不思議な気持ちになる。
ケーキ屋に行った日から、頭に甘露寺さんの事が時々思い浮かぶ。
またきます。そう言ったものの、元々ケーキをそんなに食べるわけでもなく、頻繁に行くのもなんだか気が引けて、3週間になろうとしていた。
パタンと読んでいた参考書を閉じる。
悩んでいても仕方がない。今日は甘いものが食べたい気がするし、ケーキを買いに行こう。
そう思って、コートを羽織って、少し肌寒い外へと足を踏み出した。
たどり着いたケーキ屋は、いつも通りにぎわっていた。
女性客が多いのも知っていたから、一人で入るのは少し勇気がいる。
できるだけ、静かに。そう思ってもドアについたベルが来店を知らせる。
「いらっしゃいませ~。」
柔らかな声が降ってきて、視線を向ければ、初めて会ったときと変わることなく、にっこりと優しく笑う甘露寺さんが、そこにいた。
パチリと目が合ったので、慌ててお辞儀する。
彼は、他のお客さんに声をかけられてそちらに視線をやる。
「ねぇねぇ一夏くん!この新作のケーキは?」
「チーズケーキが好きだったら、気に入ると思いますよ~。あっさりしてて食べやすいと思います~。」
「一夏くんがそういうなら買っていこうかしら。あと、ガトーショコラも。」
「わかりました~。少々お待ちくださいね~。」
そう広くない店内でお客さんと話す声を聴きながら店内の焼き菓子コーナーを見て回る。
-甘露寺 いちかさん。漢字はどんな字なんだろう?
そんな風に考えながら、ふとマドレーヌが目に留まる。
(ほら、莉冬。今日のおやつはマドレーヌよ。貝殻の形でかわいいでしょう?)
ふと、お母さんの声が頭をよぎる。
小さい頃、お母さんが焼いてくれたんだよなぁ…と、1つ1つ綺麗にラッピングされたそれを手に取る。
チョコとプレーンを1つずつ。買って帰ろうと思って店内に意識を戻せば。
気がつけば、店内は僕以外のお客さんはいなくなっていた。
店内には穏やかなBGMが流れていて、先ほどまでのにぎやかさが嘘のようだった。
『あの…』
僕がレジに向かえば、甘露寺さんはマドレーヌを受け取る。
「また来ますっていったのに、中々来ないな~って思ってたよ。こんにちは~。」
また来るって言ったの、覚えていてくれたんだ、と心がポカポカする感覚を覚える。
『あ、えっと、こんにちは。あんまり、ケーキ屋さんとか、入ったことなかったので、女の人多いし、緊張して。』
「緊張って…。ケーキ買いに来るだけなのに大げさだよ~。」
僕の答えに面白そうに笑って、レジのボタンを押す。
「今日はケーキは~?買っていく~?」
そう言われてショーケースの中に並ぶ綺麗なケーキを眺める。
どれもおいしそうで、パッと決められそうにない。
『あの、甘露寺さんのおすすめのケーキ、ありますか?』
そう尋ねれば、目を瞬かせてこちらを見る甘露寺さん。
「あれ?俺名前教えたっけ~?よく知ってたねぇ~。」
『他のお客さんが、読んでいたの聞こえてきて…』
慌ててそう返す。確かに名前知られてるなんてびっくりさせてしまったのかもしれない。
「それもそうか~お店そんなに大きくないもんね~。君は?何て名前なの~?」
大して気にした様子もなく、甘露寺さんは僕の名前を尋ねる。
『僕ですか?僕は、白羽根 莉冬です。』
「そっか~。よろしく~莉冬くん。知ってるかもしれないけど、俺、甘露寺 一夏ね~。」
『あ、はい。よろしくお願いします。』
「というか、おすすめのケーキだったよね。ごめんね~。この時期は苺のケーキがおいしいから、ショートケーキとか、どう?シンプルでおいしいよ~。」
甘露寺さんが、莉冬って名前を呼んでくれて、笑ってくれる。
それだけでなんだか暖かい気持ちになる。
教えてくれたショートケーキ。綺麗な赤色の苺が宝石みたいにキラキラしているように見えて。
『じゃあ、ショートケーキを1つ、ください。』
「わかりました~。じゃあちょっと待っててね~。」
箱にケーキをつめていく姿をつい目で追ってしまう。
「もうすぐ大学始まるんじゃない?最近は準備とかで忙しいのかな?」
『えっと、そうですね…。勉強は嫌いじゃないので、参考書を読んだりしてます。』
「へぇ~そっかぁ~。それは、えらいねぇ~。…はい。お待たせしました~。」
人から褒められるのなんて久しぶりだった。
手渡された袋を受け取って見てみれば、注文していないクッキーが入っている。
『あの、これ…。』
「ん~?頑張ってる莉冬くんへのご褒美~。…なんてね。お店で形が少し崩れちゃったのをサービスでプレゼントしてるんだ~。気に入ったら次にでも買ってね~。」
『ありがとうございます。大事に、食べます。』
冗談でも、頑張ってるって言ってもらえて嬉しい。
甘露寺さんと話していると、とても暖かい気持ちになる。不思議だ。
『また、来ます。』
ペコリと頭を下げて、ケーキ屋を後にする。
「気を付けて帰ってね~。」
そう言ってニコニコ笑って見送ってくれる甘露寺さんにもう1度頭を下げれば、前を見て歩く。
-次ゆっくり話せるときは、名前の漢字なんて書くのか聞こう。
次が楽しみだなんて、こんな気持ち久しぶりに感じた。
また、買いに行ったら、この不思議な気持ちの答えが出るのだろうか。
家に帰って食べたショートケーキはとてもおいしくて、僕にとって1番のケーキになった瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます